チェルノブイリ原子力発電所
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チェルノブイリ原子力発電所は、ウクライナ(当時はソビエト連邦)のチェルノブイリ近郊にあった原子力発電所。原子炉の炉型は、黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉、RBMK-1000型(ソビエト型)という型式の原子炉である。1971年に着工され、1978年5月に1号炉が営業運転を開始した。1986年4月26日1時23分(モスクワ時間)に4号炉が爆発。その後も1号炉~3号炉の運転は続けられたが、2000年に稼動が停止されている。1986年当時建設中だった5号炉と6号炉は、建設が中止された。 4号炉爆発事故当時の正式名称はV・I・レーニン共産主義記念チェルノブイリ原子力発電所(Чернобыльская АЭС им. В.И.Ленина работает на коммунизм)。
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[編集] 炉の概要
チェルノブイリ発電所は、チェルノブイリ市の北西18キロ、ウクライナとベラルーシの国境から16キロメートル、キエフの北およそ110キロにあるウクライナ共和国のプリピャチの定住地に立地している。 その発電所はそれぞれ電気出力1ギガワットe (熱出力3.2ギガワットth)を発電することができる4つの原子炉から成り、そして4号炉はその事故の時にウクライナの電力のおよそ10%を生産していた。 プラントの建設は1970年代に始まり、1977年に1号炉が竣工し、そしてその後に 2号炉 (1978)、3号炉 (1981)、そして4号炉 (1983) が竣工した。 さらに2つの原子炉(それぞれ1GWeを発電することができる5号炉と6号炉)がその事故の時に建設中であった。
これら4つのプラントはRBMK-1000と呼ばれる型の原子炉として設計された。
[編集] 爆発事故の概要
当時、爆発した4号炉は休止中であった。原子炉が止まった際に備えた実験を行っていたところ、制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。
放出された主な放射性物質は、ヨウ素131、ルテニウム103、セシウム137などとされる。
当初、ソビエト連邦はこの事故を公表しなかったが、翌4月27日、スウェーデンでこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソビエトも事故の公表に踏み切った。日本でも、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。
爆発後も火災は続き、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、核の火に赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソビエト政府によれば、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとされる。
[編集] 死者数
死者はソビエト政府の発表では運転員・消防士合わせて31名だが、事故の処理にあたった予備兵、軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認され旧ソ連時代の内部資料で確認されている被害者だけで約13,000人、その殆どが既に放射線障害で死亡しており、さらに周辺住民の多くが死亡したと考えられている。最終的には40,000人に達するとロシア科学アカデミーは発表したが、当時西側諸国の思惑もあり否定されて今に至り、最終的な被害者は公表されていない。
また、事故によりチェルノブイリ周辺は高濃度の放射性物質による汚染により居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われた。しかし、老人などは生まれた地を離れるのを望まなかった人もおり、一部の人は移住せずに生活を続けた。
爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、のべ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺と呼ばれている。
事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。
爆発事故による放射性物質による汚染は、ウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアも多かった。
[編集] 原因
