共産党宣言
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共産党宣言(きょうさんとうせんげん ドイツ語:* Manifest der Kommunistischen Partei / Das Kommunistische Manifest)は、1848年にロンドンに於いて、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって、秘密結社・正義者同盟(義人同盟)から生まれた共産主義者同盟の幹部(主としてカール・シャッパー)から依頼を受け、執筆された“共産主義者同盟”のための綱領文書である。厳密な意味ではカール・マルクスの著作ともフリードリヒ・エンゲルスの著作とも言うことはできない。そのため、出版された当時は執筆者の名が記載されていない。「共産党」という言葉は20世紀のコミンテルン以来の特殊な政党のことを指すが、19世紀において共産主義者だけで構成されるいわゆる“共産党”という政党が存在しなかったことから、この文書を「共産主義者宣言」「共産主義者同盟宣言」と訳すべきとする見解が一般的である(石塚正英、篠原敏昭、大藪龍介、金塚貞文他)。なおヨーロッパでは「マニフェスト」といえば、本書を指すという使われ方をすることもある。
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[編集] この宣言の成立の経緯
正義者同盟は1836年にパリで生まれた亡命ドイツ人を中心とした組織である。この本が執筆されてから数十年してエンゲルスは「ドイツにおける社会主義」という論文のなかで、本書の成立の経緯について述べ、正義者同盟はフランスの革命家であるフランソワ・ノエル・バブーフ以来のユートピア的な共産主義の伝統をひくもので、財貨全体を共有することや秘密結社としての色合いが濃かったことを回顧している。同じくエンゲルスの回顧(「共産主義者同盟の歴史によせて」)によれば、マルクスとエンゲルスはこの組織に後から接触し、同盟の首脳部も全欧州に同盟員をもつ組織に発展する過程で秘密結社的・バブーフ的な共産主義結社からの脱出を模索しており、首脳部幹部(具体的にはカール・シャッパーである)はマルクスとエンゲルスに同盟に加盟をすすめ、この脱出をはかる理論的な宣言を執筆するよう依頼した(1847年秋)。1847年の第1回大会で起草された案が討議にかけられ、この討議のなかでエンゲルスが書いた案が採択された。これがのちの『共産主義の諸原理』である。エンゲルスは1847年11月23日付のマルクス宛ての書簡で「問答形式をやめ、共産主義者宣言という題」にする方がよいという趣旨を伝えた。それに対し同盟幹部は1847年11月の組織再編大会で採択した規約において「党の名のもとに宣言を発布する」としていた。また1848年1月25日付の共産主義者同盟中央委員会(ロンドン)からブリュッセル地区委員会(マルクスである)に宛てた通信「1月24日の中央委員会決議」は、マルクスに対し新綱領となる「K党宣言」を2月1日までにロンドンに発送するように督促をしている。マルクスは1月に綱領案を脱稿してその後ロンドンへ発送。翌月24日ロンドンで印刷・発行された。この時に著者名がつけられていないのは同盟の方針である。したがってこの文書にはマルクス、エンゲルスの思想とは別に共産主義者同盟幹部たちや職人革命家たち(ヴァイトリング等)の政治的見地や社会的意識が反映している。このためマルクス研究者の間では、この文書は厳密な意味ではマルクス自身の著作ではないという見解が現在では一般的になっている(的場昭弘他編『新マルクス学事典』弘文堂、2000年。また石塚正英氏、篠原敏昭氏の研究等を参照)。
[編集] 本書の概略
本書は次の4つの章から成る。
- ブルジョアとプロレタリア
- プロレタリアと共産主義
- 社会主義的・共産主義的文献
- 種々の反政府結社に対する共産主義者の立場
エンゲルスは本書の全体像について、1883年のドイツ語版序文のなかで「『宣言』を貫く根本思想」として以下の諸点を挙げた。
- 経済が社会の土台であること
- 歴史は階級闘争の歴史であること
- プロレタリア革命は一階級の解放でなく人類全体の解放であること
ただし、これらの点の多くは、第1章の「ブルジョアとプロレタリア」の中の内容である。
第1章は、「これまでの社会のすべての歴史は階級闘争の歴史である」という有名な章句で始まり、ブルジョアジーの時代(まだこのときはマルクスもエンゲルスも「資本主義的生産様式」という言葉を使っていない)は生産と社会をどう変えてしまったかを述べ、現代は生産力と生産関係の矛盾が激化した社会革命の時代であるとして、プロレタリアートという勢力がその革命を担う、という内容を述べている。「暴力によるブルジョアジーの転覆」という内容もここに登場する。
