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ソ連対日参戦

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満州国の首都新京に進駐するソ連軍
満州国の首都新京に進駐するソ連軍

ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、当時の満州国において、1945年8月9日深夜から開始された、大日本帝国関東軍ソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州北朝鮮における一連の作戦戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太千島列島における一連の作戦戦闘とをいう。

目次

[編集] 名称

日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。

[編集] 背景

19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は世界を共産主義化することを至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。極東での日ソの軍拡競争は昭和8年からすでに始まっており、当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進したが、昭和11年ごろにはすでに圧倒的なソ連国力から戦備に決定的な開きが現れており、師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站にわたって極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを大きく凌いでいた。張鼓峰事件ノモンハン事件において日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識したが、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争勃発で南方へと移行する。戦局の悪化は関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらした。満洲における日本の軍事力が急速に低下する一方でドイツ軍は敗退を続け、ソ連側に余力が生じたことでソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。

[編集] 情勢認識

[編集] ソ連軍

ソ連軍はヨーロッパ方面においてドイツを破って勝利を収め、南下政策の一環として次の作戦目標として、満州国朝鮮半島を制圧することを狙っていた。そのために1941年の日ソ中立条約を締結してから逐次増強していた極東のソ連軍の戦力を用いて一気に日本軍を排除し、朝鮮半島にまでその勢力圏を拡大し、日本は絶対無条件降伏並びに徹底的な軍備撤廃を強制することによって無力化させることを考えていた。しかし、この考えはソ連対日宣戦布告を行うまでは日本には秘匿し、日本と表面的には中立条約を維持しながらも、一方で連合国の米英中と外交交渉を重ねて(ヤルタ会談)参戦の準備を進めていた。

[編集] 日本政府

日本はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうといた。しかしソ連が中立条約の不延長を宣言したことやソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議において総合的な国際情勢について議論がなされ、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。

[編集] 関東軍首脳部

関東軍首脳部は日本政府よりも事態を重大に見ていなかった。総司令官は昭和20年8月8日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していたことに、それは表れている。時の山田総司令官は戦後に「ソ軍の進行はまだ先のことであろうとの気持ちであった」と語っている。ただし、山田総司令官は事態急変においては直ちに新京に帰還できる準備を整えており、事実ソ連軍の攻勢作戦が発動してすぐに司令部に復帰している。なお、六月に大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だとし、今にもソ軍が出てくるようにみているようだが、そのように決め付けるものでもあるまい」と反論したと言われており、ソ連軍の攻勢をある程度予期していながらも、重大な警戒感は持っていなかった。

[編集] 関東軍作戦課

関東軍第一課(作戦課)においては、参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていたが、ソ連軍の侵攻が冬まで持ち越してもらいたいという願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。つまり、関東軍作戦課においては、1945年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも9月以降、さらには来年に持ち越すこともありうると判断していたのだった。この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。

[編集] 関東軍前線部隊

関東軍の前線部隊においてはソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。さらに第四軍司令官上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、七月ころから絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究したところ、8月3日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。また8月4日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えたものの、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒否するように伝えた。

[編集] 第五方面軍首脳部

他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大したことから、同地域における対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。が、1945年5月9日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、再び対ソ作戦に転換する。このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識されるが、兵力が限られていたことから、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しないこととした。 しかし、上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。 千島においては既に制海権が危機に瀕していることから、北千島では現状の兵力を維持、中千島の兵力の南千島への移出が図られた。

[編集] 第五方面軍前線部隊

樺太において陸軍の部隊の主力となっていたのは第88師団であった。同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から8月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、現体勢に変化なしという方面軍の回答を得たのみだった。 対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは8月6・7日の豊原での会議においてのことであった。 千島においては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。

[編集] 作戦の概要

[編集] ソ連軍

ソ連戦史によれば、対ソ防衛戦におけるソ連軍の攻勢作戦の概要としては、第一に鉄道輸送を用いて圧倒的な兵力を準備し、第二にその集中した膨大な戦力を秘匿しつつ満州地方に対して東西北からの三方面軍に編成して分進合撃を行い、第三に作戦発動とともに急襲を加え、速戦即決の目的を達することがあげられる。微視的に看れば、ソ連軍は西方面においては左翼一部を除いて大部分は遭遇戦の方式でもって日本軍を撃滅しようとし、一方東方面においては徹底的な陣地攻撃の方式をとっている。北方面は東西の戦局を見極ながらの攻撃という支援的な作戦であった。 北樺太及びカムチャツカ方面では、開戦の初期は防衛にあたり、満洲における主作戦の進展次第で南樺太および千島への進攻を行なうこととした。