発端は、原子炉が停止して電源が停止した際、非常電源に切りかえるまでの短い時間、原子炉内の蒸気タービンの余力で最小限の発電を行い、システムが動作不能にならないようにするための動作試験を行っていたが、炉の特性による予期せぬ事態と、作業員の不適切な対応が災いし、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。
同実験は、原子炉熱出力を定格の20%から30%程度に下げて行う予定であったが、炉心内部のキセノンオーバーライドによって、定格熱出力の1%にまで下がってしまい、運転員はこれを回復する為に、炉心内の制御棒を引き抜いた。これにより、熱出力は7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少ない状態で不安定な運転を続ける事になった。不安定な運転により実験に支障が出ることを危惧した運転員らは、非常用炉心冷却装置を含める重要な安全装置を全て解除し、実験を強行した。実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇しはじめた。運転員は直ちに緊急停止を試みたが間に合わず、原子炉は暴走(制御不能)に陥った(緊急停止ボタンを押したために原子炉が暴走したとする説もある)。
この爆発事故は、運転員の教育が不十分だったこと、特殊な運転を行ったために事態を予測できなかったこと、低出力では不安定な炉で低出力運転を続けたこと、実験が予定通りに行われなかったにも関わらず強行したこと、実験の為に安全装置をバイパスしたことなど、多くの複合的な要素が原因として挙げられる。後の事故検証では、これらのどの要素が欠けても、爆発事故、或いは事故の波及を防げた可能性が極めて高いとされている。
当初ソビエト政府は、事故は運転員の操作ミスによるものとしたが、のちの調査結果などはこれを覆すものが多い。重要な安全装置の操作が、運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかっただろうと考えられる。
事故から20年後の一部報道によると、暴走中に「直下型地震」が発生して爆発したとされている。ロシア地球物理学研究所のストラホフ前所長によると、事故の約20秒前に小さな直下型の地震があり、原子炉は耐震構造ではなかったために、原子炉で爆発が起きたということである。しかし、京都大学の今中哲二は、他の1~3号炉に異常が無かったこと、付近の住民が地震についての証言をしていなかったことなどから、地震計に記録されているとされるその振動は、4号炉の爆発そのものによって引き起こされたものであると反論している。
- 炉の詳しい特性:黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉
[編集] 事故の経緯
1986年4月25日に、4号炉は定期保守のためにシャットダウンされることが予定されていた。この時を利用して、4号炉のタービン発電機が、外部電源喪失時に原子炉の安全システム(特に冷却水ポンプ)に給電するのに十分な電気を作る能力を試験することが決められた。
具体的には、4号炉の力を利用してタービンを回し、その後タービンは4号炉から切り離す。この時のタービン自体の慣性力で回り続け、どれだけの発電出力を生み出せるかという試験であった。 なお、この試験に際し、 原子炉の出力は標準出力の3.2ギガワットから、より安全な低い出力である700メガワットまで減らされる事が計画された。
実験予定日の前日から、実験を行うために、運転員は炉の出力を予定通りの700メガワットに落とし、実験開始に備えていた。しかし、中央の出力司令所からの給電指令が長時間にわたり延期されたために、当初の予定時刻を過ぎても実験を開始することが出来なかった。
そのうちに、原子炉の内部では中性子を吸収する性質が強いキセノンがどんどん溜まっていき、キセノンオーバーライド状態になって出力が自然に低下し始めた。その低下する出力を無理に補うため、挿入されていた制御棒を抜かざるを得ず、出力が下がっては抜き、下がっては抜きを繰り返し、伸びに伸びた実験開始の瞬間では、炉の自動制御棒の殆どを抜いていたといわれている。
これにより、炉内の出力分布は、まるでフタコブラクダのコブのように、本来核分裂が一番活発に行われているはずの中央部で低調で、上下の部分に大きなピークが出現していた。
その状態から実験は始まる。キセノンの中性子吸収効果で制御棒を目一杯まで引き出していた状態から、実験に適した更に低い出力状態へ移行するために、制御棒を挿入した。だが、その瞬間、炉の出力は予定外の30メガワットまで落ち込んだといわれている。
