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ジェームズ・クック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クックの公式肖像画 海軍博物館(ロンドン)所蔵
クックの公式肖像画 海軍博物館(ロンドン)所蔵

ジェームズ・クックJames Cook, 1728年10月27日 - 1779年2月14日)は、イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図製作者。キャプテン・クック。庶民からイギリス海軍の海軍大佐 (ポスト・キャプテン) に昇りつめ、太平洋に3回の航海を行い、ヨーロッパ人として最初にオーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し (第二回航海)、ニューファンドランド島ニュージーランドの海図を作製した。史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた (第一回航海)。

10代を石炭運搬の商船隊員として過ごした後、1755年イギリス海軍に入隊、7年戦争に加わった。ケベック包囲戦では、戦艦の航海長としてセントローレンス川の河口域を綿密に測量し海図を作成した。海図はウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功を導き、クックの存在はイギリス海軍省と王立協会に注目されることとなった。クックは南方大陸探索の命を受けて、三檣帆船エンデバー号を指揮し、1766年に第一回航海に出帆した。

クックは多数の地域を正確に測量し、いくつかの島や海岸線をヨーロッパに初めて報告した。クックの幾多の偉大な功績をもたらしたのは、卓越した航海術、すぐれた調査と地図作成技術、真実を確かめるためには危険な地域も探検する勇気(南極圏への突入、グレートバリアリーフ周辺の探検など)、逆境での統率力、海軍省の指令の枠に納まらない探検範囲と気宇の壮大さ、これらのすべてであったと言えよう。

第三回航海の途上、ハワイで先住民との諍いによって1779年に落命した。

目次

[編集] 生い立ち

クックは、イギリスノースヨークシャー州マートンに生まれた。スコットランド人の父とマートン生まれの母の下、5人兄弟であった。父が農場の農事監督の職を得たため、家族と共にグレートアイトンの農場に移り、父の雇い主から学資を得て学校に通った。13歳になり父と共に働き始めた。16歳になったクックは、漁村ステイテスの雑貨店で徒弟奉公をするために家を出た。奉公中に店の窓の外を眺めているうち海に魅せられたという。

1年半の後、店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィトビーのウォーカー兄弟にクックを紹介する。ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。クックはイギリス沿岸の石炭運搬船団の見習い船員として雇われた。この間、操船に必要不可欠な代数学、三角測量法、航海術天文学の勉学に励んだ。

3年間の徒弟奉公を終えたクックはバルト海の貿易船で働き始めた。商船船員として順調に出世し、1752年に航海士となったのを皮切りに、1755年には同じ船の航海長になった。しかしひと月も経たぬうち、クックはAB (熟練有資格甲板員)として イギリス海軍に志願入隊する。

1755年大英帝国7年戦争に備えて軍備を強化していた。軍務の方がより早くキャリアが上がるだろうとクックは考えたらしい。これでまた下っ端からやり直しとなったのだが、クックは瞬く間に航海長に昇進した。1757年には、国王が乗船する艦船の操船を許可される試験に入隊からわずか2年で合格した。

[編集] 家族

当時としては晩婚の34歳で13歳年下のエリザベス・バッツ (1742-1835)と1762年に結婚し、6人の子供 ジェームズ (1763-1794)、ナサナエル (1764-1781)、エリザベス (1767-1771)、ジョゼフ (1768-1768)、ジョージ (1772-1772) 、ヒュー (1776-1793) をもうけた。陸での住まいはロンドンのイーストエンドであった。息子のうちジェームズとナサナエルは父クックにしたがって幼少からイギリス海軍に入隊し、ヒューは聖職者となったが、皆早世した。

[編集] 海軍でのキャリア

ジェームズ・クックの探検によるニューファンドランド島地図、1775年
ジェームズ・クックの探検によるニューファンドランド島地図、1775年

7年戦争でクックは、1759年ケベック包囲戦に加わった。そこで地理調査及び海図作成の才能を発揮したクックはセントローレンス川河口の測量と海図作成を任され、包囲戦の趨勢を決したウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大いに寄与することになった。

ニューファンドランド島の入り組んだ海岸の地図を作成するなど、1760年代にはクックの能力は平時の役にも活かされた。1763年1764年に北西部、1765年1766年にブリン半島とレイ岬の間の南岸、1767年に西岸をクックは測量した。クックの5年にわたる調査によって、ニューファンドランド島の海岸線の大規模かつ正確な地図が初めて製作された。クックにとっても実地調査に精通する機会となるとともに、イギリス海軍省とイギリス王立協会に注目されるきっかけとなった。

