山崎隆造
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山崎 隆造(やまさき りゅうぞう、1958年4月15日 - )は、広島県広島市中区国泰寺町出身。昭和後期から平成期(1970年代後半~1990年代前半)のプロ野球選手(外野手、三塁手)。広島東洋カープ二軍監督。
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[編集] 来歴・人物
現在の登録名は「山崎 立翔」(読みは本名と同じ)。崇徳高校では3年春の甲子園で優勝(現・早稲田大学野球部監督の應武篤良は同期でチームメイト)。超高校級の遊撃手と騒がれ1976年ドラフト1位で広島に入団。当時高校生内野手のドラフト1位指名は珍しかった。1978年の成績、出場1試合、打撃成績全て0は、1試合だけ代走で出て牽制アウトとなりそのまま二軍へ落とされたもの。そのまま一軍へ上がっていなければ、球史に残る珍選手になるところだった。この年後半から古葉監督の勧めで高橋慶彦に次いでスイッチヒッターへ転向した。また高橋慶がいたため遊撃手には定着出来ず、入団5年目までは内外野をかけもちした。
スイッチをモノにして、レギュラー定着かに思われた1981年、熊本藤崎台球場でのオープン戦で打球を追ってフェンスに激突し右ひざの皿を粉砕骨折。この時の衝撃音はベンチ裏まで聞こえた程で、皿はたいてい二つに割れるものだが、山崎の場合は粉々になっていたという。粉々になった骨を掻き集めて、ワイヤーで皿状に括る前例のない手術を行う。一転して選手生命の危機を迎えた。この頃、地方の球場はフェンスがコンクリートが多かった。必ずラバーが貼られるようになったのは山崎のこの大怪我からである。当時関係者は「もうだめだろう」と口をそろえた。
この年一年は棒にふったが1982年に鮮やかに復活。1983年から3年連続で打率3割を超し、またベストナイン3度、外野手としてゴールデングラブ賞も4度受賞するなど走攻守三拍子揃った「赤ヘル野球」の体現者として先輩の高橋慶とともに大活躍した。高橋慶ほどパンチは無かったが、柔らかいバットコントロールで、どんなボールも右左にいやらしく打ち分け、相手チームから嫌がられる名選手だった。この頃は首位打者候補にも挙がる程だった。打撃タイトルは無かったものの、右ひざ骨折という致命的な大怪我をしながら、その後203個の盗塁を重ね、1984年からは6シーズン連続全試合出場を果たしたのは驚異的である。1993年シーズン終了後に現役を引退しコーチ、二軍監督を経て2001年から一軍守備走塁コーチ(サードランナーコーチ)を務めたが、セカンドランナーをホームに突入させ、憤死させることが多く、「壊れた信号機」とも言われた。2006年から再び二軍監督を務める。
[編集] エピソード
- 人気ロックバンド「くるり」の岸田繁が山崎の現役時代のプレーを見てファンとなり、現在も広島の大ファンで、2006年6月4日に広島市民球場で始球式を務めた。
- 広島一筋の選手というと三村敏之が生まれてこの方、広島を離れたことがないと有名だが、山崎の方が土着性ではさらに上回る。三村の育った安芸郡海田町は、車で広島市内中心部まで15分くらいかかるが、山崎の生まれてこの方住み続ける自宅から、広島市民球場までは歩いて5、6分のところにある。国泰寺小学校・中学校(大阪桐蔭高校・中田翔は中学の後輩となる)は自宅の隣り、また崇徳高校も自転車で15分ぐらい、社会人になってからの職場は歩いて5分、と広島歴代一、ともいうべき超地元出身選手である。
[編集] 略歴
[編集] 所属球団
- 広島東洋カープ(1977年 - 1993年)
- 広島東洋カープ・一軍守備走塁コーチ(1994年 - 1995年、2001年 - 2005年)
- 広島東洋カープ・二軍守備走塁コーチ(1996年 - 1997年)
- 広島東洋カープ・二軍打撃コーチ(1998年)
- 広島東洋カープ・二軍監督(1999年 - 2000年、2006年-)
[編集] 背番号
[編集] 経歴・タイトル・表彰
- 初出場 1978年8月1日対中日ドラゴンズ(広島市民球場)
- 初安打 1979年詳細不明
- 初本塁打 1979年詳細不明
- ベストナイン 3回(1984年・1985年:外野手、1991年:三塁手)
- ゴールデングラブ賞 4回(1984年 - 1985年、1987年 - 1988年)
- オールスター出場 4回(1983年 - 1984年、1987年、1991年)
[編集] 記録達成歴
[編集] 年度別成績