[編集] 戦闘序列

極東ソビエト軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーソ連邦元帥

モンゴル人民革命軍総司令官H.チョイバルサン元帥

  • 第1極東戦線:司令官キリル・メレツコフソ連邦元帥
  • 第2極東戦線:司令官M.プルカエフ上級大将
    • 第2赤旗動章軍
    • 第15軍
    • 第16軍:司令官ア・ゲ・チエレミソフ少将
    • 第10空挺軍
    • 第5独立狙撃軍団
    • カムチャッカ設堡守備隊:司令官ア・エル・グネチコ少将
    • 第10航空軍
    • アムール流域防空軍
  • ザバイカル戦線:司令官ロジオン・マリノフスキーソ連邦元帥
  • 太平洋艦隊:司令官イワン・ユマシェフ大将。巡洋艦×2隻、響導艦×1隻、駆逐艦・掃海艇×12隻、潜水艦×78隻。兵員11万人。航空機1,549機
  • アムール小艦隊:司令官N.アントノフ少将

兵員1,577,725人、火砲26,137門(迫撃砲含む)、戦車・自走砲5,556両、航空機3,446機を装備(海軍の装備を考慮しない数)。

[編集] 日本軍

[編集] 関東軍

関東軍の作戦構想とは、ソ連軍の主力部隊の来襲が予想される西方面で、逐次的な抗戦と段階的な後退行動によって敵部隊を消耗させつつ連京線以東の山岳地帯に誘導して、ここで敵主力を可能な限り叩き、最終的には通化・臨江を中心とする総複郭内に立て篭もる。また満州各地で広く遊撃戦を行い、できる限りソ連軍の戦力を破砕する。ただし一部の前進を阻止遅滞させるための玉砕的な戦闘も予想しうる。後退の際には適時交通要所や重要施設は破壊して、敵の行動を妨害する、というものだった。戦術理論として一定の合理性を持つ作戦であったものの、当時の情勢と関東軍の準備状況などからは遊撃戦の展開や段階的な後退には非常に実行が困難な作戦であった。西正面のソ連軍の機甲部隊に対しては、第44軍(3個師団基幹)と第108師団を配備したに過ぎず、またこれらの部隊も火力・機動力ともに機甲部隊に対しては不足しており、実戦では各個撃破される危険性が高かった。また関東軍は戦力の差を縮めるためにゲリラ戦を重視していたが、これは現実的に難しく、困難であった。東部正面においては、元来工事の準備が遅れており、陣地防御もままならない状況であった。通信網でさえ第一線の部隊と司令部間であっても通じておらず、第一方面軍司令部と第五軍司令部の通信は8月14日になってからであった。

[編集] 第五方面軍

  • 第88師団(樺太)

対米戦に対応していた時期から、第88師団は樺太を真逢と久春内を結ぶ線で二分、それぞれで自活しつつ来攻する敵の殲滅にあたることとし、状況やむをえない場合に持久戦に移ることとし、同時に北海道との連絡維持を任務としていた。北部では八方山の陣地を軸とし、その西方山地や東方の軍道(東軍道または栗山道)沿いに北上、侵攻軍の翼に反撃、ツンドラ地帯内か西方山地に圧迫撃滅を図るものであり、南部では上陸阻止を第一としていた。 目標が対ソ戦に切り替わると、以北で小林大佐指揮下の歩兵第125連隊が八方山の複郭陣地などを活用し持久戦にあたり、南進阻止を企図するとした。以南の地域では東半部を歩兵第306連隊西半部に歩兵第25連隊をおき、師団主力は国境ソ連軍の邀撃にはあたらないとする旨が伝えられた。また、豊原地区司令部により、1945年3月25・26日には邦人7688名を地区特設警備隊要員として召集、教育しており、住民を利用したゲリラ戦をも想定していたともいえる。

