黒田博樹
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男子 野球 | ||
銅 | 2004 | 野球 |
黒田 博樹(くろだ ひろき、1975年2月10日 - )は、大阪府大阪市出身の広島東洋カープ所属のプロ野球選手(投手)。父親も元プロ野球選手でかつて南海ホークスに所属していた黒田一博。父親が51歳のときに生まれた。
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[編集] 来歴・人物
上宮高から専修大を経て、1996年ドラフト逆指名で広島東洋カープに入団。 入団当初はどちらかというとスピードは出るが精神的に弱く、同期の澤崎俊和の方が一軍で投げる機会は多かった。しかし、黒田の球を見た達川光男(当時広島二軍監督)に「お前は絶対に2億円プレーヤーになる」と言われた。(本人と達川の会談より)。実際、最多勝を挙げた2005年のオフにタイトル料込みで年俸2億円に達した。
1999年シドニーで行われたインターコンチネンタル杯に日本代表として出場し韓国戦で勝利、台湾戦で完封勝利を収める。
2001年より3年連続2ケタ勝利を達成、日本プロ野球を代表する本格派右腕に成長した。当時、同い年の巨人の松井秀喜との互いに相譲らない力と力の真っ向勝負は、見るものすべてを魅了し、今なお語り継がれる名勝負となった。特に、2002年9月7日東京ドームでの巨人―広島26回戦、8回2アウト一塁一打逆転という場面での11球勝負は、テレビ解説者や当時の山本監督もうなったほどの名勝負。結果はフォークのすっぽ抜けにタイミングが合わず見逃し三振。
2003年には、それまでのエース佐々岡真司に代わって開幕投手となる。2003年の前半は不調で勝てない時期が続いたが、後半から本来の調子を取り戻し、最終的に13勝を挙げた。2003年のアテネオリンピック野球アジア予選、2004年のアテネオリンピックでは野球日本代表中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献した。
最速157キロのストレートに140キロ前半から後半を計測するフォークボール、さらには130キロから140キロの高速スライダー、2005年からは150キロを計測する事もあるシュートを投げる様になった。江川卓が「調子がいい時の彼のストレートは、ど真ん中に放っても打たれない」と自著で評価したり、チームが完封された中日・落合博満監督が「今日の(2006年7月2日、3安打完封)黒田はオレが現役の時でも打てない。だからウチの選手が打てる訳がない」と評した。
総合的な能力は極めて高く、現在のプロ野球を代表する先発完投型の本格派右腕である。完投の多さから「ミスター完投」の異名を持つ。一方で完封数は年に1回程度。9年間に60完投を記録しているが、完封に関しては11回に留まっている。好投していても打線の援護に恵まれないことが多いが、黙々とチームの援護を待ちながら力任せに剛球を投げ込む姿は、昭和プロ野球の先達達を髣髴とさせる、まさに「エース」。その姿から物静かな求道者の様に思われがちだが、新井貴浩のバッグの中に消火器を入れるという悪戯をするなど、かなりお茶目な性格でもある。
負けん気の強さにも定評があり、入団時には同期入団でドラフト1位の澤崎俊和から「一緒に頑張ろう」と握手を求められるが、ライバル心を剥き出しにし、拒否したとも言われている。2005年にリーグ最多勝で初タイトルを獲得。父に「巨人にだけは負けてはならない」と言われ続けたこともあってかアンチ巨人(巨人キラー)で知られ、巨人戦に登板すると「燃える」という。新人王を獲得した澤崎に遅れること3年、ついにカープの先発ローテに名を連ね、いつしか同期筆頭の澤崎を超えた。
福原忍(阪神)や藤井秀悟(東京ヤクルト)、三浦大輔(横浜)らと同様、試合を作っても援護点に恵まれない投手としても有名であり、2005年シーズンには互いが完封リレーを行い0-0というスコアで引き分けてしまうという試合(4月15日対横浜戦 相手投手は三浦)もあった。また、2006年の阪神戦でもわずか2点の援護しかもえらえなかった中で、8回1失点で抑えて勝ち投手の権利を得て9回を永川勝浩に託したが、その永川が9回2死から矢野輝弘に起死回生の同点ホームランを打たれてしまい勝ち星をふいにしてしまった試合(結果は引き分け)まであった。
打撃は苦手分野であり、連続無安打の記録をつくったこともある。
2006年の国別対抗戦WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)には広島から新井貴浩とともに選出され、岩村明憲、福留孝介と共に「無名の注目選手」とされるも、2月24日の12球団選抜との練習試合で打球を右手に受け負傷。出場辞退を余儀なくされる。