ニューファンドランド島での奮闘を終えた、まさにその時、クックは記した。

「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」。

[編集] 第一回航海(1768年 - 1771年)

[編集] タヒチへ

1766年王立協会はクックを金星の日面通過の観測を目的に南太平洋へ派遣する。クックは海軍大尉に任命され三檣帆船エンデバー号の指揮を委ねられた。エリート出身ではないクックの大尉昇任は異例のことであった。エンデバー号はウィトビーで造船された石炭運搬船で、大きな積載量、強度、浅い喫水、どれを取っても、暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。クックは1768年にイギリスを出帆し、ホーン岬を回って太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチ1769年4月13日に到着した。日面通過は6月3日で、クックは小さな居館と観測所の建造を行った。

観測を担当したのは、王室天文官 (グリニッジ天文台長) ネヴィル・マスケリンの助手、天文学者チャールズ・グリーンであった。観測の目的は、金星の太陽からの距離をより正確に算出するための測定であった。もしこれが成功すれば、軌道の計算に基づいて、他の惑星の太陽からの距離も算出できるはずであった。金星の日面通過の観測当日、クックはこう記している。

「6月3日土曜日。本日は期待通り観測に好適な日和となり、雲一つなく、空気は完璧に澄んでおり、金星の日面通過の全経路の観測にはあらゆる好条件が備わっていた。金星を取り巻く大気あるいは薄暗い影があまりによく見えたので、金星と太陽の接触、とくに第2接触の時刻の観測がきわめて困難になってしまった。ソランダー博士とグリーンと私は同時に観測したが、それぞれが観測した接触時刻は思っていたよりもかなりずれていた」

残念なことに、グリーン、クック、ソランダーがそれぞれ別に行った観測は誤差の期待範囲を越えていた。観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。観測結果は別の場所で行なわれた結果と後に比較検討されたが、やはり期待したような正確な観測結果ではなかった。

[編集] タヒチからニュージーランドへ

天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての秘密指令を開封した。それは、海軍省の追加命令にしたがって、伝説の南方大陸(Terra Australis )を求めて南太平洋を探索せよ、という指令であった。金星観測 (しかもエンデバー号のような目立たない小さな船で) を隠れ蓑にすれば、イギリスにとって今航海は、ライバルのヨーロッパ諸国を出し抜いて南方大陸を発見し伝説の富を手に入れる絶好の機会となろう、と王立協会は考えたのである。この説のとくに熱心な信奉者が王立協会会員のアレキサンダー・ダルリンプルであった。

南太平洋の地理にきわめて詳しいトウパイアというタヒチ人の助力を得て、1769年10月6日クックはヨーロッパ人として史上2番目に (1642年アベル・タスマン以来) ニュージーランドに到達した。クックは、いくつかの小さな誤り (バンクス半島を島としたり、スチュアート島を南島の一部と考えるなど) はあるものの、ニュージーランドの海岸線のほぼ完全な地図を作製した。また、ニュージーランドの北島と南島を分ける、アベル・タスマンは見落とした、クック海峡を発見した。

ニュージーランドのクック海峡
ニュージーランドのクック海峡

[編集] ニュージーランドからオーストラリアへ

クックは航路を西に取り、伝説の南方大陸の一部をなしているのか否かを確かめる目的で、ヴァン・ディーメンズ・ランド (今日のタスマニア) を目指した。しかし、エンデバー号は暴風で北寄りに流され、1770年4月20日金曜日、後にクックがヒックス岬と命名した陸地を目撃するまでそのまま航行した。計算によればタスマニア島はそこより南に位置しているはずだったが、南西に伸びる海岸線が目撃されたことから、この陸地はタスマニア島に繋がっているのではないか、とクックは疑った。この岬はオーストラリア大陸の南東海岸に位置し、結果として、クックの探検隊はオーストラリア大陸の東海岸に到達した史上初のヨーロッパ人となった。

クックが発見した陸標は、ビクトリア州南東岸のオーボストとマラクータのほぼ中間の岬であるとされる。1843年に行われた調査ではクックの命名が無視されたか見過ごされたため、岬には別の名前が命名されていたが、オーストラリア発見200年記念祭の折に、公式にヒックス岬と名称回復された。