低下しすぎた出力レベルは、安全規則が許す限度に近かったにも関わらず、操作員は原子炉を停止せずに実験を強行する事を決めた。しかも下がりすぎた出力を補うために、本来の実験手順・要項の一部を省略し、出力を200メガワットとすることに決めた。その為、過剰となっていたキセノン-135の中性子吸収を克服するために、安全規則で許されるよりやや多くの制御棒が炉から引き抜かれてしまう。
実験の予備段階として、4月26日午前1時05分に、タービン発電機によって動かされる冷却水ポンプが起動されたのだが、午前1時19分、これによって生成された水流が安全規則によって指定された流量を超えてしまう。水もまた中性子を吸収し、炉の出力を下げる働きをするので、その流量が増加したことによって、出力を確保するために、炉から手動で制御棒を引き抜かなければならなくなった。
こうして非常に不安定な炉心状態で、午前1時23分04秒に実験が始まる。
原子炉の不安定な状態は制御盤のどこにも表示されず、原子炉の操作員の誰も危険に気付いていなかったようだ。冷却水ポンプへの電気が止められ、そのポンプがタービン発電機の慣性によって運転されると、その流量は減少した。タービンは炉心で蒸気量を増やしつつある原子炉から切り離されされた。
冷却剤が暖められるにつれて、冷却材配管中に蒸気のポケットができた。チェルノブイリのRBMK黒鉛減速炉の設計では、大きい正のボイド係数を持っている。すなわち、水の中性子を吸収する効果が無くなると原子炉の出力は急速に増加し、そしてこの場合、原子炉の運転が次第により不安定に、より危険になることを意味する。
午前1時23分40秒に操作員は「スクラム」(軽率にも引き抜かれていた手動制御棒を含むすべての制御棒の全挿入)を命令する「事故防衛」ボタンを押した。それが緊急処置として行われたのか、あるいはただ実験の一部として原子炉停止の型通りの方法として行われたのかは不明確である(4号炉は通例通りの保守のために停止が予定されていた)。
その予期しない速い出力増加を止めるための緊急対応として命じられたものだと、通常は考えられている。他方、チェルノブイリ原子力発電所の事故当時の最高エンジニア アナトリー Dyatlov は彼の著書[1]で次のように述べている:
「01:23:40より前には、中央制御システムは……スクラムを正当化するようなパラメータ変動を記録していなかった。委員会……が大量の資料を集め分析したが、その報告で述べられた通り、なぜそのスクラムが指示されたかの理由は特定できなかった。その理由を探す必要などなかった。その原子炉はただ実験の一部として停止されたのだから。」
制御棒挿入機構はスピードが遅いこと(完了までに18~20秒)、制御棒の先端の空洞、そしてその空洞と冷却材が一時的に置き換わることによって、スクラム操作は反応率を増やす結果になった。 増えたエネルギー出力が制御棒経ガイドの変形を起こしたために、 制御棒はの3分の1だけ差し込まれたところで動かなくなって、原子炉の反応を止めることが不可能になった。
1時23分47秒までに、原子炉は標準的な運転出力の10倍であるおよそ30GWまで跳ね上がった。燃料棒は融け始め、そして蒸気圧力は急速に増大して蒸気爆発を起こし、原子炉の蓋を変形させ破壊し、冷却材配管を破裂させ、そして次にその屋根に穴を開けた。
経費を減らすため、そしてその大きさのために、原子炉は部分的な封じ込めだけで建設された。このため、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させたあと、放射性の汚染物質が大気中に漏れることになった。その屋根の一部が吹き飛んだ後、酸素が急速に流れ込んだことと、原子炉燃料の非常に高い温度が合わさって、黒鉛減速材が黒鉛火災を起こした。この火災は、放射性物質の拡散とそこの辺ぴな地域の汚染の大きな一因になった。
[編集] 論争
目撃証言と発電所の記録の間に矛盾があるために、現地時間1時22分30秒の後に起こったイベントの正確なつながりについて若干の論争がある。 最も広く合意されている説明は上で記述した通りであるが、この理論によれば、最初の爆発は操作員が「スクラム」を命令した7秒後のおよそ1時23分47秒に起きた。 しかし、爆発がそのスクラムの前、あるいはすぐ直後に起きたと時々主張されることがある(これはソビエト委員会の事故調査の作業途中での説明であった)。 この違いは重大である。なぜなら、もし原子炉がスクラムの数秒後に超臨界になったなら、その事故原因は制御棒の設計に帰されなければならないのに対して、爆発がスクラムと同時に起こったのであればその責任は操作員にあるであろう。 実際には、1時23分39秒にマグニチュード-2.5の地震に類似している弱い地震動のイベントが、チェルノブイリ地方で記録されていた。 この振動は4号炉の爆発によって起きたのか、あるいは全くの偶然の一致かもしれない。 その状況は「スクラム」ボタンが一度ならず押されたという事実によって複雑になっているが、実際にスクラムを押した人は放射線障害のため事故の2週間後に死んだ。