同年はシーズン前半も不調だったが、7月2日の中日戦から負け無しの8連勝。7月の月間MVPをチームメイトの栗原健太とダブル受賞。更に8月の月間MVPも連続受賞し、球団史上初の2ヶ月連続月間MVP受賞となった。この時、「広島カープの歴史に名前を残せて嬉しい」と発言、広島への強い愛着を伺わせた。しかし、シーズン終盤は右ひじを痛めて長期離脱。10月16日の中日戦で救援で復帰登板、プロ初セーブを記録した。この年、13勝6敗1S・防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。1点台でのタイトル獲得は1992年の赤堀元之以来、セリーグでは1989年の斎藤雅樹以来の快挙となった。この年はパリーグの斉藤和巳も1.75と1点台でタイトルを獲得しており、セパ両リーグで1点台でのタイトル獲得は1969年の江夏豊、木樽正明まで遡る。また同年、スピードアップ賞を受賞。これはテンポのよい投球が評価されてのものだった。
2007年も開幕投手となり、長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。
ファンサービスには、常に快く応えていて多くのファンから支持されている。ファンからは「広島で最も熱心にファンサービスをしてるのは、黒田だ」と言われている。
[編集] FA去就
2006年5月31日にFA権を取得。本人は「これを機に他球団の評価も聞いてみたい」と語っていた。広島球団はこれまで、年俸高騰の理由からFA権を行使しての残留を一切認めておらず(これはかつて同チームの主砲を務めていた金本知憲(現:阪神)本人から相当譲歩したFA残留条件に対しても例外ではなかった)、宣言選手は引き止めないという方針であった。
しかし、近年において広島の投手陣の脆弱さがチームの深刻なまでの下位低迷の大きな原因となっている中、その中で安定した成績を残している「大黒柱」的存在の黒田が去る事になれば、チームにとっては死活問題になるため、今回ばかりは黒田が宣言をしても残留交渉に動くということで注目され「5年10億円(二年目以降は源泉徴収で税引き後実質減俸になるので朝三暮四になる条件)」契約提案説などが出ていた。
10月15日広島球団は「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を提示。本格的に何が何でも黒田を引き止める方針であることを明らかにした。年俸だけを単年ベースでみると、1年2億5000万円であり、2006年の年俸が2億円であることから、タイトル奪取などの活躍とFA宣言をもってしても5000万円のみの昇給で、以後3年は現状維持、前述の朝三暮四になる点も同じという契約にすぎないが、カープで従来2億円超えを経験した選手は前田智徳のみであり、その意味では破格の条件といわれた。スポーツ新聞などでは「FA宣言して阪神移籍が濃厚」と度々報じられ、条件比較なら資金面で圧倒的に劣勢のカープ側は移籍を覚悟せざるを得ない状況だったが、2006年11月6日に4年契約12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしており、本年俸は上がってないが、カープとしては限界目一杯の条件)でFA宣言せずそのまま広島に残留することを表明した。
なおこの契約は、4年の契約期間内でも自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっているが、当面はメジャー移籍する予定がないとしている。また黒田は「今後も国内他球団の移籍はない」と明言して、国内なら「生涯広島」を宣言した。経営資源に劣る広島球団側にはじわじわと条件を上げつつ説得という選択肢しか無かったとはいえ、経営健全化に取り組むチームが増える中でもとかくインフレ的条件の乱れ飛びがちなFA戦線にあって異色の結果となった。
阪神タイガースはポスティングシステムによる大リーグ移籍が確実視されていた(のちにニューヨーク・ヤンキースに移籍した)井川慶の代役として黒田の獲得を目指していたが、阪神ファンの間からはその黒田獲得の動きに関して賛否両論が起こり、球団内部からも「金本・シーツに続いて黒田まで獲得したら広島タイガース化する」との批判も出た。黒田の広島残留決定は複雑な心情ながらも、その決断を評価する阪神ファンも多い。
FA権を行使せずに残留を決めたこと、残留会見での発言(「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった。」「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった。」)は各方面に主に好意的な反響を呼び、全国CMや漫画化のオファーも来ている。また、2006年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。そして、市民に感動を与えた事が評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。