エンデバー号は海岸線に沿って北上を続け、クックは測量と陸標の命名を次々に行った。1週間余り過ぎた頃、一行は大きな浅い入り江に入り、砂丘に覆われた低い岬の沖に停泊した。そここそ、4月29日に、クック一行がオーストラリア大陸に初めて上陸した、現在ではカーネルとして知られている場所である。多くのエイが見られたために、この入り江はクックによってアカエイ湾と命名されたが、後に植物学者湾と改称され、最終的には、博物学者のジョセフ・バンクス、ヘルマン・スペーリング、ダニエル・ソランダーによって採集された例を見ない貴重な植物標本を記念してボタニー湾(植物学湾) となった。博物学者たちは、後にオーストラリアの動物相と植物相に関する最初の科学論文を上梓した。

一行の最初の上陸地は、入植地およびイギリスの植民地の前哨基地にうってつけの候補地として(特にジョセフ・バンクスによって)、後に喧伝された。しかし、ほぼ18年後1788年のはじめに、前哨基地と囚人の入植地を設置するために、アーサー・フィリップ艦長率いる第一艦隊がオーストラリアに到着した際、ボタニー湾は聞いていたほど有望ではないとフィリップは判断し、代わりに北へ数キロメートルの上陸地へ移動した。そこはクックがかつてポートジャクソンと名付けたが、それ以上の探検はしなかった場所であった。フィリップはその場所をシドニー岬と名付け、シドニーの入植地が設置された。しかし、その後もしばらくは入植地はボタニー湾入植地と呼び習わされた。

最初の上陸の際に、クック一行はオーストラリア先住民のアボリジニと接触している。

海岸線を測量しながらクックは北へ船を進めた。1770年6月11日グレートバリアリーフの浅瀬にエンデバー号が乗り上げ大破したため、砂浜で修理が行われ航海は7週間の遅れを生じた (そこはエンデバー川の河口、現在のクックタウンの船着き場の近くである)。その間、バンクス、スペーリング、ソランダーはオーストラリアの植物の最初の大規模な採集を行った。乗組員と当地のアボリジニの人々との遭遇はおおむね平和的であった。当地のアボリジニが話したオオカンガルーを指すGuugu Yimidhirr語方言gangurru から、"カンガルー" が英語の仲間入りをした。

[編集] オーストラリアから帰国

船の修繕を終えると直ちに航海は続けられ、クック一行は、ヨーク岬半島の北端を通過し、オーストラリアニューギニアの間のトレス海峡を抜けた。ヨーク岬半島を巡って、オーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認すると、クックは1770年8月22日にPossession Island に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。

この航海でクックはただ1人の船員も壊血病で失わなかったが、これは18世紀においては奇跡的な成果であった。1747年に導入されたイギリス海軍の規則に則って、クックは柑橘類ザワークラウトなどを食べるように部下に促した。クックが部下にこれらの食物を摂らせた方法は、指導者としての彼の優れた資質をよく物語っている。当時の船員は新しい習慣には頑強に抵抗したので、最初は誰もザワークラウトを食べなかった。クックは一計を案じ、ザワークラウトは自分と士官だけに供させ、残りを望む者だけに分けてみせた。上官らがザワークラウトを有り難く頂戴するのを見せると、1週間も経たぬ間に、自分らにも食べさせろという声が断りきれぬほど船内に高まった、とクックは日誌に記している。

その後、一行は船の修繕のために、オランダ東インド会社の本拠地があるバタヴィアへ向かった。バタヴィアではマラリア赤痢が猖獗をきわめており、1771年に一行が帰国するまでに、タヒチ人のトウパイア、バンクスの助手を務めたスペーリング、植物画家のシドニー・パーキンソンなど、多くの者が病を得て亡くなった。出発からバタヴィアまでの27ヶ月の航海ではわずか8名だった死者は、バタヴィア滞在中の10週間とバタヴィアからケープタウンまでの11週間に31名に達してしまった。

1771年6月12日午後、エンデバー号は南イングランドのダウンズに投錨し、クックはケントで下船した。スペースシャトルのエンデバー号、またエンデバー川は、この第1航海におけるクックの船の『エンデバー』にあやかっている。