第2章は、共産主義者の運動の目的・性格づけが行われている。正義者同盟をバブーフ的なものからマルクス的なものへ変えるという当初のねらいからすれば、重要な意味をもつ箇所だった。とくにあらゆる財貨を共有し、完全平等を図るというバブーフ的な共産主義(そして今日でも広く共産主義はそういうものだと思われている)を「粗野な平等化」(第3章)とのべて批判し、所有一般の廃絶ではなく「ブルジョア的所有の廃止」が目標化された。そして、共産主義社会では国家権力が「政治的性格を失う」という見通しを述べた。
第3章は、当時存在した他の社会主義的潮流をどうみるか、という問題にあてられている。当時は「社会主義」「共産主義」を名乗ることが流行のように行われていたので、さまざまな流派が存在していた。
第4章は、共産主義者ではない政治勢力にたいする共産主義者の政治スタンスのとり方である。「一言で言えば、共産主義者は、いたるところで現に存在する社会的・政治的状態に対するどの革命運動をも支持する」とあるように、ブルジョアジーが中心の運動であってもそれが社会発展にかなっていれば支持をすべきだ、という立場を表明した。
「プロレタリアはこの革命において鉄鎖のほかに失う何ものをも持たない。彼らが獲得するものは世界である。万国の労働者、団結せよ」という有名な章句で閉じられる。
[編集] 本書の限界、あるいは批判
本書はマルクス主義の文献の中でも最も広範に読まれている文献の一つである。そして反対者・批判者からこれを典拠とする批判も数多く行われている。そのうちの最も多いものの一つが「共産主義者は、これまでのすべての社会秩序の暴力的転覆によってのみ、自分の目的が達せられることを、公然と宣言する」という叙述への批判である。また、バブーフの財貨共有制を批判したものの、生産手段と生活手段の区別がなく、「ブルジョア的所有の廃止」というスローガンと並んで「私的所有の廃止」という目標も掲げられていることが、「共産主義は私有財産をとりあげる」という批判の根拠になった。マルキスト側からは、暴力革命は当時の欧州の議会状況を反映したものであること、マルクスらは後年これらの見地を捨てたことなどが反駁としてあげられている。しかしながら上述「この宣言の成立の経緯」中でも触れられているように、この綱領文書は正確な意味でのマルクスの著作ではなく、エンゲルスの著作にも入らない(的場昭弘他編『新マルクス学事典』弘文堂、2000年、石塚正英氏の研究を参照、122~124ページ)。
[編集] 本書のこぼれ話
本書は発行された直後に革命が起きたために、長らく入手が困難な状況におかれ、1860年代のドイツでは「『共産党宣言』はドイツ国内に一説によると、たった二冊しか残っておらず、その一部はラサールの本箱のなかにあったという」(安世舟『ドイツ社会民主党史序説』)。ラサールとはマルクスの友人であり後に袂を分かったフェルディナント・ラッサールのことである。
[編集] 日本での訳文・扱い
日本に於ける最初の翻訳は、1904年11月13日発行の週刊『平民新聞』第53号に幸徳秋水と堺利彦が共訳して掲載したものである(3章は略された)。ただしこれは、ドイツ語からの翻訳ではなく、サミュエル・ムーアによる英語訳からの重訳であった。この号はただちに官憲の発売禁止措置をうけ、のちに堺利彦が1906年に全文を発表。このときは発禁処分を受けなかったが、大逆事件以後太平洋戦争が終わるまでの数十年間、非合法のままの扱いをうけた本となった。戦前、マルクスとエンゲルスの本は『資本論』をはじめ数多く読めたが(著作集“Werke”の邦訳も出ている)、綱領文書であるこの『共産党宣言』だけは発禁を解かれなかった。
[編集] 邦訳
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- 幸徳・堺訳「共産党宣言」、『平民新聞』第53号、1904年11月。
- 大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』(岩波文庫)、岩波書店、1951年12月。ISBN 4003412451
- 宮川実訳「共産党宣言」、『世界教養全集』15、平凡社、1962年2月。
- 金塚貞文訳『共産主義者宣言』、太田出版、1993年10月。ISBN 4872331397
- 『共産党宣言・共産主義の原理』ML主義研究所訳、大月書店、国民文庫。
- 『共産党宣言』村田陽一訳、大月書店(大月センチュリーズ版)
- 『マルクス・エンゲルス8巻選集』第2巻、大月書店
- 『共産党宣言・共産主義の諸原理』服部文雄、新日本出版社(古典選書版)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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