南関東
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南関東のデータ | ||
1都3県の合計 | ||
面積 | 13,556.03km² | |
総人口 | 34,471,652人 (2005年10月1日) |
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1都2県の合計 | ||
面積 | 9,759.48km² | |
総人口 | 26,826,862人 (2005年3月31日) |
南関東(みなみかんとう)とは、関東地方を南北に二分割した場合の南の地方である。東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の1都3県を指す場合が多いが、これとは異なる範囲を指すこともある。対義語は北関東。
日本の首都である東京都特別区部を中心に世界最大規模といわれる大都市圏が形成されていることから、ほぼ同様の地理的範囲を指して「東京大都市圏」「首都圏」などの用語が用いられることも多い。
目次 |
[編集] 範囲
上記のように、南関東に対しては分野や場面に応じて異なった範囲を指すことがある。当該地域は東京都の特別区部を中心とする都市地域に広く覆われていることから、この大都市圏の広がりをいかに捉えるかという観点で設定されることが多い。
[編集] 都道府県を単位とする分類
- 1都3県(東京都+神奈川県+千葉県+埼玉県)
- これら1都3県は行政区域が東京を中心とする都市地域に広く覆われており、非常に多くの人口を擁する。(東京都1263万人(うち特別区部852万人)、神奈川県883万人、埼玉県707万人、千葉県607万人)一方でその周辺の県は、茨城県南西部を除けば殆どが東京都心部から50~60km圏外にあり都市地域に広く覆われているとは言いがたく、また人口も300万人台以下と格段に少ない(人口は2006年7月1日現在の推計人口)。このような状況において都道府県単位で分類を行う場合、この範囲設定が至便といえる。
- これら1都3県は人口密集による特有の問題や政策課題を持っていることから、行政においてこれら課題に対する共通の取り組みが行われることが多い。この代表的な枠組みとして「八都県市首脳会議」(1都3県とこの範囲に含まれる4政令指定都市の首長による会議)が設けられている。
- 国政選挙の南関東ブロック(神奈川県+千葉県+山梨県)
- 関東地方には日本の総人口の1/3が集中しているので、国政選挙の比例区では分割されている。この際、東京都は、区部・多摩地方・伊豆小笠原諸島の全域が東京ブロックである。首都圏の残りの県は、東京都以北が北関東ブロック、東京都以南は、山梨県を含めて南関東ブロックである。
[編集] 歴史的分類
- 毛野川・利根川流域以南(相模国+武蔵国+安房国+上総国+下総国)
- 律令制が敷かれた奈良時代から中世までの南関東。
- 桓武平氏流諸氏(鎌倉氏、三浦氏、千葉氏、北条氏、秩父氏、長尾氏等)が支配した地域。藤原北家流諸氏(宇都宮氏、小田氏、小山氏、結城氏、佐野氏、川野辺氏、比企氏、那須氏等)や清和源氏流諸氏(足利氏、新田氏、佐竹氏、武田氏、高氏等)が支配した地域は北関東。なお、畿内が日本の中心だった時代の陸上交通を元にした地方区分(五畿七道)では、表記の5国に加え常陸国は東海道に属し、桓武平氏流大掾氏や平将門らが支配した時代のみ南関東とみなす考え方もあるが、中世以降は小田氏や佐竹氏の治世であったため事実上は北関東と同一地域とする。
- 鎌倉周辺の国(相模国+武蔵国+上総国+安房国)
- 鎌倉時代の南関東。桓武平氏流諸氏の領地内に清和源氏の嫡流源頼朝が鎌倉幕府を開き、北関東以北を基盤とする清和源氏が南関東に進出する第一歩となった。鎌倉を中心とした相模国が南関東の中心だった。
- 利根川以南