[編集] 即座の危機管理
悲劇の規模は地方行政の無能力と適切な設備の欠如によって悪化した。 4号原子炉建屋に設置された2つ以外のすべての線量計は1ミリレントゲン毎秒が上限だった。 その残りの2つは1,000レントゲン毎秒が上限だったが、そのうち1つは爆発のため接近できなくなり、もう1つは作動させたときに故障した。 それで原子炉の操作員は、原子炉建屋の大部分の放射線レベルが4レントゲン毎時より大きいことを確かめることができただけであった(実際の線量レベルは最も高い区域で20,000レントゲン毎時であった。なお致死的な線量はおよそ500レントゲンを5時間以上である)。 このため、原子炉の操作員の班長アレクサンダー・アキモフは原子炉が損なわれていないと考えた。 建物周辺に横たわっていている黒鉛と核燃料の小片の証拠は無視され、そして現地時間午前4時30分までに持ち込まれたもう1つの線量計の読みはその新しい 線量計が故障しているに違いないという口実の下で退けられた。 アキモフは原子炉に水を送り込もうとして、朝までその原子炉建屋で操作員と共に留まった。 彼らのいずれも保護具を着用しなかった。 アキモフ自身を含む彼らの大部分が、事故後3週間で放射線障害のため死亡した。
事故直後、消防士が消火活動のために到着したが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられてはいなかった。火災は午前5時までには消火したが、多くの消防士が高い放射線量に被曝した。 その事故を調査するために政府委員会が召集され、4月26日夜チェルノブイリに到着した。 その時までに2人が死亡し、52人が入院していた。 4月26日の夜(その爆発の24時間以上後)に、非常に高いレベルの放射能と多人数の放射線被曝の十分な証拠に直面した委員会は原子炉の破損を認めなければならなくなり、そしてプリピャチ(ウクライナ)の近くの都市から退避を命令した。
大惨事の拡大を止めるために、ソビエト政府は清掃作業にあたる労働者を送りこんだ。 (陸軍兵士とその他の労働者で構成された)多くの「解体作業者(liquidator)」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険について何も知らされていなかった。 効果的な保護具は利用できなかった。 放射性の残骸のうち最悪のものは原子炉の残骸の中に集められた。 原子炉それ自身はヘリコプターから投下された砂嚢(事故の翌週間におよそ5,000トン)で覆われていた。 大きい鉄の石棺が原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられた。
[編集] 直後の結果
203人が即座に入院し、内31人が死亡、28人が急性放射線障害だった。 彼らは事故を収束させるべく集まった消防と救急の労働者だったが、煙等からの放射線被曝がどれくらい危険であるかには気付いてはいなかった。 プリピャチ(ウクライナ)の近くの町からの50,000人を含む合計135,000人が、この地域から避難させられた。 厚生当局は、次の70年にわたって、原子炉から放出された(情報源によって幅があるが)5~12EBqの放射能を持つ放射性物質による汚染により被曝した人口について発がん率に2%の増加があるだろうと予測した。 さらに10人がこの事故の結果、癌により死亡した。
IAEAの1986年の分析では操作員の運転操作を事故の主要な原因として引用していた。 1993年1月に、IAEAは、操作員のエラーではなく原子炉の設計に主要な根本原因が起因すると考えて、チェルノブイリ事故の改訂された分析を出した。
ソ連の科学者は、チェルノブイリ4号炉が二酸化ウラン燃料および核分裂生成物を約190メートルトンを内包していると報道した。 この物質の量のうち放出した量の評価は、13から30パーセントまでの範囲でばらついている。
チェルノブイリ事故による汚染は、周辺の地方全体に平等に広がったわけではなく、天候に依存して不規則に散らばった。 ソビエトおよび西側の科学者からの報告書は、ベラルーシが旧ソ連全体に降りかかった汚染の約60%を受けたと述べている。 しかし、北西ウクライナの一部でもあった、ブリャンスクの南にあるロシア連邦の広い地域も汚染された。
チェルノブイリは初めは秘密災害だった。 大きな原子力事故が起こったという初期の情報はソ連からではなく、スウェーデンだった。 4月27日に、チェルノブイリ原子力発電所からおよそ1,100kmにあるForsmark原子力発電所の労働者の衣服に放射性の粒子が付着していることが判明したのだった。 スウェーデンによる放射性物質の発生源の捜索により、この漏えいがスウェーデンの原子力施設からではないと断定したことが、西ソ連で重大な原子力問題が起こっているという最初のヒントになった。
