下野新聞
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下野新聞(しもつけしんぶん)は栃木県の地方新聞で、下野新聞社が発行している。1878年(明治11)創刊。毎日新聞社と資本・協力関係にある。
1878年に栃木(現・栃木市)の万象堂が発行した「栃木新聞」がはじまりで、県内他新聞との合併を行いながら6年余り発行される。その間には田中正造らが編集者として名を連ねている。1884年3月7日に「下野旭新聞」を発行していた鶏鳴社と合併し本拠地を宇都宮へ移転、同日付より現題名となった。1941年、経営難から東京日日新聞の支援を受ける一方、一県一紙の国策で栃木県の代表紙となり、県内の他新聞社を吸収している。県域紙としての影響力は大きく、県域テレビ・ラジオ局の設立にも大きく関与している。 2006年4月より紙面製作は宇都宮市の本社で行い、印刷は本体から分社した下野新聞印刷センター(鹿沼市)で行っている。
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[編集] 会社概要
[編集] 支社・総局・支局
[編集] 沿革
- 1878年6月1日 - (第1次)栃木新聞創刊(月8回刊、発行所・万象堂(栃木・万町))(1950年創刊 - 1994年廃刊の「栃木新聞」とは別物)
- 1878年11月2日 - 第1次栃木新聞、計37号で休刊
- 1879年8月2日 - (第2次)栃木新聞創刊(隔日刊、発行所・共進社)
- 1882年7月31日 - 第2次栃木新聞休刊
- 1882年9月2日 - 足利の足利新報と対等合併し(第3次)栃木新聞創刊(発行所・旭香社)
- 1884年2月21日 - 第3次栃木新聞、計305号で休刊
- 1884年3月7日 - 宇都宮の鶏鳴社と合併、宇都宮に移転し下野新聞 創刊(タブロイド4ページ、発行所・旭香社、発行号数はこの日を1号として数えている)
- 1889年4月1日 - 日刊になる
- 1893年11月22日 - 星亨衆議院議長を批判したため1週間の発行停止を受ける
- 1894年1月1日 - 宇都宮市池上町51番地に移転(宇都宮市本町4番11号、下野ビル「宇都宮ワシントンホテル」所在地)
- 1902年9月1日 - 株式会社に改組、下野新聞株式会社と改称
- 1905年10月5日 - 日露戦争の講和条約に反対し4日間の発行停止を受ける
- 1909年4月10日 - 足利町で「両野新報」発行
- 1919年8月15日 - 日光-宇都宮マラソン大会開催
- 1922年5月28日 - 鉄筋コンクリート3階建の新社屋完成
- 1923年9月1日 - 関東大震災で東京各紙発行不能のため、9月7日まで下野新聞を東京に送る
- 1924年7月1日 - 夕刊創刊
- 1930年7月12日 - 発行号数15,000号
- 1931年4月1日 - 第1回「下野美術展」を主催
- 1941年10月31日 - 経営難から東京日日新聞(現・毎日新聞)の支援を受ける
- 1941年12月7日 - 夕刊休刊(以後、再刊はされていない)
- 1941年12月15日 - 一県一紙の国策により栃木県の代表紙となり、数社を合併する
- 1945年4月1日 - 新聞非常措置令により毎日・朝日・読売の持ち分21万部を全県下供給
- 1945年7月12日 - 宇都宮大空襲の戦災により発行不能となり毎日新聞に委託、発行を続ける
- 1945年10月15日 - 自力発行を再開
- 1958年3月23日 - 発行号数25,000号、下野奨学会、県農業コンクールを新設
- 1962年9月 - 県域ラジオ局「ラジオ栃木(現・栃木放送)」設立にあたり資本参加(初代社長に下野新聞社社長・福嶋悠峰(武四郎)が就任、1963年4月開局)
- 1969年1月1日 - プレプリント方式によるカラー印刷を開始
- 1970年4月1日 - 栃木県政経懇話会を設立
- 1972年4月22日 - 発行号数30,000号、下野県民賞を制定
- 1977年11月15日 - 鉛の活字を使わないコンピュータシステム完成
- 1979年5月7日 - 現・所在地に新本社屋完成
- 1983年10月 - オフセット印刷によるカラー印刷開始
- 1984年3月7日 - 創刊100年
- 1986年1月4日 - 発行号数35,000号
- 1986年5月22日 - 下野新聞文化福祉事業団設立
- 1987年4月 - 下野文学大賞創設
- 1991年9月 - 中国浙江日報社と友好関係樹立
- 1993年8月 - (株)下野新聞アドセンター設立
- 1997年7月 - 本社新館完成
- 1997年 - 県域テレビ局「とちぎテレビ」設立にあたり資本参加(1999年4月開局)
- 1999年5月12日 - 創刊115年を機に下野新聞編集綱領を制定
- 2000年2月9日 - 発行号数40,000号
- 2000年11月 - 編集紙面がコンピューター組版システムに完全移行
- 2001年1月1日 - 記事・写真のデータベース蓄積開始
- 2001年4月 - 題字変更
- 2003年4月4日 - 「しもつけ21フォーラム」創設
- 2004年3月7日 - 創刊120年、創刊年を1884年ではなく栃木新聞が創刊された1878年に改めると発表
- 2006年4月 - 印刷部門を分離し(株)下野新聞印刷センター設立、鹿沼工業団地内に新印刷センター竣工
- 2006年5月31日 - 発行号数42,237号
- 2006年6月1日 - 創刊日を1878年6月1日に正式に改め、これまでの発行号数に栃木新聞時代の781号を加算、43,019号とする(創刊128周年)
[編集] 栃木新聞時代の補足
- 第1次
- 1878年6月1日~1878年11月2日(計37号)
- 発行所は栃木(現・栃木市)の万象堂、月8回刊。紙面にははっきり書いてないが、交付式新聞(県が発行代金の一部を負担するかわりに、県の命令などを知らせるための記事も載せた新聞)だったと考えられている。
- 第2次
- 1879年8月2日~1882年7月31日
- 発行所は共進社、隔日刊。田中正造が編集長になり、紙面上で国会の設立を訴える。足利新報との合併準備のため1882年7月31日付を最後に休刊した。なお、田中正造は合併に反対し、合併前の1882年5月に退社している。ただしこれは田中の記述を元にしており、他の関係者の記述では、田中は退社後も合併準備のために走り回り、第3次栃木新聞の発刊を見届けるところまで関係していたともいう。
- 第3次
- 1882年9月2日~1884年2月21日
- 足利(現・足利市)の足利新報と対等合併。発行所名は足利新報の旭香社を引継ぎ、題字は栃木新聞を継承した。宇都宮で「下野旭新聞」を発行していた鶏鳴社との合併・移転準備のため1884年2月21日付で休刊。なお「下野旭新聞」についてはほとんど記録がないが、発行回数などはあまり多くなかったらしい。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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