- 戦国時代後期、小田原に本拠を構え関東を席巻した伊勢平氏流後北条氏を豊臣秀吉・宇都宮国綱・佐竹義重らが制圧し、清和源氏新田氏流徳川家康が関東に入封すると、関東一帯は当時の北関東の勢力であった藤原北家・清和源氏流諸氏の体制で統一された。徳川家康は利根川東遷事業を号令し、江戸湾に注いでいた暴れ川・利根川や太日川(現在の渡良瀬川~江戸川)を東遷し、それまで多雨期の氾濫によって湿地帯であった入間川~江戸川中下流域低地を開拓(干拓)して江戸の町を確立した。これ以降、利根川を境とした南側を南関東とみなす。現在の一都三県に相当する。関東平野一帯の河川東遷により、以前は自然障壁として関東平野の中央部に広がっていた入間川~毛野川に亘る幾多の河川や広大な低湿原地帯が一気に干拓され、従前から藤原北家・清和源氏流諸氏が治めていた一部地域も含め利根川以南地域一帯が南関東の勢力に組み込まれた。この時代、相模国(鎌倉や小田原)から武蔵国(江戸)に南関東の中心が北上した。なお、南関東の重要拠点であった小田原城には藤原北家宇都宮氏流を称す大久保氏が入封し明治時代まで続いた。
- 京浜
- 開国後から高度経済成長初期までの関東主要部(この時期は都市の時代であり、現在のような都県単位で都市圏を設定できるほどの人口や都市システムはなかった)。六大都市の東京市と横浜市を含み、陸上交通の面でも、日本の大動脈である東京~大阪間の沿岸交通網が通り、早くから近郊鉄道網・観光地・首都高速が発達した。関東を南北二分割する際に用いられる区分ではないが、そのような地盤のもとに現在の都市圏が成立しているため、東京都と神奈川県の1都1県を漠然と南関東とすることが現在でもある。
- 1都2県(千葉県+東京都+神奈川県)
- 高度経済成長期の南関東。第二次産業が国を支えていた時代、臨海工業が盛んだった「京浜工業地帯」を抱える東京都と神奈川県、「京葉工業地域」を抱える東京都と千葉県という枠組みが重要視され、「千葉県+東京都+神奈川県」による1都2県が関東の産業の中心として南関東とされた。後に第三次産業が産業の中心になったため、マーケットとして人口の多い埼玉県をも組み込み、1都3県で南関東となった。特に、バブル景気によって東京都心の地価が高騰して、東京都の人口減、3県の人口増が発生し、経済界では一都三県を南関東とする認識が更に浸透した。
[編集] その他
[編集] 歴史
古代、関東地方の平野中央部を流れていた入間川(現在の荒川~隅田川)、荒川(現在の元荒川~中川)、利根川(現在の古利根川~中川)、渡良瀬川・太日川(現在の江戸川)および毛野川(現在の鬼怒川)は「暴れ川」と呼ばれ、大雨の度に氾濫を繰り返すため中・下流部の低地には湿地帯が広がっていたといわれる。
現在の霞ヶ浦~手賀沼を含めた一連の湿地帯が干拓されて耕地となったのは江戸時代以降のことである。徳川家康は江戸に入封した後、旧利根川と旧荒川の瀬替え事業を号令し、江戸湾(走水海)に注いでいた旧利根川と旧渡良瀬川を東遷して毛野川に分流させ、また旧荒川を西遷して旧入間川(現在の荒川~隅田川)に合流させる瀬替えを行った。この事業で武蔵国中部~常陸国水郷に広がる低湿地や香取海等の浦は干拓されて耕地となり、さらに入間川の河口部(現在の隅田川の河口)は埋め立てられ江戸の下町に生まれ変わったと言われる。この事業の以前、現在の東京日比谷は江戸湾の磯に面した海苔や牡蠣の養殖場であり、また神田付近にあった一山を崩してその土砂を干拓に用いたといわれる。
古代の北関東(関東地方の東山道区域)には毛野川流域に毛野国が成立し、一方の南関東には多摩川流域に无耶志国が成立していた。毛野国から分国された下野国の国造氏一族である下毛野氏|下毛野古麻呂は奈良時代、大和朝廷に呼ばれ藤原不比等とともに大宝律令(701年制定)の編纂に従事し、律令制が敷かれた際には武蔵国は東山道の地域区分に割り当てられていたから、当時の武蔵国は北関東と同一地域であったとみなすこともある。その直ぐ後の771年、武蔵国は東海道に編入され、江戸時代以前の地方区分が形作られた。