[編集] 影響
爆発時、炉心内部の放射性物質は推定10t前後大気中に放出され、北半球全域に拡散した。
周辺地域の家畜に放射性物質が蓄積され、肉、ミルク等も汚染された。
2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によると、ロシアの事故処理従事者86万人中、5万5千人が既に死亡した。またウクライナ国内(人口5千万)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気にかかっている。
周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。
事故直後の社会現象としては、例えば、日本では欧州産スパゲッティの販売量が一時的に急減した。また、放射線障害に効くというデマが流れ、ヨード卵の価格が高騰した。
[編集] 報道
日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため、政府は、日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きないという説明を行った。
[編集] 短期的影響
[編集] 労働者と解体作業者
事故後に復旧と清掃作業に従事した労働者は高い放射線線量の被曝を受けた。ほとんどの場合、これらの労働者は受けた放射線量を計測するための個人線量計を装着していなかった。それゆえ専門家は彼らの被曝線量を推定するしかなかった。線量計が使われていた場合でも、測定手順はまちまちだった。 一部の労働者たちは他のものよりも大量の線量を受けたと推定された。ソビエトの推定によると、30万から60万人が炉から30キロメートルの退避区域のクリーンアップに従事したのだが、その多くは事故から2年後にその区域に入った(解体作業者"liquidators"とは事故の処理と復旧作業のためにその区域に立ち入った労働者を言うが、その推定人数はまちまちである。例えば、世界保健機関は約80万とし、ロシアは汚染区域で働いていなかった一部の人間も解体作業者としてリストに含めている)。事故から最初の1年で、この区域のクリーンアップ労働者は21万1,000人と推定される。これら労働者は推定平均線量165ミリシーベルトを受けた。
[編集] 住民
汚染された区域の一部の子供は、甲状腺に最大50グレイの高い線量を受けた。これは汚染された地元の牛乳を通じて、比較的寿命の短い同位体である放射性ヨウ素を体内に取り込んだからである。いくつかの研究により、べラルーシ、ウクライナ、およびロシアの子供での甲状腺ガンの発生が急激に増えていることが判った。IAEAの報告によると、「事故発生時に0歳から14歳だった子供で、1,800件の記録された甲状腺ガンがあったが、これは通常よりもはるかに多い」と記されているが、増加割合は記されていない。発生した小児甲状腺ガンは大型で活動的なタイプであり、早期に発見されていたら処置することができた。処置は、外科手術と、転移に対するヨウ素131治療が必要である。現在までのところ、このような処置は診断されたあらゆるケースにおいて成功を収めているようだ。
1995年、世界保健機関は、子供と若年層に発生した700件近い甲状腺ガンをチェルノブイリ事故と関連付けた。また、10件の死亡が放射線に原因があるとした。しかし、検出される甲状腺ガンが急速に増えているという事実は、そのうち少なくとも一部はスクリーニング過程によって作り出されたものであることを示唆している。放射線により誘起される甲状腺ガンの典型的な潜伏期間は約10年であるのに対し、一部地域での小児甲状腺ガンの増加は1987年から観測されている。しかし、この増加が事故と無関係なのか、あるいはその背後にあるメカニズムかは、まだ十分に解明されていない。
これまでのところ、白血病の識別できる増加は無いが、今後数年間で、その他のガンの発生数が統計的に識別可能ではないが増えてくることと合わせて、明白になると予想されている。
汚染区域、および周辺地域において、先天的異常、流産、およびその他の放射線によって誘起される病気については、チェルノブイリとの関連が実証された増加は無い。
[編集] 長期的影響
事故の直後においては健康への影響は主に半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。今日では、半減期が約30年のストロンチウム-90とセシウム-137による土壌汚染が問題になっている。最も高いレベルのセシウム-137は土壌の表層にあり、それが植物、昆虫、きのこに吸収され、現地の食糧生産に入り込む。最近の試験(1997年頃)によると、この区域内の木の中のセシウム-137のレベルは上がりつづけている。汚染が地下の帯水層や、湖や池のような閉じた水系に移行しているといういくつかの証拠がある(2001年、Germenchuk)。雨や地下水による流去は無視できるほど小さいことが実証されているので、消滅の主な原因は、セシウム-137がバリウム-137へ自然崩壊することだと予想されている。