帰国すると直ぐ航海日誌が出版されクックは科学界でも時の人となった。しかし、ロンドン社交界でクックの数層倍の人気者となったのは、貴族階級の博物学者ジョセフ・バンクスだった。バンクスはクックの第二回航海にも同行する予定だったが、船の構造に不満を爆発させ直前で自ら任を降りた。

[編集] 第二回航海(1772年 - 1775年)

第一回航海から帰還後、海軍大尉から海軍中佐に昇進したクックは、Terra Australisの発見を王立協会により再び委託された。第1回航海のニュージーランド周航によって、ニュージーランドが南方の大陸とは繋がっていないこと、さらに、東海岸の測量によって、オーストラリアが大陸であろうことも、既に明らかにされていたのだが、Terra Australisはさらに南に存在するはずと王立協会はまだ信じていたのだ。

クックは帆船レゾリューション号を、トバイアス・ファーノーが僚船アドベンチャー号を指揮した。一行は、きわめて高緯度の地域を周航し、1773年1月17日にヨーロッパ人として初めて南極圏に突入し南緯71度10分まで到達した。これがいかに偉業であったかは、次の南極圏突入が50年後だったことからも明らかである。南ジョージア島南サンドウィッチ諸島もこの南極航海で発見された。しかし、南極圏の濃い霧によってクックとファーノーははぐれてしまう。クックは南極探検を続けたが、ファーノーはニュージーランドへ向かうも、マオリ族との戦いで部下を失い、やむなく先にイギリスへ帰還することになった。

クックはもう少しで南極大陸を発見するところであったが、南方大陸が人類が居住可能な緯度には存在しないことを確かめ、伝説の南方大陸の探索に終止符を打った。補給のため北のタヒチへ進路を取り、オマイというタヒチ人の若者を伴って再び南へ向かったが、オマイは第一回航海のトウパイアほどは太平洋の地理に明るくなかった。帰り航海では、1774年にトンガイースター島ニューカレドニアバヌアツに上陸した。一行の帰国報告によって、Terra Australisの伝説は沈静化した。クロノメーターが活躍し正確な経度の決定が行われたことも、第二回航海の大きな業績であった。 クックは帰国後に海軍大佐 (ポスト・キャプテン) に昇進し戦艦ケントの指揮を委ねられたが、翌日にはそれを解任され、名誉職であるグリニッジの海軍病院の院長に任命された。壊血病予防に対する貢献に対して王立協会からメダルを授与され、特別会員に推挙もされた。しかし、彼は海から離れるのには耐えられなかった。自筆原稿による航海記を書き上げた直後、クックは第三回航海に出帆した。

[編集] 第三回航海(1776年 - 1780年)

巷間では、ロンドン市民の好奇の的となっていたオマイをタヒチに戻すために航海が行なわれると噂されたが、第三回航海の公式の目的は、北極海を抜けて太平洋大西洋をつなぐ航路を探索することであった。クックは再びレゾリューション号の指揮を取り、チャールズ・クラークが僚船ディスカバリー号の指揮をとった。オマイをタヒチに返した後に、クックらは北へと進路を取り、1778年にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となった。クックはカウアイ島に上陸し,時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した。

北アメリカの西海岸を探検するためにクックは東へ航海し、バンクーバー島のノコタ・サウンドの中のユーコートにあるファーストネーションズ村の近くに上陸したが、ジュアン・デ・フーカ海峡は見過ごしてしまった。この北洋航海でクックは、カリフォルニアからベーリング海峡に至るまでを探検,海図を作製し,アラスカの今ではクック湾として知られている場所を発見した。ただ1度の航海でクックは、アメリカの北西岸の大部分の海図を作製し、アラスカの端を突き止め、西方からベーリングロシア人が南方からスペイン人が行っていた太平洋の北限探査の空隙を埋めてしまったのである。しかし,クックらが何度試みても,秋から冬にかけてのベーリング海峡は帆船ではどうしても航行できなかった。

ところで、長年の航海による精神的、肉体的ストレスの蓄積のためか、不調続きの航路探索のためか、クックは日毎に気難しくなり胃の不調にも悩まされていた。そのゆえなのか、クックはしばしば周囲と深刻なもめ事を起こすようになった。たとえば、アラスカで一行は海牛と見誤ってセイウチを仕留めた。「(残り少ない) 塩漬け肉よりずっと良い」と,クックはセイウチの肉を船内で消費するよう命じたが、クックを除く多くの乗員の嗜好にセイウチの肉はまったく馴染まなかった。しかし,これを食べない者には船の通常の食事を禁じるなど、クックが自分の考えに固執しため船内には反乱寸前の緊張が生じた。このようなクックの精神的状態がその後の悲劇を引き起こす一因となったと、ビーグルホールら後の伝記作者たちは推測している。