平安時代、桓武天皇は多くの皇子に恵まれ、その職位を増やすために親王任国制度を作り、上野国、常陸国、下総国をこれに指定した。親王は赴任せずに禄を得られたため、親王の血族で下級貴族であった桓武平氏の勢力が関東一円に広がり坂東平氏が起こった(鎌倉氏、三浦氏、千葉氏等)。坂東平氏は地域に土着し強い勢力を有することになり、鎌倉幕府を起こした清和源氏・源頼朝の一族でさえ坂東平氏一門の北条氏に滅ぼされ、また戦国時代に関東に覇を唱えた伊勢平氏の後北条氏には関東の名門清和源氏流佐竹義重や同里見義康、藤原北家流宇都宮国綱、同結城晴朝も疲弊させられたが、何れも清和源氏を称する勢力(新田氏、徳川氏など)によって制圧された。
制圧の後、鎌倉には清和源氏流足利氏が、また小田原には藤原北家宇都宮氏流を称す大久保氏が配置されこれを統治した。この期間、鎌倉は和賀江島を拠点とする宋や元との交易によって富を得て、また鎌倉から関東各地には鎌倉街道が設けられ、南関東の中核として大いに繁栄した。
江戸時代、徳川幕府は先述の利根川東遷により江戸から北関東に至る水路を確保し、北関東・陸奥国と江戸を結ぶ物流水路を整備することに成功した。この水路整備こそが江戸の町を世界に名だたる大都市とする基盤となったのである。徳川家は腹心・譜代の旗本等(何れも藤原北家・清和源氏の諸流一族)を関東各地に配し、明治維新によって王政復古・版籍奉還がなされるまで、関東一帯はいわば藤原北家・清和源氏流諸氏が支配する土地となり、逆にこれが関東の文化を比較的画一化・平坦化したと言える。
江戸時代も末期になると、南関東は将に異国人と直接接する機会も多くなり、生麦事件などの外国人殺傷事件もしばしば起きるようになった。明治時代以降、南関東には貿易港が確立して巨額の富を得ることとなり、この富を利用した政策が採られるようになった。
このように、東京湾の近くには、鎌倉には鎌倉幕府、東京(幕末までの江戸)には江戸幕府や明治政府といった、政権の本拠地が置かれていた。
この東京湾近辺の政権の特徴として、畿内(近畿地方中部)と陸奥国(東北地方太平洋側)の間に位置する「前線」としての位置付けが大きい。
鎌倉幕府や江戸幕府が文治支配を敷いた時代には、武士団や地方王国が濫立しており、どちらかといえば地方分権的で、「関東平野の独立国家」という色が濃かった。しかし、明治政府が中央集権体制を成立させて以降は、急速な近代化と一極集中型経済政策により、政権の所在地である東京とその近辺は、急激な変化の渦中に巻き込まれた。
「南関東」という場合、狭義では「東京とその近辺」を指す事もあるが、実際には南房総や伊豆半島のように「『東京とその近辺』よりも南側の地域」が存在する為、注意を必要とする。
[編集] 歴史地理学
南関東は、政権の置かれた場所、街道の整備、防御性、経済の発展などによってその領域が変化し、領域内の地勢も変化して来た。
[編集] 地理的一体性が無い時代
- 畿内政府と五畿七道
律令制度下の五畿七道の区分では、「東山道の碓氷関(碓氷峠)から東の国」である上野国と下野国が北関東に当たり、「東海道の足柄関(箱根峠)から東の国」である相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国が南関東に当たる。
但し、武蔵国は沿岸国ではあるが、東海道に転属したのは770年以後であり、それ以前の武蔵国は東山道に属していた。つまり、奈良時代の内、風土記が編纂された時期(713年頃)と、聖武天皇が政権を握っていた時代(743年頃)における「関東」の名称は、「東山道の不破関(関ヶ原)から東の国」「東海道の鈴鹿関(鈴鹿峠)から東の国」「北陸道の愛発関(愛発山)から東の国」を指していたので、江戸時代の中山道六十九次の内、関ヶ原から江戸(東京)までが東山道に属した。
国府所在地を見ると、武蔵国と相模国においては、甲府盆地から関東平野に出た最初の平地である武蔵府中や海老名、下総国では武蔵国から江戸川を渡ってすぐの市川、上総国では東京湾沿いに上総国に入ってすぐの市原、上野国では日本海から関東平野に出た最初の平地である前橋、下野国では前橋から足尾山地の南端を回って下野国主要部に入った所の栃木市、安房国では相模湾沿いの館山、常陸国では太平洋から当時内海だった霞ヶ浦に入った先の石岡(旧称:常陸府中)という風に置かれていた。つまり、対馬海流グループの上野国・下野国、内陸グループの武蔵国・相模国・下総国・上総国、黒潮グループの安房国・常陸国と分かれていた。
