タカーチュ・イェネー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
タカーチュ・イェネー(イェネー・タカーチュ、Takács Jenő, 1902年9月25日 - 2005年11月14日)は、オーストリアの作曲家、ピアニスト。ハンガリー系。
ブルゲンラント州ジーゲンドルフ出身。1926年まで、ウィーン国立音楽大学でヨーゼフ・マルクスに作曲を、パウル・ヴァインガルテンにピアノを、ウィーン大学でハンス・ガルに対位法を、グイード・アードラーに音楽学を学ぶ。1920年からドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビアに演奏旅行を行う。1926年に、バルトーク・ベーラの知遇を得、バルトークがアメリカ合衆国に去る1940年まで活発な交流がなされた。1927年から1932年までエジプトのカイロ音楽院でピアノの教授を務め、アラブ音楽の調査も行った。
1932年から1934年までフィリピンのマニラ大学でピアノと作曲の教授を務めた。その間、日本、中国、香港で演奏会を行っている。1938年にはアメリカを訪問した。1939年にはナチズムの文化政策の圧迫を避けるために、ハンガリーのショプロンに移住。ハンガリーでは1942年から1948年までペーチの音楽院で指導に当たった。
1948年から1949年にかけて社会主義政権の支配が確立されると、ハンガリーを逃れた。その後はヨーロッパやアメリカで演奏旅行を行い、シンシナティ音楽院でピアノと作曲の教授にもなっている。1970年に故郷に戻った。
カテゴリ: オーストリアの作曲家 | ハンガリーの作曲家 | 近現代の作曲家 | オーストリアのピアニスト | ハンガリーのピアニスト | 1902年生 | 2005年没 | クラシック音楽関連のスタブ