伊東祐亨
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伊東祐亨(いとう すけゆき、1843年6月9日(天保14年5月12日) - 1914年(大正3年)1月16日)は大日本帝国海軍の軍人、元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。名を音読みして「いとう ゆうこう」とも呼ばれる。幕末期の薩摩藩藩士。明治時代・大正時代の海軍軍人。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。海軍兵学校長の海軍中将子爵伊東祐麿は兄、弟に海軍大尉伊東祐道、海軍大佐窪田祐章。
[編集] 経歴
薩摩藩士伊東祐典の四男として鹿児島城下清水町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である。開成所にてイギリスの学問を学んだ。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われている。江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本竜馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。このことから、後に伊東は「おいの操船術は竜馬じこみじゃき」と語っている。薩英戦争にも従軍。鳥羽・伏見の戦い前の薩摩藩邸焼き討ち事件で江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府軍との海軍の戦いで活躍した。
明治維新後は、海軍に入り、1871年海軍大尉に任官、1877年には日清の艦長に補せられた。1882年には海軍大佐に任官、龍驤、扶桑、比叡の艦長を歴任する。1885年横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長に補せられ、同年イギリスで建造中であった浪速回航委員長となる。浪速就役後は浪速艦長となり、1886年海軍少将に任官する。のち海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、1892年には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官を拝命。1893年に常備艦隊長官を拝命し、1894年日清戦争に際し、7月18日連合艦隊司令長官を拝命した。
日本の連合艦隊と中国清朝の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で1894年9月17日12時50分より行われた黄海海戦では、戦前の予想を覆し、中国側の大型主力艦を撃破し、黄海の制海権を確保した。この戦いは日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点であった。中国艦隊はその後も抵抗を続けたが、陸上での敗色もあり、北洋艦隊提督丁汝昌は降伏を決め、1895年2月13日威海衛で北洋艦隊は降伏、丁汝昌自身は前日、服毒死を遂げた。伊東は没収した艦船の中から商船康済号を外し、丁汝昌の遺体を送らせ、世界をその礼節で驚嘆せしめた。戦争後は海軍軍令部長を務め、1898年海軍大将に進んだ。日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、1905年の終戦の後は元帥に任じられた。政治権力には一切の興味を示さず、元老にもならなかった。
1907年には伯爵に叙せられた。従一位功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与される。1914年、72歳で死去した。
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