このような五畿七道と国府所在地とのズレは、国府に下向する貴族や官僚の利便性が良く、防御や水利の良い土地に国府が置かれたためであり、南関東、又は関東地方全体としての地理的一体性が無い、分割統治が為されていたのである。
又、律令時代の南関東は、流刑における遠流の地とされた(近流:北陸道越前国。中流:東山道信濃国、南海道伊予国。遠流:東海道伊豆国、安房国、常陸国、北陸道佐渡国、山陰道隠岐国、南海道土佐国)。即ち、畿内から見れば、南関東は「自然障壁が立ちはだかり、距離も遠く、自力では都に帰れない」ような地方であると考えられていた。なお、畿内から遠い奥羽や蝦夷地は、完全な統治下に入っていなかったので、遠流の地とされていない。九州は、大陸との窓口なので、遠流の地ではない。
[編集] 東海道の縦深防御の時代
- 畿内vs南関東
このような畿内の認識に対して、関東一帯は馬の産地として、機動性に優れた軍事力を持つ武士団が台頭し、将来の独自政権の地盤が作られて行った。平安時代後半に、下級貴族として地方に土着化した軍事貴族の平氏と源氏が、日本各地で棟梁となって権力争いをするようになると、蛭ヶ小島(伊豆国)に配流されていた源頼朝を頂いて、南関東は軍事的に一体化する。当時の南関東は、源氏や北条氏以外にも、千葉一族や三浦一族などの地盤でもあった。
朝廷と鎌倉幕府という二つの政権が並立すると、東海道の自然障壁である安倍川~富士山~箱根峠~伊豆半島を第一の防衛線として、鎌倉幕府(本拠地:鎌倉)、戦国時代には後北条氏(本拠地:小田原)の地盤となった。天正期には、徳川家康が駿府(静岡)から江戸に本拠地を移し、1603年には江戸幕府を樹立した。家康は、将軍を秀忠に譲ると駿府に移住し、畿内以西を睨んだ。
いずれの政権も、畿内に対して東海道の箱根峠と安倍川を大きな楯とした縦深防御を敷き、南関東は一体化して発展した。
[編集] 江戸を中心とした五街道の時代
- 「直線的」な縦深防御の都市配列から、「放射状」の都市配列へ
江戸幕府は五街道を整備し、関東地方には、江戸を中心とした放射状の道路網が整備された。南関東と畿内との間には、陸路では東海道と中山道(含甲州街道)が、海路では太平洋経由の航路が整備された。一方、奥羽地方との間には、陸路では日光街道(奥州街道)や水戸街道(陸前浜街道)が、海路では江戸湾~利根川~荒川の流通ルートが確立した。
更に、参勤交代によって江戸が情報の集散地として、大名たちが江戸の藩邸に地方の富を持ち込むようになると、日本の富が江戸に集中する。そして、律令時代以後の日本において、畿内以外で初めて、畿内を超える日本の中心地となった。又、江戸幕府によって、印旛沼の干拓や武蔵野台地の新田開発も実施され、「南関東」または「関東」という「面」の広がりを持つようになった。
江戸時代を通じ、参勤交代の隊列に入った地方の下級武士が江戸で生活し、また、土地を相続出来ない農家の次男以下が、養子縁組や丁稚奉公で江戸に出てきた。更には飢饉が起きる度に、江戸には農業を放棄した無宿人が大量に流入するようになる。このため、特に1800年以後の江戸の人口の多くは、無産階級で形成された。そして、それまでの日本の貴族・武家文化のような富裕層・支配階級の文化から、無産階級の庶民文化・大衆文化が江戸で花開き、現代に受け継がれている。
[編集] 日本の中心になる時代
- 鉄道路線の基点、外国との交流窓口
江戸幕府が崩壊して明治維新を迎えると、皇族は京都御所から江戸城に住まいを移した。この時、江戸は東京と改名されて、薩長が率いる明治政府の本拠地として、国家機関も置かれて実質上の首都になった。こうして、東京は畿内以外で中央集権型政権の本拠地としては初の都市となった。中央集権体制によって、江戸時代の天領以外からも税が集まった東京は、日本の富を独占するかのような発展を始め、人口も急増した。
