日本医師会
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社団法人日本医師会(にほんいしかい、略称 日医(にちい)、英称 Japan Medical Association、英略称 JMA)は日本の医師を会員とする公益法人。本部は東京都文京区本駒込2-28-16 日本医師会館。
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[編集] 概要
医道の高揚、医学教育の向上、医学と関連科学との総合進歩、医師の生涯教育などを目的としており、その目的を達成するため医師の生涯教育や公開の健康セミナーなどの学術活動、医療・保健・福祉を推進する為の医療政策の確立、生命倫理における諸問題の解決等の幅広い公益事業を行っている。また、政治組織である日本医師連盟を通して政治活動を行っている。また、日本医師会の下部組織である47の都道府県医師会、更に全国約920の郡市区医師会は、いずれも独立した公益法人で、各地域の医療・介護・福祉の全般に渡り地元行政など関係部署と連携しつつ、様々な事業を行っている。医師の職業団体であり、医師の権益を守り、医学および医療情報を提供する組織」であるが、圧力団体としてのイメージが喧伝され、「ヒポクラテスの誓い」に象徴されるような職種の団体として、公益法人として地道な活動をしていることは余り知られていないのが実情である。日本医師会への加入は任意であるので、会員数約16万3千人とその組織率は全医師の約6割に留まっている。
日本医師会・日本歯科医師会・日本薬剤師会を合わせて三師会と呼ばれている。
[編集] 誕生までの歴史
明治になって洋方医が増えるに従い、全国各地に互いの研修や親睦を目的に任意の業種団体が設立された。時代と共に組織の法定化を要望する声が高まり、1906年(明治39年)、1)医師会を郡市区医師会及び道府県医師会の2種類とする、2)官公立病院以外の医療施設で医業に従事する医師は全てその所在地の都市区医師会員になり、道府県医師会が設立されれば管内の都市区医師会員は自動的にその会員になる、内務省令の医師会規則により規定された。
更に1922年(大正11年)の改正医師会令では、a)日本医師会は、五道府県以上の医師会長が設立委員になって会則案を作成し、道府県医師会の3分の2以上の同意を得た上で設立総会を開き、その議決を経て設立することが出来る、b)日本医師会の総会は、道府県医師会がその会員である都市区医師会の会員中より選んだ日本医師会議員を以て組織する、とされた。
1924年3月31日発行の内務省衛生局資料には、「医師会並に医学会の起源は明治8年、松山棟庵、佐々木東洋等数十名の発起に由りて成立せる“医学会社”なるべし。次で明治15年、高木兼寛等の“成医会”及び田口和美等の“興医会”が起り、明治16年に佐野常民、長与専斉等が“大日本私立衛生会”を、明治19年には北里柴三郎が“東京医会”を設立した。その後、明治39年5月2日に医師法が発布されて法定の府県郡市区医師会が誕生し、更に大正12年3月に至って医師法が改正され、法定の日本医師会が設立した」と記されている。
これに先立ち、1916年に北里柴三郎などにより初めての全国的組織である大日本医師会が設立されたが、1919年の医師会令公布により都市区医師会、道府県医師会が次々と法的に整備された為、その上部機構である大日本医師会も法定化を急ぐべきとの意見が高まり、医師会令も改正され、1923年11月25日、日本医師会創立総会が開催され、北里柴三郎を初代会長として、ここに法定の日本医師会が誕生した。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、 1942年には日本医療団令、改正医師会令が公布され、翌年、日本医師会は解散となり新正日本医師会が作られた。
敗戦後、1946年に中山寿彦会長以下新役員を選出して日本医師会改組審議会を発足、新制医師会設立要綱を作成し、翌年には「設立準備委員会」(委員長 榊原亨以下7名)を設けた。しかし、突然、中山日医会長ら13名がGHQから呼び出され、戦争協力者に対する公職追放を医師会役員にも適用するという通告を受けた。そこで榊原委員長名を以て「昭和17年国民医療法施行後、昭和22年までの日本医師会の会則上の役員、及び都道府県医師会の支部長(副支部長以下は非該当)は、新制医師会の役員たることを自発的に辞退すべきこと」という要望を都道府県医師会に伝え、全医師会がそれをうけ容れ、1947年11月1日、高橋明を会長とする新制社団法人日本医師会が誕生した。
- 出典は日本医事史
[編集] 会長
