名鉄蒲郡線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蒲郡線(がまごおりせん)は、愛知県幡豆郡吉良町の吉良吉田駅から愛知県蒲郡市の蒲郡駅までを結ぶ名古屋鉄道の鉄道路線。
運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍)。
目次 |
[編集] 路線データ
名鉄蒲郡駅は高架化されている。
[編集] 概要
三河湾に沿って走り、沿線には形原温泉、西浦温泉や吉良温泉、愛知こどもの国などの温泉地やレジャー施設があり、潮干狩りや海水浴など季節のレジャーも楽しむことが出来る。三河鉄道により建設され、名古屋鉄道合併時は三河線の一部であったが、1948年に蒲郡線となり、運転系統上は西尾線との直通列車が主体となっている。
かつては名古屋方面からの本線直通特急が運転され、犬山線、知多新線と並び観光路線として脚光を浴びていた。そのため1970年には複線化のための認可を受け、その頃に建設・整備された、こどもの国駅や蒲郡市内の国道247号を跨ぐ形原~三河鹿島間の跨線橋には複線化用地が準備された。しかしその後レジャーの多様化や意識の変化、日本国内各地に出来る新しいテーマパークなどとの競合で観光地としての衰退が顕著になり、名鉄が沿線の観光事業から撤退したことにより観光路線の役割を終えた。
通勤路線へと転じたものの、沿線地域のもともと高い自動車の普及率に加えて周辺道路網の整備が進み、鉄道においても名古屋~蒲郡間は、名鉄蒲郡線経由に比べルートが短い上に複線で線形が良い東海道線が、1980年代後半の国鉄末期から始まる名古屋近郊区間のダイヤ拡充で優勢となった。国鉄がJRとなって以降の東海道線は特別快速、新快速などの運転で差を見せつけたほか、それまで蒲郡競艇場への主要な交通アクセスを担っていた名鉄の蒲郡競艇場前駅にも、真横にJRが三河塩津駅を設置したことでさらに利用客が奪われた。
[編集] 存続問題
1997年12月19日に名鉄の箕浦宗吉社長(当時)が定例記者会見の席で「不採算路線の整理・統廃合を関係自治体と協議したい」と発言し、谷汲線、八百津線などとともに廃止検討路線として挙げられたことがあるが、ワンマン運転導入や無人駅化などの合理化によりひとまず回避されることとなった。
しかし利用客の減少と運行本数、直通優等列車の削減の悪循環が続いているため、2005年12月20日に名鉄の要請で西尾~蒲郡間の利用促進と経費節減を図る目的とする、沿線の二市二町と名鉄で構成された名鉄西尾・蒲郡線対策協議会を設立した。この会で名鉄は、ワンマン運転で蒲郡線と一体的に運用されている西尾線内2駅が、新システム用の自動改札機導入に伴い、設置費用面から維持困難のため廃止の方向であるとし、その後に根拠として「1日の乗降客数が300人に満たない市街地以外の駅」という条件を公表した(この2駅は2006年12月16日に廃止)。この具体的数値を示す手法は蒲郡線に対しても行われ、「バスへの転換等を検討する指標である輸送密度の目安が4000人であるのに対し、蒲郡線は2857人(2005年度)である」と廃線を強く匂わせたが、これに対し沿線自治体側は「名鉄の公共交通機関としての責任」などを訴え、存続を要望した。この中で蒲郡線の均一制運賃やサイクルトレインの導入も検討され、実際に2007年3月1日から5月31日までの間、西尾線福地駅~蒲郡競艇場前駅の各駅(こどもの国駅除く)でサイクルトレインの試験運用が実施された。
現在トランパスは蒲郡線全線で使用が出来ない状態だが、名鉄はシステム導入の見込みを立てていない。
[編集] 運行形態
朝と夜に新安城駅および津島線・犬山線方面と直通する列車があるほかは、西尾~蒲郡間に普通列車により30分間隔で毎時2本、ワンマン運転されている。他線内では快速急行・急行・準急として運転される列車も蒲郡線内は全て普通列車として運行しており、新安城駅、西尾駅などで種別が変わる。
[編集] ワンマン運転
蒲郡線は一部ダイヤを除いてワンマン運転で行われるが、西尾線の西尾駅と蒲郡駅を結ぶことから、西蒲ワンマンと呼ばれることもある。他の名鉄線のワンマン運転とは利用方法が異なり、車内に料金箱を設置するなど専用に改造された2両編成の6000系の車両が使用される。運転区間内の無人駅では乗車扉と降車扉は決められており、乗車は先頭車両の後ろ扉、降車は先頭車両の前扉で、先頭車両の中扉と後方車両の扉は開かないが、有人駅の蒲郡駅、吉良吉田駅、西尾駅と、駅員配置時間帯の蒲郡競艇場前駅はホーム側の全部の扉が開く。