明治以前の日本では、外交窓口である港(難波津、福原、博多、長崎)と政権所在地(奈良、大宰府、京都、江戸)とは、地理的な理由の他に、外国由来の伝染病の蔓延や、外国経済との連動を防ぐなどの理由によって離れているのが通例であった。しかし、明治以後の近代国家となった日本では、国家機関のある東京と、幕末に開港した外港の横浜との間に鉄道が敷かれ、時間的・空間的に近接する事により、外交と内政が密接になった。又、経済や文化においても、内外が密接になり、東京と横浜は西洋文化の窓口として文明開化を主導した。
このように、文明開化の時代には、日本の大半が東京と横浜を経由するシステムが作られて行った。
[編集] 東京の人口減少をもたらした出来事
- 東京の郊外化の始まり
1923年9月1日に発生した関東大震災は、首都たる東京にも大きな被害を与えた。その復興事業が進むに連れて、郊外化が進んだ。「モボ・モガ」がブームになったのも、この時期の東京である。
そして、第二次世界大戦中には、1945年3月10日の東京大空襲を初めとして、千葉、東京、川崎、横浜、横須賀などの都市は、軒並み烈しい空襲に見舞われた。第二次大戦中には、これらの都市から、地方の小都市や村落に疎開する者が次々と現れた。
[編集] 関東大都市圏の時代
- 近郊列車による高密度・広範囲な大都市圏の形成
第二次世界大戦後、高度経済成長期を中心に東京湾沿岸には工業の集積が著しく進行し、日本各地の農村部の余剰労働力を吸収する形で「金の卵」と呼ばれた青年労働者(第二次産業労働力が中心)が集まり、臨海部を中心に人口が急増した。また、高度経済成長以後は、日本全国の販売網から集まる売上(内需)や貿易黒字(外需)が東京に集中するようになり、第三次産業の労働力を吸収して東京都市圏の人口は激増した。
臨海部の工業地帯の労働者の住環境は劣悪で、外国から「ウサギ小屋」と揶揄された。しかし郊外の良い住環境やマイホームを求める動きを背景に、ニュータウンに代表される郊外の宅地化が急速に進行し、東京の都市圏は特別区の外側に向かって拡大していった。この郊外化は戦前の時点でかなり路線網の構築されていた鉄道網を背景とするところが強く、既存の鉄道は度重なる輸送力の増強や新駅の設置に追われた。この他にも路線の延伸や新規路線の開業も頻繁に行われ、中には鉄道とニュータウンの開発がセットとなったところもあった。
このように東京都心部を中心として放射状に伸びる交通網に沿って宅地化が進行したため、多摩地方は元より隣接する神奈川県・千葉県・埼玉県の各県と茨城県南西部にまで広がり、自治体の境界を越え連続した「東京圏」「東京大都市圏」と呼ばれる都市圏を形成するに至った。
欧米の大都市の中には、都心部を含む中心市と郊外の衛星都市群の間にグリーンベルトと呼ばれる緑地帯を挟むものが存在するが、東京大都市圏においてはその構想は実現せず、自治体の領域は名目地域としての性質を強めることとなった。
このように、東京都区部の外に連続的に都市圏が拡大した結果、昼間は東京都区部で働き・学び、夜間は東京都区部の外に帰るという「千葉都民」「茨城都民」「埼玉都民」「多摩都民」「神奈川都民」というように、「○○都民」と呼ばれる新興住民が急増した。このような住民は「新住民」とも呼ばれ、居住地区や「旧住民」との疎遠さも指摘された。一方、1970年代を中心に勃興をみた「革新自治体」は「地場産業に従事しない新住民が多い」「急速な人口増による都市問題が発生した」という特徴を持つ大都市圏郊外を中心に誕生した。
鉄道会社によって開発されたニュータウンでは、郊外化の副産物として、土地とは無縁な瑞祥地名が多く付けられた。その中には、ひらがな表記や、英語などの外国語を含む「商品名」が多く、「商品名」がそのまま住所になる所も多く現れた(例:美しが丘、青葉台、あざみ野、チバリーヒルズ)。そのため、住民は商品を買い換えるかのように住み替え、定着性も低い。
バブル経済期になると、東京で地価が高騰した結果、北は宇都宮から、西は沼津から、新幹線や在来線で東京に通勤する者も一般化するようになった。このような一連の東京の「郊外化」により、郊外部の人口が増加すると、その居住人口を背景として衛星都市群の商業中心の商業が活性化し、「富の郊外化」を生んだ。