日本医師会の会長は医師会員の代表決議機関である日本医師会代議員会で、代議員による選挙により選出され、任期は2年間である。この代議員の選挙は都道府県医師会に委託される為、代議員会は比較的高齢の会員(平成14年1月現在平均年齢68.7歳)で構成されている。
1957年から連続13期25年間会長を務めた武見太郎は、医師会代表として保険医総辞退、全国一斉休診を強行するなど、厚生官僚との対決をも辞さない強い姿勢から喧嘩太郎と呼ばれた。
2006年前年の第44回衆議院議員総選挙で郵政民営化反対派を支援して小泉首相から「抵抗勢力」と見なされた植松治雄会長が、政府与党との関係修復を強調した唐澤祥人東京都医師会長に敗れ、一期のみで退陣した。
[編集] 歴代会長
代数 | 氏 名 | 在 任 | 主な前職 |
---|---|---|---|
初代 | 北里柴三郎 | 1916年-1931年 | 北里研究所所長 |
2代 | 北島多一 | 1931年-1943年 | 北里研究所所長 |
3代 | 稲田龍吉 | 1943年-1946年 | 東京帝国大学教授 |
4代 | 中山寿彦 | 1946年-1948年 | 東京都医師会長 |
5代 | 高橋明 | 1948年-1950年 | 東京帝国大学医学部長 |
6代 | 田宮猛雄 | 1950年 | 東京帝国大学医学部長 |
7代 | 谷口弥三郎 | 1950年-1952年 | 熊本県医師会長 |
8代 | 田宮猛雄 | 1952年-1954年 | 東京帝国大学医学部長 |
9代 | 黒澤潤三 | 1954年-1955年 | 東京都医師会長 |
10代 | 小畑惟清 | 1955年-1957年 | 東京都医師会長 |
11代 | 武見太郎 | 1957年-1982年 | 日本医師会代議員 |
12代 | 花岡堅而 | 1982年-1984年 | 長野県医師会長 |
13代 | 羽田春兔 | 1984年-1992年 | 東京都医師会長 |
14代 | 村瀬敏郎 | 1992年-1996年 | 東京都医師会理事 |
15代 | 坪井栄孝 | 1996年-2004年 | 福島県医師会常任理事 |
16代 | 植松治雄 | 2004年-2006年 | 大阪府医師会長 |
17代 | 唐澤祥人 | 2006年- | 東京都医師会長 |
[編集] 医療制度改革を巡る論争
政治・経済の相次ぐ失敗により日本はデフレスパイラルに陥り、長引く不況に喘ぐ国民は小泉首相が掲げた「聖域なき構造改革」を支持した。”日本の医療は費用が高くて質が低い”との国民的認識のもと、少子高齢化による医療費増大を抑制する必要があるとして、現在、医療制度改革が推し進められつつある。
これに対し日本医師会は、世界的に見れば”日本の医療は費用が安くて質が高い”と反論した。その根拠として、
- 世界保健機構(WHO)が加盟191カ国の保健医療システムについて比較した結果、総合評価では、日本が世界で一位
- 経済協力開発機構(OECD)の調査では、国内総生産(GDP)に対する総医療費の比率は、日本は先進国の中で最も低いレベル
などを挙げた。また、小泉首相の盟友、ブッシュ大統領の国の医療については、GDP比14%にも上る高額の医療費を使いながらWHOの総合評価は37位であり、これは民間医療保険であるが故の高額な患者負担に対して医療が見合っておらず、保険に加入できない国民が4000万人にも達することなどが原因であると指摘した。
一方、小泉内閣の「聖域なき構造改革」の掛け声を背景に、経済財政諮問会議は規制改革に関する基本方針を発表した。その骨子は
- 株式会社の医療参入
- 医療費総額の伸びの抑制
- 公的保険による診療と自由診療(保険外診療)との併用
- 保険者と医療機関との直接契約
などである。
これに対し日本医師会は、(1)により非営利法人との会計構造の相違から医療費が増大し 実利追求型の企業論理が横行して医療倫理が崩壊し、(2)により医療の質低下を来たすと共に、経済波及効果大の産業の成長が阻害され、国民の健康のみならず経済全体へもマイナス影響を及ぼす、(3)により混合診療の容認は現物給付制度の崩壊に繋がり、患者負担の増大を招きフリーアクセスを阻害する、更に (4)により平等性が崩壊し、フリーアクセスが崩壊する、と反論した。
[編集] 日本医師会自体への批判
日本医師会は診療報酬にしか興味ない圧力団体である、とのマスコミによる批判が一般にすっかり定着してしまった感がある。『誰も書かなかった日本医師会』にも、過去に日本医師会を牛耳っていた武見太郎会長が著者に対して「会員の3分の1は欲張り村の村長だ」とコメントしたとの記述も見られる。また、その医療政策についても、開業医の利益を優先し勤務医をないがしろにしているとの批判もある。
