園田高弘
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園田 高弘(そのだ たかひろ、1928年9月17日 - 2004年10月7日)は、 戦後の日本の音楽界を演奏者・教育者としてリードした長老ピアニスト。レパートリーと録音・演奏回数ともに余人の及ばない域に達しており、没年の翌年にも演奏会のスケジュールが入っていたように最期まで現役を貫いた。
目次 |
[編集] 経歴
園田が幼少期に急逝した父・清秀は、フランスでロベール・カサドシュに学んだピアニスト。その方針により音楽の英才教育を受ける。1936年に父が他界してからは、1939年からユダヤ系ロシア人ピアニストレオ・シロタの個人指導を受ける。軍事教練の無かった旧制豊山中学(現日本大学豊山高等学校)四年終了後、最年少で東京音楽学校入学。1948年に東京音楽学校(現東京藝術大学楽理科)を卒業後、ソリストとして活動を開始し、ショパン作品の連続演奏会や、ハチャトゥリアンやガーシュウィン、プロコフィエフ作品の日本初演も行なった。
1952年に渡仏し、パリでマルグリット・ロンに入門。同門のフリードリヒ・グルダ、サンソン・フランソワとも親交を結ぶ。またパリではヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に接して深い感銘を受ける。1953年に帰国し、パリ時代の留学生仲間である春子夫人と結婚する。
1954年にNHK交響楽団客演指揮者として来日したヘルベルト・フォン・カラヤンとベートーヴェンの協奏曲を共演。カラヤンの熱心な説得により、1957年にカラヤンの推薦状を携えてベルリンに留学。フルトヴェングラーの元秘書の知遇と助言を得て、ヘルムート・ロロフに入門する。1959年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して、ドイツ・デビューを果たす。これより(ミュンヘン、ウィーン、ブダペスト、ワルシャワ、モスクワ、ミラノ、パリ、ロンドンなど)ヨーロッパ各地で演奏活動を行い、ニューヨークでもデビューを果たす。海外ツアーでは「園田高弘は日本のギーゼキング」と渾名され、本人もこの形容に戸惑っていたことが著書から確認できる。
1960年に帰国し、日本での演奏活動と教育活動を本格化させる。1968年に、目前のベートーヴェン生誕200周年を記念して、ベートーヴェンのピアノ全作品の連続演奏会を企画・実行。ベートーヴェン全作品の連続演奏は、日本の洋楽演奏史において前代未聞の記念碑ともなった。1971年に、音楽界への長年の貢献につき、日本芸術院より報奨を得る。1973年には、バッハ平均律クラヴィーア曲集を全曲録音、同年のレコード・アカデミー賞に輝いた。1977年にはモービル音楽賞受賞、1980年より芸術院会員。その後もベートーヴェンの≪ピアノ・ソナタ全集≫は3回録音したほか、その後もバッハやシューマン、リストの作品全曲連続演奏会を実現させた。また、「実験工房」同人として、日本戦後の新音楽、たとえば黛敏郎、武満徹、湯浅譲二らのピアノ曲を積極的に演奏してきた。1971年には、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団20世紀音楽演奏会において、諸井誠の≪ピアノ協奏曲第1番≫の世界初演も実現させた。晩年には昭和音楽大学の教授として後進の指導にあたった。
1989年1月7日、昭和天皇崩御にあたっての特別編成番組で日付の変わる直前(当時の新聞記事では23時45分から55分まで)、園田の演奏したショパンの葬送行進曲(ピアノソナタ第2番より)がNHK総合にて放送されている。
2004年秋、解離性大動脈瘤破裂により急逝。数年前から発作で倒れることがしばしばあったが、死に繋がる発作とは本人は認識しておらず、翌年のスケジュールまで調整中であった。
[編集] レパートリー
園田高弘のレパートリーは、古今の名曲から同時代の実験的なレパートリーまで、またドイツ・オーストリアやフランス音楽のほかにもロシアやソ連、スペイン、アメリカ合衆国までと、時代的にも地域的にも楽曲のバラエティの広さを誇っている。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ショパン、リスト、フランク、ブラームス、サン=サーンス、ムソルグスキー、チャイコフスキー、アルベニス、ドビュッシー、ブゾーニ、グラズノフ、スクリャービン、ラフマニノフ、ラヴェル、レーガー、シェーンベルク、ベルク、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ヒンデミット、ガーシュウィン、プーランク、コープランド、バーバー、バーンスタイン、メシアンらの作品のほか、フルトヴェングラー作曲のピアノ協奏曲の日本初演にも挑戦した。また、ソリストとしての協奏曲や独奏作品の演奏ばかりでなく、室内楽ピアニストとしても晩年まで熱心に活動を続けてきた。これほどのレパートリーを誇る邦人ピアニストは、園田と同世代ばかりでなく、後輩ピアニストの中でもほとんど見当たらず、かろうじて舘野泉や小山実稚恵が後に続こうとしているにすぎない。