そんな黒田の残留を後押ししたとも言っても過言ではないのが、2006年シーズン終盤、FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせてる真っ只中、長いカープの低迷と共にファンの熱も冷めてしまったと評されたファンが動き、完成させた広島市民球場外野席に突如現れた巨大横断幕である。それには多くのファンからのメッセージ、そして大きな文字でこう記されていた。
- 「我々は共に闘って来た 今までもこれからも・・・ 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹」
さらに黒田のシーズン最終登板には満員のファンが黒田の背番号15の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げた。「あのファンの気持ちは大きかった」と黒田も述べている。
未だメジャー挑戦の可能性が残っているために、MLB各球団は黒田をマークしている。特にテキサス・レンジャーズはGMが黒田に興味を示した発言をしている。またシアトル・マリナーズも松坂争奪戦に加わる様に見せて、黒田を水面下で狙っていたと言われている。
[編集] 略歴
- 身長・体重:184cm 85kg
- 投打:右投右打
- 出身地:大阪府大阪市
- 血液型:B型
- 球歴・入団経緯:上宮高 - 専大 - 広島(1997年 - )
- FA取得:2006年(1回目・現在も有資格者)※4年契約締結の為、実質FA買取
- プロ入り年度・ドラフト順位:1996年(2位・逆指名)
- 英語表記:KURODA
- 推定年俸:25000万円+出来高(2007年)
- 背番号:15
- 守備位置:投手
[編集] 経歴・タイトル
- 初出場・初勝利 1997年4月25日対読売ジャイアンツ(東京ドーム)
- 初セーブ 2006年10月16日対中日ドラゴンズ(広島市民球場)
- 通算1000奪三振 2006年4月6日対阪神タイガース(倉敷マスカットスタジアム)打者は赤星憲広
[編集] 年度別成績(一軍)
年度 | チーム | 試合数 | 完投 | 完封 | 勝数 | 敗数 | セーブ | 投球回 | 奪三振 | 四球 | 死球 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997年 | 広島 | 23 | 4 | 1 | 6 | 9 | 0 | 135 | 64 | 63 | 4 | 66 | 4.40 |
1998年 | 18 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | 45 | 25 | 24 | 1 | 33 | 6.60 | |
1999年 | 21 | 2 | 1 | 5 | 8 | 0 | 87 2/3 | 55 | 39 | 3 | 66 | 6.78 | |
2000年 | 29 | 7 | 1 | 9 | 6 | 0 | 144 | 116 | 61 | 1 | 69 | 4.31 | |
2001年 | 27 | 13 | 3 | 12 | 8 | 0 | 190 | 146 | 45 | 8 | 64 | 3.03 | |
2002年 | 23 | 8 | 2 | 10 | 10 | 0 | 164 1/3 | 144 | 34 | 1 | 67 | 3.67 | |
2003年 | 28 | 8 | 1 | 13 | 9 | 0 | 205 2/3 | 137 | 45 | 3 | 71 | 3.11 | |
2004年 | 21 | 7 | 1 | 7 | 9 | 0 | 147 | 138 | 29 | 2 | 76 | 4.65 | |
2005年 | 29 | 11 | 1 | 15 | 12 | 0 | 212 2/3 | 165 | 42 | 7 | 75 | 3.17 | |
2006年 | 26 | 7 | 2 | 13 | 6 | 1 | 189 1/3 | 144 | 21 | 7 | 39 | 1.85 | |
通算成績 | 245 | 67 | 13 | 91 | 81 | 1 | 1520 2/3 | 1134 | 403 | 37 | 626 | 3.70 |
※太字はリーグ最高
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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