日本医師会の最高意思決定機関は代議員会だが、その代議員の選挙が都道府県医師会に委託されている為、階層的組織である現況のもと、必然的に長年会務に携わった比較的高齢の会員のみで構成され、若手の会員からは甚だしく年齢構成が偏っているとの批判がある。
[編集] 関連する組織
行政と同様、通知等が上意下達されてきた為、一般的には日本医師会の下部組織と理解されている47の都道府県医師会、更には約920の郡市区医師会がある。しかし、いずれも独立した公益法人であり、夫々地域医療の主な担い手として、行政等と協議しつつ医師会病院、老人保健施設、看護師養成学校、健診センター、検査センター、訪問看護ステーション、地域産業保健センターなどの医療・介護・福祉・教育施設を持ち、活発に事業を展開している。近年、インターネットの登場により、従来、都道府県医師会を経由しないと届かなかった日本医師会からの情報の一部が直接、郡市区医師会にも届くようになり、上意下達的体質にも変化の兆しが見られる。
日本医師会定款第10章第40条に「日本医師会に日本医学会を置く」とあり、日本医学会は、日本医師会と密接な連携の下に「医学に関する科学および技術の研究促進を図り、医学および医療の水準の向上に寄与する」ことを目的として活動している。
日本医師会総合政策研究機構(日医総研)は、1)国民に選択される医療政策の企画・立案、2)国民中心の合意形成過程の創出、3)信頼ある情報の提供を達成することを目的として活動している。
日本医師連盟は、日本医師会会員相互の全国的連絡協調の下に、日本医師会の目的を達成するために必要な政治活動を行うことを目的として活動している。
[編集] 日本医師会館
<交通>
6 | 日本医師会総合政策研究機構、談話室 | |
---|---|---|
5 | 会議室(501-508) | |
4 | 役員室(受付) | |
3 | 局長室、人事課、国際課、企画課、庶務課、施設課、保険医療課、情報企画課 介護保険課、広報課、日本医師連盟事務局 |
小講堂 ホール |
2 | 医賠責対策課、医事法制課、地域医療一・二・三課、施設課、年金税制課 生涯教育課、編集企画室、医学会、医療安全対策課、医事参与室、医亊相談 |
傍聴席 同時通訳室 |
1 | 受付、喫茶室、防災センター | 大講堂 |
B1 | 情報サービス課、医学図書館、日本医師会女性医師バンク | 駐車場 |
B2 | 機械室 | 駐車場 |
[編集] 刊行物
- 『日本医師会雑誌』(月刊) ISSN 00214493
1921年創刊。全会員に配付される機関誌。年2回特別号を発行。(発行部数約16万7千部)
- 『日医ニュース』(半月刊)
1964年創刊。全会員に配付される医政の分野を扱うニュースレター。(発行部数約16万部)
- 『Japan Medical Association Journal:JMAJ』(月刊)ISSN 13468650
1958年創刊。旧「Asian Medical Journal」。英文総合医学雑誌。アジアを中心に発行。学術論文を中心とした学術誌であったが、2007年より日本医師会の活動報告を中心に、日医雑誌や日医総研レポートから選出された記事等を掲載する予定。(発行部数約1,500部)
- 『国民医療年鑑』(年刊)
日本医師会編、春秋社発行。1964年創刊。日本医師会の主張、施策、諸活動を中心に編纂。
[編集] 関連項目
- 自由民主党
- 圧力団体
- 健康増進時代→Oh!診→からだ元気科 - 提供番組。基本的に1社提供だが、実際はそれと大手製薬会社(週交替)の2社提供となっている(詳細はそれぞれの該当記事を参照)。
- ドスペ! - 提供番組。2006年10月から(複数社提供)
- 知っとこ! - 提供番組。(複数社提供)
- 朝だ!生です旅サラダ - 提供番組。(複数社提供)
- おもしろニュースグランプリ - 2006年に提供した。(複数社提供)
- 世界医師会
- 全国保険医団体連合会
- 新日本医師協会
[編集] 参照文献
- 『誰も書かなかった日本医師会』 水野肇 草思社
- 『ドキュメント日本医師会―崩落する聖域』 水巻中正 中央公論新社
- 『アメリカ医療の光と影―医療過誤防止からマネジドケアまで』 李啓充 医学書院
- 『悪魔の味方―米国医療の現場から』 岩田健太郎 克誠堂出版
- 『日本の医療費 国際比較の視角から』 二木立 医学書院
- 『「医療費抑制の時代」を超えて―イギリスの医療・福祉改革』 近藤克則 医学書院
- 『 日本の医療を問いなおす―医師からの提言』 鈴木厚 筑摩書房