クックの最期
クックの最期

レゾリューション号は1779年ハワイに戻りケアラケク湾に投錨した。約一ヶ月の滞在の後、クックは北太平洋探検を再開したが、出航後間もなく前檣が破損し、補修のためケアラケク湾に戻らなければならなくなった。しかし、ハワイの宗教上の複雑な事情ではこの突然の帰還は「季節外れ」で、先住民の側からすると思いがけないことだったため,クック一行と先住民の間に緊張が生じることになった。

1779年2月14日に、ケアラケク湾でクックらのカッターを村人が盗むという事件が起きた。タヒチや他の島々でも盗難はよくあったことで、盗品の返還交渉は人質を取ればたいてい解決した。実際、クックは先住民の長を人質に取ろうとしたのだが、彼の不安定な精神状態のためか、盗品の引き取りのために下船した際、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまった。塵一つに至るまですべて返還せよ、という木で鼻を括ったクックの態度に先住民らは怒り、また,長の1人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、槍と投石でクックらを攻撃し始めた。クックらも村人に向けて発砲し、騒ぎの中,退却を余儀なくされた。小舟に乗り込もうと背中を向けたクックは頭を殴られ、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。クックらの死体は先住民に持ち去られてしまった。

現地の宗教上の理由で奇妙な崇敬を受けていたクックの遺体は、先住民の長と年長者により保持され肉が骨から削ぎ取られ焼かれた。しかし、乗組員らの懇願によって、遺体の一部だけが最後に返還され、クックは海軍による正式な水葬を受けた。チャールズ・クラーク、そしてクラークの死後はジョン・ゴアが探険を引き継ぎ、更にベーリング海峡の通過が試みられたが、これも季節外れで失敗した。レゾリューション号とディスカバリー号がイギリスへ帰国したのは1780年8月のことであった。

[編集] クックの教え子たち

その後、クックの下で働いた多くの部下達が、自身も目覚ましい業績を残した。代表的な人物を以下に挙げる。

  • ウィリアム・ブライ 第三回航海の航海長であった彼は、1787年に帆船バウンティの指揮を委ねられ、タヒチへ赴きパンノキの実を持ち帰ることを任ぜられた。しかしながら、1789年に乗組員の反乱が起こり、船から追放されて救命艇で漂流する憂き目にあった(バウンティ号の反乱)。生還を果たし、その後ニューサウスウェールズの総督となるも、その地で再び反乱に遭う。それはオーストラリア植民地史上、唯一成功した武装蜂起であった。
  • ジョージ・バンクーバー 第二回と第三回航海の士官候補生。後に1791年から1794年にかけて北アメリカ太平洋岸の調査航海を指揮した。
  • ジョージ・ディクソン 第三回航海に参加。後に自ら探検航海を指揮した。

[編集] その他

[編集] 参考文献

  • Aughton, Peter. 2002. Endeavour: The Story of Captain Cook's First Great Epic Voyage. Cassell & Co., London.
  • John Cawte Beaglehole, biographer of Cook and editor of his Journals.
  • Edwards, Philip, ed. 2003. James Cook: The Journals. Prepared from the original manuscripts by J. C. Beaglehole 1955-67. Penguin Books, London.
  • Williams, Glyndwr, ed. 1997. Captain Cook's Voyages: 1768-1779. The Folio Society, London.
  • Sydney Daily Telegraph. 1970. Captain Cook: His Artists - His Voyages. The Sydney Daily Telegraph Portfolio of Original Works by Artists who sailed with Captain Cook. Australian Consolidated Press, Sydney.
  • Thomas, Nicholas. 2003. The Extraordinary Voyages of Captain James Cook. Walker & Co., New York. ISBN 0-8027-1412-9
  • ジェイムズ・クック 『クック 太平洋探検 (1) - (6) 』 増田義郎訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2005年。
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英語版からの全文翻訳に加筆訂正したものです。翻訳に関するNote.リソース等は、本文書のノートに記載しています。

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