[編集] 全地球的影響
IAEAの記録によると、チェルノブイリ事故による放出は、ヒロシマ型原子爆弾の放射性の汚染の400倍多いが、20世紀中頃の大気圏内核実験で起こった汚染の100から1,000分の1だった。チェルノブイリ事故は局地的な災害であって、全地球的災害ではないということもできる。
[編集] 自然界への影響
第一回チェルノブイリ事故の生物学的、放射線医学的観点にかかる国際会議(1990年9月)でのソビエトの科学者による報告によると、当該プラントから10キロメートル区域での放射性降下物のレベルは4.81GBq/m2であった。大量の放射性降下物により枯死したいわゆるマツの「赤い森」が10km区域内のサイトのすぐ背後の地帯に広がっている。この森は、事故後、極めて大量の放射性降下物により枯死して赤茶色に見える木々のためにそう名づけられた。事故後のクリーンアップ作業の中で、4km2の森の大部分が埋め立てられた。赤い森のある場所は、世界で最も汚染された地域の一つである。しかし、驚くべきことに、多くの危機に瀕した種にとっての肥沃な住家であることもわかっている。
[編集] 避難
ソビエト政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ一ヵ月後の1986年5月までに、当該プラントから30キロメートル以内に居住するすべての人間(約11万6千人)が移転させられた。
ソビエトの科学者の報告によると、28,000km2が185kBq/m2を越えるセシウム-137に汚染した。約83万人がこの区域に住んでいた。約10,500km2が555kBq/m2を越えるセシウム-137に汚染した。このうち、ベラルーシに7,000km2、ロシア連邦に2,000km2、ウクライナに1,500km2が属する。約25万人がこの区域に住んでいた。これらの報告データは国際チェルノブイリプロジェクトにより裏付けられた。
[編集] 他の災害との比較
チェルノブイリ事故はその規模だけでも比較するものがない。商用発電炉の歴史で、放射線による死者が出たのはこれが初めてだった(註:1999年9月30日に発生した日本の東海村での核燃料加工プラントの事故では、放射線により2名の作業員が死亡している)。
[編集] 民間人に対する長期的影響
民間人に対する長期的影響についての問題は、きわめて議論の余地がある。この事故で生活に影響が出た人の数は膨大である。30万人を越える人が事故のために移住を余儀なくされた。約60万人がクリーンアップに従事した。何百万人が汚染区域にかつて住んでおり、今も住み続けている。 その一方で、これらの影響された人の大部分は、比較的低い線量の被曝しか受けていない。このため、彼らの間で死者数、ガン、先天性異常が増加した証拠はほとんど無い。さらに、そのような証拠があった場合でも放射性の汚染との関連性ははっきりしない。
ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの、チェルノブイリ事故で影響を受けた地域における子供たちの間での甲状腺ガンの発生の増加は、スクリーニング計画の結果であったことが、はっきりと証明されている。ベラルーシの場合は、ガン登録制度のためだった。ほとんどの疫学的調査の知見は中間的なもので、事故による健康への影響の分析はいまだ途上にある。
疫学的調査は旧ソビエトでは、資金不足、時系列的疫学調査の不足または欠如、貧弱な通信設備、および多くの要因からなる緊急の公衆衛生問題により遅々として進んでいない。適切に設計された疫学的調査よりも、スクリーニングに重点が置かれてきた。疫学的調査を体系だてて行うための国際的な努力は、同様の原因、特に適切な科学インフラの不足により遅れている。
ベラルーシ、ウクライナが行った事故への対応~すなわち、環境の回復、退避と再定住化、汚染されていない食料の開発と食料流通経路の開発、公衆衛生への対策~は、これらの政府にとって重過ぎる負担になってきた。国際機関と外国政府は広範囲に渡る物流支援、人道支援を行ってきた。加えて、欧州委員会と世界保健機関による、ロシア、ウクライナ、ベラルーシでの疫学的調査インフラの強化活動は、これらの国でのあらゆる種類の疫学的調査を実施する能力を大幅に高める基盤を築いている。
2002年の原子力機関の報告は、事故の顕著な長期的影響は非放射線医学的な原因によるものであると特定した。影響を受けた区域で暮らすことへの不安とストレスが住民に深刻な心理的インパクトを与えたのだった。彼らが暮らしていた場所から離れた区域へ住民を再定住化させた結果、家族、社会ネットワークが離散し、既に住んでいる住民から嫌われるような地域に移転することにより、心理的影響を与えた。
