広島県立福山誠之館高等学校
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広島県立福山誠之館高等学校(ひろしまけんりつ ふくやませいしかん こうとうがっこう)は、広島県福山市木之庄町六丁目に位置する総合学科の県立高等学校である。
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[編集] 概要
1854年(安政元年)備後福山藩主阿部正弘が身分主義の藩校だった「弘道館」を廃止し、様々な人材を身分に関係なく求めるために学制改革の末「誠之館」を創設した。
その後、「広島県福山中学校」など、何度か名前を変えているが、近代日本の発展に貢献する珠玉の人材を輩出した。特に、備後地方が誠之館によって受けた恩恵は計り知れないほど大きく、明治維新後不遇の地だった福山を備後地方の中心都市、また中核市に成長させる原動力となった。その後の県立高校の制度改革等により、進学校としての位置付けは近隣の広島大附属福山高校に譲る形となっているが、それにより当校の果たした歴史的貢献が変容されるべきものではない。
現在「広島県立福山誠之館高等学校」として、2004年に創立150周年を迎えている。1998年の総合選抜制度廃止と伴に当校卒業生の政治家や経済人、教職員の努力もあり、着々と学力水準が往時に戻りつつあり、昨年久々の東京大学への現役合格者を出すに到った。
また、修学研修旅行で当校卒業生でノルウェー大使を務めた妹尾正毅氏の計らいで東京都のノルウェー王国大使館を訪れた事が縁で2003年2月22日オッド・フォッスアイドブローテン、2006年2月21日オーゲ・バーンハルト・グルットレ両駐日大使を当校に招いた。
ちなみに現在、東京都文京区に文京区立誠之小学校という小学校がある。この学校は、備後福山藩の下屋敷跡に位置することから、福山藩校の名を戴いて命名された。
[編集] 沿革
- 1786年(天明6年) 備後福山藩(阿部家)四代藩主阿部正倫、藩校「弘道館」を創立。
- 1853年(嘉永6年) 老中首座で備後福山藩(阿部家)七代藩主阿部正弘、学制改革を決意し新学館建設を命ずる。
- 1854年(安政元年) 「中庸」により、新学館を正弘と親交の深かった水戸藩主徳川斉昭が「誠之館」と命名。
- 1855年(安政2年) 「福山誠之館」開校。(1月16日)
- 1887年(明治20年) 尋常中学福山誠之館と改称。
- 1901年(明治34年) 広島県立福山中学校と改称。
- 1927年(昭和2年) 広島県立福山誠之館中学校と改称。
- 1948年(昭和23年) 学制改革にともない広島県福山誠之館高等学校となる。
- 1968年(昭和43年) 広島県立福山誠之館高等学校と名称変更。
- 1969年(昭和44年) 福山市木之庄町六丁目の新校舎へ移転が完了。
- 1971年(昭和46年) 学校移転の落成式挙行。
- 1991年(平成3年) 通信制が広島県立東高等学校として独立。
- 1996年 (平成8年) セミナーハウス完成竣工。
- 1998年 (平成10年) 総合選抜制廃止,総合学科導入。
[編集] 主な著名な元教員・同窓生
- 菅茶山(詩人・思想家・備後福山藩学者)
- 関藤藤陰(儒学者・備後福山藩士)
- 清水郁太郎(医学者、医学博士第1号)
- 木村茂(陸軍主計総監、陸軍経理学校長)
- 小林躋造(海軍大将、国務大臣)
- 宮沢裕(政治家)
- 丸山鶴吉(警視総監・宮城県知事)
- 葛原しげる(詩人・福山市名誉市民)
- 森戸辰男(経済学者、広島大学初代学長、NHK学園高校初代校長・福山市名誉市民)
- 重政誠之(政治家、農林大臣、農商・農林次官)
- 狭間茂(内務次官、大政翼賛会組織局長、日本住宅公団総裁)
- 荒木茂久二(運輸事務次官)
- 井伏鱒二(作家・福山市名誉市民)
- 福原麟太郎(作家・福山市名誉市民)
- 藤家虹二(音楽家・クラリネット奏者)
- 榮久庵憲司(工業デザイナー)
- 友竹正則(声楽家・タレント)
- 島田荘司(作家)
- 袴田茂樹(学者)
- 佐野俊二(小児心臓外科医。岡山大学医学部教授)
- 中野裕之(映像作家)
- 松本卓臣(福山商工会議所名誉会頭・福山市名誉市民)
- 満田拓也(漫画家)
- 藤永新吾(思想家)
- 藤原弘達(評論家)
- 角廣勲(広島銀行頭取)