溝口直溥
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溝口 直溥(みぞぐち なおひろ、文政2年1月2日(1819年1月27日) - 明治7年(1874年)4月26日)は江戸時代末期の大名。越後国新発田藩の第11代藩主。10代藩主溝口直諒の長男。幼名は錦之助。官位は従五位下主膳正。のち従四位下。母は側室で福山氏の娘稲美(慶寿院)。正室は石見浜田藩主・松井松平康任の娘愛姫(死別)、継室は常陸土浦藩主・土屋彦直の娘増姫。
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[編集] 経歴
文政2年(1819年)新発田にて誕生。文政8年(1825年)江戸へ登り、父直諒の正室を養母として嫡子となる。天保3年(1832年)はじめて将軍に拝謁。同4年(1833年)従五位下主膳正に叙任。天保9年(1838年)8月5日、父の隠居に伴い家督を継ぐ。天保13年(1842年)日光山御霊屋等修復の手伝い普請を命じられる。万延元年(1860年)佐渡警衛の任を解かれ、新潟援兵を申し付けられる。同年このこと等を理由として10万石への高直しを仰せ付けられる。文久元年(1861年)には和宮に従って江戸入りした公家衆の接待役を勤める。同年従四位下に昇進し、城中の殿席も大広間詰となる。同3年(1863年)将軍徳川家茂の上洛に供奉して京都に至り、孝明天皇に拝謁する。同年、10万石以上の大名の役として御所警衛のために家臣を派遣し、京都に藩邸を設ける。同年、新潟警衛の任を解かれ高田藩と隔年で佐渡警衛を行うべき旨申し付けられる。元治元年(1864年)天狗党の乱に伴って野州出兵を命じられ、家老溝口内匠を大将として出陣させる。慶応2年(1866年)には再び上京して京都警衛を勤める。
慶応3年(1867年)8月28日、家督を嫡子溝口直正に譲って隠居する。同4年(1868年)には国元に戻り、この年剃髪して「静山」と号す。明治3年(1870年)上京して以後東京に住み、同7年(1874年)4月26日、東京において56歳で歿。法号は誠感院大光峻徳大居士。東京駒込の吉祥寺に葬る。
[編集] 子女
直溥には16男15女があり、他に若年で没した弟本多忠穆の娘を養女とした。以下では早世の者をのぞき、成人した者のみをあげる。
- 四男誠之進は家督を継いで12代藩主溝口直正となる。
- 八男信太郎は溝口直和と称したが、旧伊勢長島藩主増山正同の養子となり、増山正治と改名して増山子爵家を継承した。
- 十三男武五郎はのちに分家し、陸軍少佐として日露戦争に出征して戦死。
- 十四男源八郎は旧信濃高島藩主諏訪忠誠の養子となり、諏訪忠元と改名して諏訪子爵家を継承した。
- 十六男歓十郎は旧肥前福江藩主五島子爵家の当主五島盛主の養子となり、五島盛光として五島子爵家を継承した。
- 次女鋹姫は、はじめ備後福山藩主阿部正教正室となり、のち死別して三河吉田藩主松平信古継室となった。
- 四女文姫は、はじめ播磨赤穂藩主森忠徳の嫡子勝蔵と縁談が整うが、後に解消。その後伊予大洲藩主加藤泰祉正室となる。
- 七女幾姫は、旧陸奥盛岡藩主南部利恭継室となる。
- 十五女銀姫(銀子)は旧近江大溝藩主分部光謙正室となるが、後に離縁した。
- 養女栄姫は実弟本多忠穆(溝口直與)の次女。のちに有栖川宮熾仁親王の妃となり薫子(ただこ)と称した。
- 養女広姫は実弟本多忠穆(溝口直與)の三女。のちに旧紀伊和歌山藩主徳川茂承継室となり徳川広子と称した。
[編集] 治世
直溥は家督継承時に数え年20歳であったが、その後長く父直諒が存命したため、その治世は尊王開国論者であった父の影響を大きく受けたものであった。嘉永年間には西洋流砲術が導入され、相次ぐ出兵や領内・近領の警衛のためにも軍事面での充実がはかられた。また、長く5万石の表高であった新発田藩はこの代に10万石に高直しされ、家格も上昇した。戊辰戦争に際してはすでに隠居をしていたが、新発田にあって重臣らとともに難局にあたった。[1]
[編集] 注
- ^ 以上この節の典拠は『新発田市史』上巻
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