住民は現在でも少なくとも半年に1回は定期的な健康診断を受けており、健康に不安を持っている。一部の人には、男性では頭髪が抜けたり、女性ではひげが濃くなったりといった症状を訴える人もいる。
[編集] 野生生物
人間がプラント周辺区域から退避したことにより、人間にとっては大きな負担となったが、逆に野生動物にとっては豊かで比類無い避難場所が生み出された。 この地域の動植物に放射性降下物が長期的な悪影響をもたらしたかどうかはいまだ解っていない。動植物は人間に比べ、放射線耐性が大きく異なり、また幅広く差があるためである。しかし、大量の放射性物質が降った周辺での生物の多様性は、人間の影響がほぼなくなったことで増大した。この地域の一部の植物が突然変異しているという報告もあって、そのため、奇怪な姿に変異した多くの植物があるという「ふしぎの森」や「奇怪な森」についての根拠の無い噂がいくつか生まれている。 別の報告では、この区域は沈黙に包まれており、いまだ鳥たちが戻ってきていないことを示唆している。
[編集] 事故後のチェルノブイリ
チェルノブイリプラントのトラブルそのものは4号炉の惨劇で終わったわけではなかった。 ウクライナ政府は、国内のエネルギー不足のため残った三つの原子炉を運転させ続けた。 1991年に2号炉で火災が発生し、政府当局は炉が修復不能なレベルまで損傷していると宣言して、電源系統から切り離した。 1号炉は、ウクライナ政府とIAEAのような国際機関との間の取り引きの一部として1996年11月に退役した。 2000年11月に、レオニード・クチマ ウクライナ大統領本人が公式式典で3号炉のスイッチを切り、こうして全プラントが運転停止した。
[編集] 将来の補修の必要性
石棺はこの場合効果的な封印手段ではく、石棺の建設は応急処置である。大半は産業用ロボットを用いて遠隔操作で建設されたために老朽化が著しく、万が一崩壊した場合には放射性同位体の飛沫が飛散するリスクがある。より効果的な封印策について多くの計画が発案、議論されたが、これまでのところいずれも実行に移されていない。国内外から寄付された資金は建設契約の非効率的な分散や、ずさんな管理、または盗難に遭うなどして浪費される結果となった。
年間4,000kl近い雨水が石棺の中に流れ込んでおり、原子炉内部を通って放射能を周辺の土壌へ拡散している。石棺の中の湿気により石棺のコンクリートや鉄筋が腐食しつづけている。
その上事故当時原子炉の中にあった燃料のおよそ95%が未だ石棺の中に留まっており、その全放射能はおよそ1,800万キュリーにのぼる。この放射性物質は、炉心の残骸や塵、および溶岩状の「燃料含有物質(FCM)」から成る。このFCMは破損した原子炉建屋を伝って流れ、セラミック状に凝固している。単純に見積もっても、少なくとも4トンの放射性物質が石棺内に留まっている。
[編集] チェルノブイリ基金とシェルター構築計画
チェルノブイリシェルター基金は1997年のデンバーG7サミットでシェルター構築基金に資金を提供するために設立された。シェルター構築計画(SIP)は、新安全閉じ込め設備(NSC)を建設し石棺を安定化することにより、サイトを生態学的に安全な状態にするためのものである。
もともとのSIPの推定コストは7億6800万ドルである。SIPはベクテル、バッテル、フランス電力公社によって管理される。またNSCの概念設計は、高い放射線場を避けるためシェルターから離れた場所で建設してから、石棺を覆うように滑らせるという可動式のアーチから成る。NSCは史上最大の可動式構造物になるだろう。
[編集] 大衆の認識の中のチェルノブイリ
チェルノブイリ事故は国際的な注目を集めた。世界中で、人々が新聞記事を読み、深く心を動かされた。その結果として「チェルノブイリ」は大衆の認識に多くの異なった姿で刻み込まれることとなった。
[編集] 政治的余波
チェルノブイリ事故は明らかに大規模災害であったため、世界中のメディアの注目を集めた。原子力のリスクに対する大衆の認識は大幅に上がった。原子力推進側と反対側の団体が、大衆の意見を動かすために多くの努力を払った。死傷者の数、炉の安全性の評価、および他の炉でのリスク評価は、著者がどちらの立場に近いかによって大きく異なる。例えば、放射線影響に関する国連科学委員会は、国連人道問題事務局の刊行物に関して、公に批判した。このように、この問題の真実を明らかにすることはかなり困難である。
実際の事故の原因、経過に関しては、ソ連首脳部に対しても、より現場に近い組織、人間が事実を隠蔽しようとする動きがあった。これは、スターリン体制以来の恐怖政治から、当事者が自らの保身を第一に考えたためである。この体質に対して最高指導者のミハイル・ゴルバチョフは苛立ち、グラスノスチの徹底を指導した。しかし、このゴルバチョフの動きは後にソ連8月クーデターを呼び起こす要因の1つとなる。
