カール・リヒター
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カール・リヒター(Karl Richter, 1926年10月15日 - 1981年2月17日)は、ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者。20世紀を代表するバッハ演奏家の一人。バロック音楽を主なレパートリーとする演奏家としては異例の大きな名声を得た。しばしばバッハ演奏の真打ち的存在として評価・言及される。
目次 |
[編集] 略歴
ドイツ・ザクセン州のプラウエンに牧師の子として生まれたリヒターは、ライプチヒの聖トーマス教会のカントルであったカール・シュトラウベとギュンター・ラミンに学び、1950年のオルガン・コンクールで、首席をアマデウス・ウェーバージンケと分け合う。当初東ドイツで活動し、伝統の後継者と目されていたが、社会主義統一党の支配に対して自由な活動の場を求め、次第に西ドイツのミュンヘンで活動するようになる。1951年、ミュンヘン国立音楽大学オルガン科にポストを得、同年ミュンヘン・バッハ管弦楽団、1955年にミュンヘン・バッハ合唱団を組織する。1956年、ラミンの没後、トーマス教会からのカントル就任要請を断り、完全に西ドイツに活動の本拠を移す。ドイツ・グラモフォンがアルヒーフレーベルによる音楽史を構想した当初、バッハのカンタータはフリッツ・レーマンらによって担当されていたが、レーマンが1954年に演奏中に急死したため、数人の指揮者による分担を経て、結果的にリヒターがその後任となり、20年以上をかけて約70曲の録音を残している。この彼のライフワークは、受難曲、オラトリオの録音とともに彼の名声を大きく支えている。1964年ミュンヘン市から演奏芸術奨励賞。1969年の来日公演では非常な絶賛を博し、さながらバッハを布教しにきたかのような観があった。生涯最も感動したコンサートとして、1969年のマタイ受難曲やミサ曲 ロ短調をあげる日本のファンも少なくない。1979年にも単身で来日し、オルガンとチェンバロのリサイタルを開いた。1981年2月17日、心臓麻痺によってこの世を去った。
[編集] 評価
リヒターの初期の演奏は、清新な叙情性とルター派の禁欲的信仰の幸福な結合によるもので、世界的な評価を獲得し、「バッハの使徒」とまで呼ばれたが、晩年は健康の衰えとともにロマンティックになり、やや主情的なきらいもみられるようになったと言われる。
アーノンクールに代表される古楽派の台頭以降も、通奏低音でヴィオラ・ダ・ガンバを使用する程度にとどまったリヒターの演奏スタイルは、晩年にいたってしだいに過去のものとなっていた。厳正な構築性や熱烈な感受性に裏打ちされた力強い演奏には根強い支持者が多く存在しているが(ペーター・シュライアーやディートリヒ・フィッシャー=ディースカウなど)、古楽派の隆盛を見ている今日、モダン楽器による強い自己主張を辞さなかったリヒターへの一般的評価はいまだ過渡期にある。
さらに、ミュンヘン国立音大でのオルガン科の教授としての経験はあるものの、テキストクリティークの発達で、いわばバッハ像を脱構築するようになっていった音楽学の発達とはあえて離れ、バッハ作品の演奏ではいわゆる旧バッハ全集を使用していたため、欧州では評価が二分されている(リヒター自身は、音楽的能力のない音楽学者が多いと苦言を呈していた。リヒターが新全集を用いなかったのは、音符の書き方が不明瞭なところの扱いなどに関して、学問的な可能性による判断よりも特定の音楽家の主観的判断が優先されているからだと、青澤唯夫へのインタビューに答えている)。
[編集] 録音
代表的な録音にバッハ「マタイ受難曲」(1958年・アルヒーフ。以下同じ)があり、数多い同曲の録音中の決定的名演として知られる。また前述のバッハ・「教会カンタータ選集」(75曲)はクラシック音楽の録音史上における最大の偉業の一つに数えられている(カンタータは、リヒター自身、バッハの魅力はカンタータに尽きると語り、最も重視したジャンルであった)。バッハの世俗の楽曲ではチェンバロ協奏曲全集(1968~72年)、オルガン曲集(1963~79年)、ブランデンブルグ協奏曲全集(1967年)などが名高い。また最近は眠っていた映像作品のいくつかがDVDで発売され、人気を新たにしている。
リヒターはアルヒーフ以外にテレフンケン(旧テルデック)にもある程度の録音を残している。特にリヒターの最初期のものの多くはテレフンケンからリリースされている。しかしリヒターが自身のゆるぎないスタイルを確立するのは、アルヒーフへのデビューとなった1958年のマタイ受難曲からで、それ以前のものは、師であったシュトラウベやラミンの影響によってか、ほとんど別人の演奏のように聞こえる。しかしこれらの演奏にもやはり、強い充実した生命感があふれてはいる。なお、リヒターは1965年からはドイツ・グラモフォンと専属契約を交わし、以降全ての録音を行うことになるが、パルティータ全曲(1960年)、モーツァルトのレクイエム(1960年)など、テレフンケンにしか残されていない録音もある。
レパートリーの大半を占めたバッハ以外にも、ヘンデル、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、グルックなどの録音が残されているが、彼のロマン派への意欲を示すものとして特にブルックナーの交響曲第4番(放送用音源)が注目される。早世していなければ、ロマン派以降の大編成の作品の記録を残していた可能性が考えられる。
[編集] 録音についての付記
シュトラウベやラミンが教会での聖楽奉仕者としての側面が強かったのに対し、リヒターは管弦楽曲や協奏曲の録音も残すことで、聖俗両方の世界を表現することになった。これは、第2次大戦後のLPレコードとステレオ録音の発達によるところも大きい。すなわち、音質のクリアさは、通奏低音のチェンバロや、リコーダーのような音量のあまり出ない古い楽器の録音に適しており、それ以前のSPレコードでは長大な宗教音楽の録音も難しいことであった。
[編集] 参考
- 『名指揮者との対話』 青澤唯夫(2004年・春秋社)p.110~118
- 『自伝 フィッシャー=ディースカウ 追憶』 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ 實吉春雄・田中栄一・五十嵐蕗子=共訳 (1998年・メタモル出版)p.220~222