野村吉三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう)
野村 吉三郎 | |
---|---|
1877年12月16日 - 1964年5月8日 | |
生誕 | 和歌山県 |
忠誠 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1898- |
階級 | 海軍大将 |
指揮 | 第三艦隊司令長官 |
賞罰 | 勲一等旭日桐花大綬章 |
除隊後 | 特命全権大使(日米開戦時) 参議院議員(戦後) |
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年12月16日 - 1964年5月8日)は日本の軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。海軍大将。太平洋戦争勃発まで日米交渉に従事した。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 海軍軍人時代
1895年、和歌山中学校を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった現在の海城中学校で学び、海軍兵学校(26期、1898年)卒業。以後海軍軍人としての経歴を歩む。
1901年に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリス枢密院渡ったのをはじめ、駐米大使館武官・ベルサイユ・ワシントン両会議に全権団の随員として加わるなど海外経験が豊富であり、ルーズベルト(後のアメリカ大統領)ら海外の政治家とも親交があった。やがて1926年には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。
1932年(昭和7)、第三艦隊司令長官として上海事変に参加している折に、朝鮮人尹奉吉によるテロ事件にあって右目を失明する。一命を取り留めて海軍大将昇進および勲一等旭日大綬章を授章、1937年海軍を退役して学習院院長となる。
[編集] 日米交渉とその決裂
国際通であったことから、阿部信行内閣において外務大臣に抜擢された。1941年(昭和16)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、駐米特命全権大使に起用された。日本の南部仏印進駐によってアメリカとの関係が一層の悪化をたどる中、来栖三郎大使と共に、英・米との戦争回避のためにハル国務長官と交渉を行った。
しかしながら、満州を含む中国大陸からの日本軍の全面撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、(重慶に首都を移した)国民党政府以外の否認を求めるハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は真珠湾攻撃を決定、アメリカとの間に太平洋戦争に突入することとなった。 なお、アメリカ合衆国に対する宣戦布告が遅れ、国際的非難を浴びた事について、斎藤充功によると、野村吉三郎駐米大使らの新庄健吉の葬儀出席が原因と言う。葬儀はワシントン市内のバプテスト派教会で執り行われたが、この葬儀に磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や来栖三郎・野村吉三郎両大使が参加しており、その葬儀は現地時間で午後から行われ、来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向ったと言う。
1942年に日米間の交換船で帰国、その後枢密顧問官に転じた。
[編集] 戦後
戦後、吉田茂の要請で再軍備問題の調査にあたり、これが縁で1954年に参議院議員となる。自由民主党に参加して防衛政策を担当、松野鶴平の参議院議長就任に伴い党参議院議員会長に就任する。鳩山内閣・岸内閣で防衛庁長官への起用が取り沙汰されたが、日本国憲法における文民統制の観点から見送りになった(ちなみに、戦後、旧軍人・自衛官出身初の防衛庁長官は中谷元である)。
[編集] 関連項目
|
|
|
|
|