各駅に設置されている券売機であらかじめ切符を購入し、降車時に運転台近くの料金箱に切符、乗り越しの場合は運賃を入れて降車する。但し名鉄線内でこの方式で降車するのは、蒲郡線と西尾線西尾駅以南のうち無人駅となっている駅だけで、それ以外の場合は降車駅の改札口で駅員に手渡しをする。
[編集] 歴史
- 1920年(大正9年)12月2日 三河鉄道により三河吉田(現在の吉良吉田)~蒲郡間の免許を取得。
- 1929年(昭和4年)8月11日 三河鉄道により三河吉田(現在の吉良吉田)~三河鳥羽間が開業。
- 1936年(昭和11年)7月24日 三河鳥羽~三河鹿島間が開業。三河鳥羽以東は非電化。
- 1936年(昭和11年)11月10日 三河鹿島~蒲郡間が開業し全通。
- 1937年(昭和12年)3月9日 拾石~蒲郡間に竹谷駅開業。
- 1937年(昭和12年)5月11日 竹谷~蒲郡間に江畑駅開業。
- 1941年(昭和16年)6月1日 名古屋鉄道が三河鉄道を合併。三河線の一部となる。
- 1943年(昭和18年)2月1日 三河吉田~三河鳥羽間の架線電圧を1500Vから600Vに降圧し、西尾線と直通運転開始。
- 1944年(昭和19年) 宮崎口駅、洲崎駅(現在のこどもの国駅)休止。
- 1946年(昭和21年)10月31日 三河鳥羽~東幡豆間が電化。
- 1947年(昭和22年)4月23日 東幡豆~蒲郡間が電化。
- 1948年(昭和23年)5月16日 三河吉田~蒲郡間を蒲郡線とする。
- 1952年(昭和27年)10月1日 洲崎駅を移設、営業再開。
- 1953年(昭和28年)1月1日 拾石~蒲郡間の竹谷駅と江畑駅を統合し塩津駅開業。
- 1959年(昭和34年)7月12日 蒲郡線の架線電圧を1500Vに昇圧。三河線との直通に戻る。
- 1960年(昭和35年)3月27日 西尾線の1500V昇圧により西尾線との直通運転を再開。
- 1960年(昭和35年)11月1日 三河吉田駅を吉良吉田駅に改称。
- 1968年(昭和43年)10月1日 三河鹿島~蒲郡間の拾石駅と塩津駅を統合し蒲郡競艇場前駅開業。
- 1970年(昭和45年)2月5日 複線化のための鉄道施設の計画変更認可受領。実際には行われず。
- 1970年(昭和45年)10月5日 休止中の吉良吉田~三河鳥羽間の宮崎口駅廃止。
- 1971年(昭和46年)1月24日 形原~三河鹿島間の一部を高架(立体交差)化。
- 1971年(昭和46年)9月10日 蒲郡駅高架化工事のため同駅が仮駅に移転。蒲郡(仮)~蒲郡間を休止しバス代行運転開始。
- 1972年(昭和47年)3月14日 蒲郡駅高架化。蒲郡(仮)~蒲郡間運行再開。蒲郡(仮)駅と代行バス廃止。
- 1974年(昭和49年)10月 愛知こどもの国開園に伴い、最寄り駅として洲崎駅を再び移設。
- 1976年(昭和51年)10月10日 洲崎駅をこどもの国駅に改称。
- 1997年(平成9年)12月19日 名鉄・箕浦社長(当時)の定例記者会見で、不採算路線の整理・統廃合を関係自治体と協議したい旨の発言。対象路線に蒲郡線が含まれるが、後に回避。
- 1998年(平成10年)4月6日 西尾線・蒲郡線の一部ダイヤ見直しで、特急と朝の名古屋本線直通列車などを除き列車は西尾駅止まりとなる。
- 1998年(平成10年)6月1日 全線でワンマン運転開始。
- 2000年(平成12年)11月11日 蒲郡競艇場前~蒲郡間高架化。
- 2005年(平成17年)1月29日 ダイヤ改正により、蒲郡線内の特急・急行廃止。
- 2005年(平成17年)12月20日 名鉄の要請により名鉄西尾・蒲郡線対策協議会が設立。
- 2007年(平成19年)3月1日 5月31日までの間、西尾線福地~蒲郡競艇場前の各駅(こどもの国駅除く)でサイクルトレインの試験運用実施(詳細は外部リンク参照)。
[編集] 駅一覧
普通列車のみ運行。全列車、各駅に停車。
駅名 | 営業キロ | 接続路線 | 所在地 | |
---|---|---|---|---|
吉良吉田駅 | 0.0 | 名古屋鉄道:西尾線 | 愛知県 | 幡豆郡吉良町 |
三河鳥羽駅 | 3.2 | 幡豆郡幡豆町 | ||
西幡豆駅 | 4.7 | |||
東幡豆駅 | 7.0 | |||
こどもの国駅 | 8.9 | |||
西浦駅 | 10.5 | 蒲郡市 | ||
形原駅 | 11.7 | |||
三河鹿島駅 | 13.5 | |||
蒲郡競艇場前駅 | 15.3 | 東海旅客鉄道:東海道本線(三河塩津駅) | ||
蒲郡駅 | 17.6 | 東海旅客鉄道:東海道本線 |