しかし高度経済成長の終演やバブル経済が破綻などを機に、地域間の二極化の加速も指摘されるようになった。
東京では、山手線圏内には株式や不動産投資信託などの金融で財を成した「IT成金」が現れる一方で、山手線圏外の特に東側地域では生活保護を受ける貧困層が急増している。
東京近郊でも、近郊地帯の中心的な郊外都市では新都心の造成をはじめとする業務機能の拠点の整備や人口の更なる増加がみられる反面、郊外の縁辺部や老朽化した住宅団地などでは人口減少と急速な高齢化が指摘されるに至っている。
[編集] 地理
[編集] 地質
相模トラフに近いために、巨大地震の危険性が指摘されている。関東地震は、1855年(幕末)と1923年(大正)の二回起こっており、いずれも相模トラフを震源地とした巨大地震であった。人口密集地であるために被害が大きくなり易く、それぞれ「安政の大地震」「関東大震災」とも呼ばれる。又、小田原など、相模トラフや富士山(富士火山帯)の近くでは、群発地震が起こることもある。関東平野の地盤は軟弱であるため、周辺の山がある地域よりも揺れが大きくなりがちである。
[編集] 地形
[編集] 気候
一般に年間を通して温暖湿潤な気候であるが、太平洋側に面した平野が広がっていることから夏季の多雨と冬季の少雨・乾燥という傾向が見られる。北関東と比べると冬季の少雨乾燥傾向は弱い。
南部の太平洋岸に近づくにつれ日本海流の影響を受け温暖となる傾向があり、冬にはその傾向がより顕著となる。このような気候を利用し、房総半島南部(南房総)では菜の花の栽培が盛んに行われている。北部に行くにつれ内陸性の気候となり、気温の年較差は大きく冬の乾燥傾向も強くなる。西部は関東山地などの高地があることから気候は冷涼となり、冬には積雪も見られることが多い。関東山地では平野部と比べ春の訪れが遅く、秋の訪れは早いが、春は新緑、秋は紅葉が綺麗である。
また都市地域に広く覆われていることからヒートアイランド現象がみられ、冬の冷え込みの弱さや夏の猛暑がもたらされ、その現象によって気候修飾を受ける。
[編集] 地域
平野部においては、東京都心部からの距離に応じて人口や都市空間の集積が遷移するという性質が強く、同心円的な地域構造を描いている。
都心、副都心と呼ばれる地区は概ね旧東京都庁10km圏内に位置している。一方その外側にはベッドタウンが形成されており、人口に比して商業・業務機能の集積が少ないのが特徴となっている。しかし20~40km圏内においては業務核都市の指定をうけ、また新都心と呼ばれるような業務の集積がみられる自治体も点在している。
尚、関東大震災後や第二次世界大戦後には、東京都区部から郊外に無秩序・虫食い状に住宅地が拡大するスプロール現象が起こった。このような事態への対策として多摩ニュータウンなどの大規模ニュータウンが計画されたが、当初の構想とは異なり住宅供給を主体とするものとなり、企業の進出はあまり進まなかった。
[編集] 米軍基地
関東の空は、横田空域と呼ばれる在日米軍の管制下に置かれており、自由な民間航空機の航行ができない(→横田飛行場)。そのため、首都圏の国際空港が、東京都中心部から65km東の成田に置かざるを得なかったのみならず;国内航空の最重要ハブ空港である東京国際空港も、飛び立ってすぐに急上昇しないと西日本方面に向かえない。
横田飛行場(多摩地方)以外にも、特に神奈川県には、厚木基地や横須賀基地やキャンプ座間に代表されるように、米軍基地が密集している。神奈川県内の国道16号(相模原~横浜~横須賀)は、米軍基地の多さで、沖縄県内の国道58号(嘉手納周辺)と対比されることもある。
[編集] 郊外化
一般に、鉄道路線・鉄道駅に近い宅地は地価が高く、遠ければ安い。即ち、私鉄沿線の住宅地は、駅に近いために地価が高く、一般の労働者が購入できる価格帯にするには、区画が小さくされたり、集合住宅になったりする。このため、鉄道インフラが伴わない一般的な地方都市の郊外住宅地に対して、東京から45km圏内、特に私鉄沿線に見られる郊外は、極端に地価が高く、高密度な郊外となっている。