[編集] チェルノブイリと聖書
「チェルノブイリ」がニガヨモギと翻訳されることがある(この翻訳が正しいかどうかは議論の余地があるが)ことから、英語圏のキリスト教徒の間で、チェルノブイリ事故は聖書の中に記されているという都市伝説が生まれた。
黙示録第8章に、ニガヨモギという名の燃える巨星が水源地に落ち、巨星が持つ毒に汚染された水を飲料とした多くの人が死んだという記述がある。
この話の発祥(少なくとも西側に広まることになった最初の起源)は、ウクライナ語でニガヨモギをチェルノブイリというのだという氏名不詳の「著名なロシア人作家」の主張を引用した、サージ・シュメマン(Serge Schmemann)によるニューヨーク・タイムズ紙の記事だとされている。 この都市の名前はウクライナ語でmugwort(Artemisia vulgaris)を意味するチョルノブイリ"chornobyl"から来ている。この語は、チョールヌイ(chornyi、黒い)とブイリヤ(byllia、草の葉または茎)を組み合わせたものであるから、直訳すれば黒い草、または黒い茎という意味になる。
[編集] チェルノブイリ原発事故 資料
[編集] 書籍
- 「チェルノブイリ報告」(著:広河隆一 1991年 岩波新書)
- 「チェルノブイリから広島へ」(著:広河隆一 1995年 岩波ジュニア新書)
- 「チェルノブイリの真実」(著:広河隆一 1996年 講談社)
- 「ナターシャ チェルノブイリの歌姫」(著:手島悠介・広河隆一 2001年 岩崎書店)
- 写真集「チェルノブイリと地球」(著:広河隆一 1996年 講談社)
- 写真集「チェルノブイリ 消えた 458 の村」(著:広河隆一 1999年 日本図書センター)
- 写真集「原発・核 2 チェルノブイリの悲劇」(著:広河隆一 1999年 日本図書センター)
[編集] 映像作品
- ドキュメンタリー「チェルノブイリ原発事故 ~調査報告~」(1990年 NHK製作)
- ドキュメンタリー「プロジェクトX『チェルノブイリの傷 奇跡のメス』」(2004年 NHK製作)
- ドキュメンタリー「チェルノブイリの真実」(1996年 講談社) ※ 広河隆一総監修・撮影
- ドキュメンタリー「ZERO HOUR:チェルノブイリ原発事故」(2004年 ディスカバリーチャンネル) 同作品公式HP
- ドキュメンタリー「チェルノブイリ・クライシス 史上最悪の原発事故」(1987年) ※ 旧ソ連官製作品
- ドキュメンタリー「チェルノブイリ・シンドローム その後の史上最悪の原発事故」(1987年) ※ 同上。
[編集] コンピュータウイルス
CIHコンピュータウイルスは多くのメディアにより「チェルノブイリ・ウイルス」という名前を付けられた。変種v1.2が毎年4月26日、すなわちチェルノブイリ事故の日に発症することにちなんでいる。しかし、これはウイルスの作成者の誕生日がたまたまその日だったというだけで、ただの偶然の一致である。
[編集] 脚注
- ^ 黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉では、設計出力で運転している炉内では十分な中性子が発生しているため、Xe-135は中性子を吸収して、中性子を吸収しない核種Xe-136(安定核)に変化する。しかし出力が低いとXe-135が消滅しないので蓄積し、出力をより引き下げる方向に働く。これを正の反応度フィードバックと言い、炉を不安定にする原因である。詳しくはキセノンオーバーライドの項目を参照されたい。ちなみに軽水炉でもXe-135は発生するが、ボイド効果、ドップラー効果により補償されるので全体としては全領域で安定である。こちらについては自己制御性の項目を参照されたい。
[編集] 関連項目
- 原子力事故
- スリーマイル島原子力発電所事故
- 原子力撤廃
- ナターシャ・グジー - 爆発事故で被曝した歌手。日本で救援コンサートを開いている。
- オクサーナ・ステパニュック - 幼い時に被曝したウクライナの歌姫、彼女はクリスチャンであり、彼女の販売しているCDにはチェルノブイリ被災者への募金が料金の一部として入っている。
[編集] 外部リンク
- kid of speed GHOST TOWN Chernobyl Pictures(バイク旅行記)
- 日本語訳 kid of speed(ゴーストタウン、オオカミの大地)
- 【GoogleMAP】チェルノブイリ原子力発電所
- チェルノブイリ支援運動・九州(被災者の甲状腺ガン医療支援を行う国際協力NGO)
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