白川義則
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白川 義則(しらかわ よしのり、明治元年12月12日(1869年1月24日) - 昭和7年(1932年)5月26日)は、日本の陸軍軍人。上海派遣軍司令官。・関東軍司令官・陸軍大臣・軍事参議官等を歴任するが、上海での天長節祝賀会でテロに遭い重傷を負いそれが元で死去する。歴戦の功から階級は陸軍大将勲一等功二級男爵に昇る。
松山藩士白川親応の三男として生まれ、松山中学校に入学する。中学校を中退するも代用教員として働き、明治17年1月陸軍教導団に入営する。明治19年1月これを卒業し陸軍工兵二等軍曹に任官され、近衛工兵中隊に配属される。明治20年12月に士官候補生となり歩兵に転科、歩兵第21連隊付を経て明治23年7月26日陸軍士官学校を第1期生として卒業し、明治24年3月26日陸軍少尉に任官される。白川の同期には参謀総長兼議定官の鈴木荘六大将や、陸軍大臣・朝鮮総督宇垣一成大将がいる。明治26年11月陸軍大学校に入学するが、明治27年7月日清戦争のため中退し、同8月中尉に進級し11月から出征する。明治28年7月帰還し明治29年2月陸軍大学校に復校する。明治31年2月大尉に進み、同年12月陸軍大学校(第12期)を卒業し、歩兵第21連隊中隊長を補される。明治32年12月には陸軍士官学校教官に移る。明治35年2月の近衛師団参謀の後、明治36年6月陸軍少佐に任官され歩兵第21連隊大隊長を命ぜられる。この時日露戦争に出征し、戦中の明治38年3月第13師団参謀に移る。同年9月帰還し、10月から陸軍省人事局にて勤務する。明治40年3月中佐に進み明治42年12月、大佐進級を以って歩兵第34連隊長を命ぜられる。
明治44年6月第11師団参謀長、大正2年9月中支那派遣隊司令官、明治44年任陸軍少将・歩兵第9旅団長と部隊勤務を経て大正5年8月菊池慎之助の後任として陸軍省人事局長に就任する。大正8年1月陸軍中将に進み陸軍士官学校長に就任、大正10年3月には第11師団長に親補される。大正11年8月第1師団長に移り、大正11年10月山梨半造陸軍大臣の下、陸軍次官に就任する。同11月から航空局長官を兼ね、この時勲一等旭日大綬章を受章する。翌年3月航空局長官は航空部本部長と改称される(兼任は継続)。大正12年10月関東軍司令官に就任し、大正14年3月陸軍大将に進級する。大正15年7月軍事参議官に移り、昭和2年4月から田中義一内閣の陸軍大臣に就任する。大臣在任中の昭和3年6月4日、張作霖爆殺事件が起こる。これは関東軍の謀略によるもので、同軍参謀の河本大作中佐が首魁であった。事件発生当初から日本側の謀殺との見方が有力であり、日本は批判に曝された。外務省や憲兵が調査を行うも、田中内閣は結局真相公表や責任者の処罰を行わず、これを昭和天皇に咎められた田中首相は昭和4年7月総辞職する事となる。
[編集] 虹口公園爆弾事件
陸軍大臣退任後の白川は再び軍事参議官となり、昭和7年2月上海派遣軍司令官に就任する。昭和7年4月29日、上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で行われた天長節祝賀会の際に朝鮮人テロリスト尹奉吉が放った弁当箱爆弾により重傷を負う。海軍軍楽隊の演奏で一同君が代を斉唱している最中の出来事だった。虹口公園爆弾事件とも称されるこの事件では、他に上海日本人居留民団行政委員長で医師の河端貞次が死亡し、第9師団長植田謙吉中将・第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将・在上海公使重光葵・在上海総領事村井倉松・上海日本人居留民団書記長友野盛が重傷を負っている。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。犯人の尹はその場で検挙され軍法会議を経て銃殺刑となるが、後年韓国政府は尹を独立運動の義士として勲章を贈っている。白川大将はテロ予防の為この会場への道中数度に亘り車のナンバープレートを交換していたと言う。
重傷の白川は手術を受けるが、翌月の昭和7年5月26日に容態が急変し逝去。天皇から勅語を賜った3日後だった。白川は逝去に際し上海事変の功から勲一等旭日桐花大綬章並びに功二級金鵄勲章及び男爵を追贈される。また、遺族に昭和天皇から「をとめらのひなまつる日にいくさをばとどめしいさをおもひてにけり 」の和歌が贈られた。墓所は松山市・鷺谷墓地。東京都港区南青山・青山霊園に分骨。後を長男義正が継ぐ。三男の元春は陸軍に入り、陸軍士官学校第51期生として航空兵科将校として階級は陸軍少佐に進み、南方軍参謀で終戦を迎える。戦後航空自衛隊に入り、空将・航空幕僚長の後統合幕僚会議議長に就任する。
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