すると、安い土地を求めて郊外が際限無く広がり、「○○都民」と諷刺される新興住民が近郊の都市に増えて、東京都区中心部との距離は遠くなっていった。
平成期に入ると、とりわけ新幹線沿線では、通勤圏が遠方ギリギリにまで拡大する傾向が目立っている。例えば、高崎は、上越新幹線開業当時には東京への通勤圏ではなかったが、バブル景気以後から東京への新幹線通勤圏となり、長野新幹線開業後にはこの傾向が強まっている。同じく、新幹線駅に近く、東京からの直通在来線・直通特急の乗入れが多い宇都宮・那須塩原(東北新幹線沿線)や三島(東海道新幹線沿線)などでも、この傾向が目立っており、それぞれ「栃木都民」「群馬都民」「静岡都民」などと呼ばれている。
「○○都民」と諷刺される東京への遠距離通勤者は、平日には東京都中心部で多くの時間を過ごし、週末や休日には居住地たる東京近郊で多くの時間を過ごすため、モータリゼーションによって「ウィークエンドドライバー」となる者が多数を占めるようになっている。このため、東京とその近郊では、他の地方の郊外に見られるモータリゼーションとは違った形態を呈している。
又、「○○都民」の特徴として、自家用車の所有率が低く、電車などの公共交通機関での移動が主であり、高学歴住民比率が高いが、所得格差が大きい。所得が車に投資されない分、住居・外食・遊興・高額商品・海外旅行などへの所得処分比率が高い傾向が有る。
[編集] 観光と遠距離通勤
富士箱根伊豆国立公園(富士山周囲の保養地、箱根・伊豆の温泉地)、相模湾や九十九里浜の海水浴場、南房総・三浦半島の避寒地、テーマパーク、東京・横浜の都市内観光地など、関東地方南部から山梨県や伊豆半島に渡る地方は、観光地が集中しており、東京の近接観光地となっている。
観光との関係で道路や鉄道の整備が進んだため、通勤にも至便となって、地価が高騰したバブル経済期以降は、相模湖を越えた甲府や、箱根峠を越えた沼津からも、東京へ通勤する者がいる。現在は、地価下落、都心回帰、企業の通勤手当圧縮によって、「土地が安いために都心から遠い地域に住む」というより、「自己のライフスタイルとして地方と都心を往来する」というように、遠距離通勤の意味合いは変容している。
[編集] 道州制
道州制における南関東州について、地方制度調査会(所在地:東京都区部)は、9道州案では千葉県・東京都・神奈川県・埼玉県・山梨県の組み合わせで、11道州案や13道州案では千葉県・東京都・神奈川県・山梨県の組み合わせとしている。特に南関東は過密状態である為、広域関東圏は南北分割が前提とされているのが特徴である。
又、東京都にも分割論議がある。東京都については、区部と多摩地方・島嶼部を分離して、東京市(区部)を復活させて特別市とする内容である。この「東京特別市」の案については、一市単独で県とするか、一市単独で州とするかの、両方の意見が論議されている。
州都については、山梨県や静岡県大井川以東との関わりや、東京一極集中の抑制という点から、東京都区部以外では、横浜市、鎌倉市、小田原市の3市が、候補に上がっている。
[編集] 経済
[編集] 交通
東京特別区内には鉄路・道路共に放射状・環状に発達しているが、周辺に行くに従って整備は遅れており、一直線状で完成している環状線は少なくなる。環状鉄路では武蔵野線+南武線、環状道路では国道16号のみである。都区部外の環状線は、東京20km圏内と東京30km圏内とに大きく分けられる。また、東京外環自動車道や首都圏中央連絡自動車道などの整備が進むが、採算性を危惧する声もあり、未完成である。
律令制の五畿七道では、関東地方の内、現在の栃木県と群馬県以外は東海道として区分された。このため、日本を交通網で区分する時に、関東の特に東京都以南を東海道として区分することもある。
[編集] 環状線
- 東京10km圏(東京特別区内)
- 東京20km圏
- 東京30km圏
[編集] 主な鉄道
[編集] 主な幹線道路
[編集] 港[編集] 空港[編集] その他
[編集] 関連項目
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