村井仁
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生年月日 | 1937年(昭和12年)3月28日 |
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出身地 | 長野県木曽郡木曽町 |
出身校 | 東京大学経済学部卒業 |
学位 | 経済学士 |
前職 | 衆議院議員 |
世襲の有無 | 無 |
在任期間 | 2006年(平成18年) ‐ (現職) |
当選回数 | 1回(衆6回) |
所属(推薦)党派 | 無所属 |
ウェブサイト | 村井 仁 公式ホームページ |
村井 仁(むらい じん、1937年(昭和12年)3月28日 ‐ )は、長野県知事。元衆議院議員(6期)。長野県木曽郡木曽福島町(現・木曽町)出身。
目次 |
[編集] 来歴
羽田孜の側近として自由民主党・新生党・新進党と行動をともにしたが、後援会の要請により自民党へ復帰した。
郵政民営化の旗振り役で、党郵政民営化推進委員会の役員をしていたが、「政府案では、民業圧迫になりかねない」との理由で、2005年7月5日の郵政国会で衆議院本会議で反対票を投じた。9月11日の第44回衆議院議員総選挙には、自民党の公認を得られないため、立候補を断念。
2006年8月6日投開票の長野県知事選挙に、自由民主党・公明党の両長野県本部の推薦で立候補し、現職の田中康夫を破って当選した。同年9月1日より長野県知事に就任。長野県知事選挙告示前日の7月19日に自由民主党を離党しており、現在は無所属。
[編集] 長野県知事
「反田中」の組織・団体では県知事選挙の告示直前まで候補者選びで迷走を続けていた。特に田中を排除したい自民党にとっては選挙に勝利することが最重要課題であった為、一時は民主党との共闘を視野に入れるなど手段を選ばない候補者選定となったが、長野県内のみならず全国的に知名度の高い田中を前にして、次々と打診した意中の人物に断られる中、偶然にも2005年の郵政造反で国政から引退せざるをえなくなった村井に白羽の矢が立ち県知事選挙に立候補。結果「反田中」の得票を集めて、長野県知事選挙では史上初となる現職を破っての初当選となり、一部では候補者選定から当選に至るまでの過程から「たなぼた」勝利と揶揄されている。
長野県知事に当選後は田中県政の象徴的存在である県庁舎1階「ガラス張り知事室」を撤去、県の中枢組織「経営戦略局」廃止などを次々打ち出すなど田中色を一掃する一方、田中の改革に賛同していた職員への粛清的人事や“個々の河川の整備状況を見ながら考える”と早急なダム建設回帰には慎重な姿勢を表明した。しかし、選挙での支持基盤への配慮により「脱ダム宣言」の事実上の撤回、同和利権や記者クラブなど既得権益の事実上の復活、村井の国政時代に秘書を務めていた人物の相次ぐ副知事・県職員登用といった側近政治などを行い、それに対しては、一般の県民以外にも村井を選挙で支持していた県議からも疑問や批判の声が続出している。そして長野オリンピック招致での会計帳簿が焼却処分され紛失していた件で、田中県政時代に設置していた調査委員会について、村井は「今になり特定の個人や団体の罪をあえて暴こうとする作業は建設的なことではない」として県民の民意が届かないまま調査を打ち切り、この点では吉村県政を継承して一連の不透明な金銭の流れや過剰接待などの大問題を闇に葬り去る決断を下した。村井自身は田中の県政運営を強く批判しており、知事就任後の県議会では「県政の後戻りってのが何を意味するのか、逆に私良く分からない」と発言し、2007年県庁の仕事始め式では、挨拶の中で「透明度のある決定過程があったと思う方もいるが、決定過程も実は独裁に過ぎなかった」と新年早々に田中を批判するなど就任してからは強気の発言を繰り返している。
[編集] 批判
長野県議会に対して批判的な立場で住所を長野県に置く勝谷誠彦からは「利権談合共産主義土建屋の手先だ」と自身のブログで罵倒し、更には村井が当選した翌日に出演した日本テレビ「スッキリ!!」において、この話題が取り上げられた際に「あの程度の県民にはあの程度の知事でいいんですよ」と田中離れした有権者を批判、「妙薬は口に苦しだから、効き目が現れるまで田中知事のやることを我慢して受け入れるべきだ」と田中を礼賛するコメントをしている。そして田中支持者を自認する田原総一朗からも2006年11月12日放送のテレビ朝日「サンデープロジェクト」に田中がゲスト出演した際に、村井について「時代錯誤の行政を行っている」「借金体質を復活させようとしている」と痛烈に非難され、「どうして県民はこんな人を選んじゃったの?」と村井に投票した有権者に疑問を投げかけ、半ば呆れていた。
[編集] 失言
2007年2月16日の定例会見で、記者からHIV感染者が増加する現状について質問された際に、「(エイズは)特別な仕事に従事している人たちの間で非常に感染度が高いと承知している」と述べ、『エイズ=性産業』と短絡的に結び付けた発言を再三に渡り繰り返した為、多くの批判を浴びている。
[編集] 略歴
[編集] 経歴
- 1937年(昭和12年)
- 3月28日 出生。
- 1955年(昭和30年)
- 3月 長野県松本深志高等学校卒業。
- 1959年(昭和34年)
- 1986年(昭和61年)
[編集] 政歴
- 1986年(昭和61年)
- 7月6日 第38回衆議院議員総選挙(旧長野4区・自由民主党公認)当選。
- 1990年(平成2年)
- 2月18日 第39回衆議院議員総選挙(旧長野4区・自民党公認)2期目当選。
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 12月26日 大蔵政務次官退任。
- 1993年(平成5年)
- 7月18日 第40回衆議院議員総選挙(旧長野4区・新生党公認)3期目当選。
- 1996年(平成8年)
- 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(長野2区・新進党公認)4期目当選。
- 1999年(平成11年)
- 2000年(平成12年)
- 4月5日 金融再生総括政務次官(第1次森内閣)再任。
- 6月25日 第42回衆議院議員総選挙(長野2区・自民党公認)5期目当選。
- 7月4日 金融再生総括政務次官退任。
- 12月6日 金融再生総括政務次官(第2次森改造内閣 (中央省庁再編前))就任。
- 2001年(平成13年)
- 1月6日 内閣府副大臣(金融担当)(第2次森改造内閣 (中央省庁再編後))就任。
- 4月26日 国務大臣【国家公安委員会委員長・防災担当大臣】(第1次小泉内閣)就任。
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)
- 11月9日 第43回衆議院議員総選挙(衆議院比例北陸信越ブロック・自民党公認)6期目当選。
- 2006年(平成18年)
当落 | 得票数 | 候補者 | 党派 | 前歴 | 推薦・支持 |
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当 | 612,725 | 村井 仁 | 無所属 | 新人 | 連合 |
534,229 | 田中 康夫 | 無所属 | 現職 |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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第50・51代 田中康夫 |
第52代 2006 ‐ (現職) |
第53代 ‐ |
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