園田は、レオ・シロタを通じてフェルッチョ・ブゾーニの孫弟子にあたるが、超絶技巧と強烈な個性を売り物にする、19世紀ヴィルトゥオーゾの伝統をそれほど汲んではいない。現代音楽、とりわけシェーンベルクを得意としていたことからも分かるように、情意を濃厚に表出するよりも、楽譜を知的に把握し、作品を分析的に再構成するタイプの演奏家であった。だからといって決してテクニックをおろそかにせず、正確な演奏技巧と軽いタッチによって、リズムのドライブ感を堪能させる演奏を行なった。このためもあり、園田の演奏・解釈は、硬いアゴーギクを求める近代以降のいわゆる「新音楽」と相性がよく、現代音楽にとって不可欠の伝え上手なピアニストであった。晩年には一時的に技術的な衰えが見られ、デビュー時とは正反対に協奏曲の演奏ですら衰えを覆うようにアピールを控える。しかしながらそれを補う表現意欲と、音楽との誠実なとりくみとによって、聴衆、とりわけ多くの若い聞き手をひきつけ、感動させることができた。
1970年代までは音色よりも機能性を重視した奏法で、N響とのライブ演奏のヴィデオ映像でも「鍵盤に圧力をかけて弾く」古い奏法を確認できる。この頃まではレパートリーは幅広く何でもこなしていたが、国際審査員活動の経験が増えるようになってから「音色を良く聴く」奏法へと変え、レパートリーもベートーヴェンを中心に絞り込んだ。ショパンはあまり得意ではなさそうであったが、75歳記念コンサートの映像でも最新のショパン研究結果であった「拍節を越えるルバート」を導入したり、晩年まで奏法の改革には意欲的であった。このように、解釈に学究的な姿勢を示しているのも園田の特徴と言ってよい。
レパートリーが広すぎてメジャーレーベルでは次第に対応できなくなり、evica等の自主レーベルを設立して自身と後進の演奏のCD化に死の直前まで熱意を傾けた。原則的には自身の新録音および自分で執筆したライナーが付される。使用ピアノもYAMAHAを使うことが圧倒的に多かった。
[編集] 園田高弘賞ピアノコンクール
1985年から2001年まで、父親の郷里大分県で園田高弘賞ピアノコンクールを主宰。バッハやウィーン古典派などのレパートリーに加えて、リストやラフマニノフなどのヴィルトゥオーゾ作品、シェーンベルクやスクリャービン、ジョリヴェなどのモダンな作品、くわえてリゲティやクセナキスのほか、矢代秋雄、三善晃、一柳慧、松村禎三、野田暉行ら戦後の邦人作曲家を含んだ現代音楽の4種類の演奏・解釈が課題として審査される。
しかしながら、これは要綱に記しただけで実際のコンテスタントは「易しく手間のかからない」現代作品と、誰もが知っているスタンダードナンバー化したロマン派の大曲を好んで取り上げ、『なかなか自分の思い通りの選曲をしてくれない』とこぼしていた。(リゲティが課題曲の中に入った年では、選曲したコンテスタントはたった一人だけ。)課題曲の広さとバラエティは、まさに園田の名にふさわしく、日本では珍しく個性的なコンクールとなっていた。現在の日本で、これほどさまざまな力量を要求するコンクールは類を見ない。テープ審査は全テープを園田自らがチェックするという、大変親切な選考方法でもあった。
『国際ピアノコンクールの模擬だと思って、結果はどうであれ挑戦を求む』という園田の姿勢に、当時の日本楽壇は賛否両論に割れ、「コンテスタントがかわいそう」といった感傷的な意見すら飛んだ。課題の難易度は年を追うごとに厳しくなり、メシアン生誕90周年を祝った年はふんだんにメシアン作品が課題の中に取り入れられ、悪戦苦闘するコンテスタントが続出することとなった。このサバイバル振りは1990年代までの国際ピアノコンクールの要綱を意識したものではある。が、園田の意向とは正反対に現在の国際ピアノコンクールはレパートリーの縮小化に向かっている。
コンクールは大分市の次期文化振興政策の改訂とともに幕を下ろすこととなったが、当時の大分市はこのコンクールの開催を大変好意的に見つめており、不可解な幕の下ろし方という噂が後を絶たない。園田の体調が思わしくなく、コンクールを審査できるだけの体力と集中力が持たないために自ら責任をとったのではないかとの説が有力であり、急逝の原因にも通じるものがある。
[編集] 外部リンク
- 公式HP
- ピティナ・ピアノ曲事典(演奏録音あり)