年度 | チーム | 試合数 | 打率 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 |
1977年 | 広 島 | 0 | .000 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1978年 | 広 島 | 1 | .000 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1979年 | 広 島 | 24 | .264 | 14 | 1 | 5 | 8 |
1980年 | 広 島 | 75 | .252 | 40 | 0 | 6 | 17 |
1981年 | 広 島 | 0 | .000 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1982年 | 広 島 | 86 | .240 | 44 | 2 | 14 | 14 |
1983年 | 広 島 | 107 | .305 | 109 | 6 | 34 | 26 |
1984年 | 広 島 | 130 | .319 | 158 | 6 | 43 | 39 |
1985年 | 広 島 | 130 | .328 | 167 | 10 | 46 | 35 |
1986年 | 広 島 | 130 | .275 | 135 | 7 | 43 | 23 |
1987年 | 広 島 | 130 | .294 | 143 | 12 | 43 | 21 |
1988年 | 広 島 | 130 | .240 | 113 | 10 | 47 | 14 |
1989年 | 広 島 | 130 | .266 | 97 | 8 | 34 | 12 |
1990年 | 広 島 | 127 | .294 | 118 | 7 | 50 | 8 |
1991年 | 広 島 | 122 | .301 | 121 | 8 | 50 | 9 |
1992年 | 広 島 | 111 | .265 | 88 | 6 | 31 | 2 |
1993年 | 広 島 | 98 | .236 | 57 | 5 | 31 | 0 |
通 算 | 1531 | .284 | 1404 | 88 | 477 | 228 |
[編集] 関連項目
00 山崎浩司 | 0 井生崇光 | 1 前田智徳 | 2 東出輝裕 | 4 尾形佳紀 | 5 栗原健太 | 6 梵英心 | 9 緒方孝市 | 10 比嘉寿光 | 11 小山田保裕 | 12 白濱裕太 | 13 佐竹健太 | 14 梅原伸亮 | 15 黒田博樹 | 16 宮崎充登 | 17 大竹寛 | 18 佐々岡真司 | 19 上野弘文 | 20 永川勝浩 | 21 ショーン・ダグラス | 22 高橋建 | 23 横山竜士 | 24 河内貴哉 | 25 新井貴浩 | 26 廣瀬純 | 27 木村一喜 | 28 広池浩司 | 29 佐藤剛士 | 30 森跳二 | 31 石原慶幸 | 33 鞘師智也 | 34 前田健太 | 35 中東直己 | 36 青木勇人 | 37 岡上和典 | 38 田中敬人 | 39 梅津智弘 | 40 倉義和 | 41 森笠繁 | 42 長谷川昌幸 | 44 山田真介 | 45 松本高明 | 46 大島崇行 | 47 青木高広 | 48 ジャレッド・フェルナンデス | 50 鈴木将光 | 51 末永真史 | 52 大須賀允 | 53 林昌樹 | 54 吉田圭 | 55 嶋重宣 | 56 中谷翼 | 57 甲斐雅人 | 58 小島心二郎 | 59 山本芳彦 | 60 齊藤悠葵 | 61 山本翔 | 62 今井啓介 | 63 仁部智 | 64 会沢翼 | 65 相澤寿聡 | 66 上村和裕 | 67 丸木唯 | 68 金城宰之左 | 69 天谷宗一郎 | 93 ビクトル・マルテ | 121(育成選手) 飯田宏行 | 122(育成選手) 山中達也 | 123(育成選手) エスマイリン・カリダ |
71 監督 マーティ・レオ・ブラウン | 75 ジェフ・リブジー | 88 小早川毅彦 | 73 小林幹英 | 87 澤崎俊和 | 77 高信二 | 85 永田利則 | 78 熊沢秀浩 | 76 二軍監督 山崎立翔 | 82 浅井樹 | 80 山内泰幸 | 86 阿部慶二 | 74 岡義朗 | 81 道原裕幸 | 83 朝山東洋 | 89 水本勝巳 |
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