  • 第91師団(北千島)

他の島嶼と同じく北千島においても水際直接配備が当初は主であったが、戦訓から持久戦による出血強要へと方針が転換されたが、陣地構築の困難さから、砲兵については水際に重点が置かれた。極力水際で打撃を与えつつ、神出鬼没の奇襲で前進を遅滞させるという村上大隊の戦闘計画に掲げられた任務は、その好例といえよう。全体の布陣は二転三転したが、最終的には幌筵海峡重視の配備となっていた。防御に徹した教育訓練がなされたことや、徹底した自給自足により栄養不良患者をほとんど出さなかったのも特徴である。

[編集] 戦闘序列

関東軍総司令官 山田乙三 大将(14期)

  • 第一方面軍:司令官 喜田誠一 大将(19期)
    • 第3軍
    • 第5軍
    • 直轄部隊
  • 第三方面軍:司令官 後宮淳 大将(17期)
    • 第30軍
    • 第44軍
    • 直轄部隊
    • 第4軍
    • 第34軍
  • 関東軍航空部隊
    • 戦闘飛行部隊
    • 教育飛行部隊(独立第101教育飛行団)
    • 陸軍士官学校満州派遣隊

兵員約70万(詳細な個別師団・部隊の兵員数は不明)、火砲約1,000門(歩兵砲山砲などすべてを含む)、戦車約200両、航空機約350機(うち戦闘機は65機。練習機なども含む)

これ以外に、樺太では第88師団が、占守島では第91師団がそれぞれ第五方面軍の指揮下ソ連軍を迎えた。

[編集] 居留民への措置

関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えら得ていた。開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。また居留民、特に開拓団は悪化していく状況においてあくまで関東軍とともにいることを強く希望し、また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、一切の後退をよしとしなかった。この判断については、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々が国外において軍事力の保護が消失した場合に起こる悲劇について未知であったことも大きな要因であると考えられる。

ソ連軍との戦闘が始まると直ちに、関東軍は居留民に対し避難処置を取るべく、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な研究を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。第一列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、対立鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。

これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。特に最前線地域の居留民の多くは第一線部隊とともに最後をともにする事態が続出し、また「根こそぎ動員」によって戦闘力を完全に失っていた家族・村落・地域においてはソ連軍兵士による暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次いぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、残留孤児となる人々も出た。

[編集] 経過

[編集] 初動

8月9日0100(ハバロフスク時間)にソ連軍は対日攻勢作戦を発動し、午前1時に関東軍総司令部は第5軍司令部からの緊急電話により、敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街が敵の空爆を受けていると報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。総司令部は急遽対応に追われ、当時出張中であった総司令官山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり。各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。さらに中央部の命令を待たず、午前6時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」をはきした。この攻撃は関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなり、前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つこととなったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。総司令官は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後1時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を用意人した。さらに総司令官は宮内府に赴いて溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都することを勧めた。

[編集] 西正面の状況

ソ連軍ではザバイカル戦線、関東軍では第三方面軍がこの地域を担当していた。第三方面軍は既存の築城による抵抗を行い、ゲリラ戦を適時に行うことを作戦計画に加えたが、これを実現することは、訓練、遊撃拠点などの点で困難であり、また機甲部隊に抵抗するための火力が全く不十分であった。同方面軍は8月10日朝に方面軍の主力である第30軍を鉄道沿線に集結させて、担当地域に分割し、ゲリラ戦を実施しつつソ連軍を邀撃しつつも、第108師団は後退させることを考えた。このように方面軍総司令部が関東軍の意図に反して部隊を後退させなかったのは、居留民保護を重視することの姿勢であったと後に第三方面軍作戦参謀によって語られている。関東軍総司令部はこの決戦方式で挑めば一度で戦闘力を消耗してしまうと危惧し、不同意であった。ソ連軍の進行が大規模であったため、総司令部は朝鮮半島の防衛を考慮に入れた段階的な後退を行わねばならないことになっていた。前線では苦戦を強いられており、第44軍では8月10日に新京に向かって後退するために8月12日に本格的に後退行動を開始し、西正面から進行したソ連の主力である機甲部隊は各所で日本軍と遭遇してこれを破砕、撃破していた。ソ連軍は8月13日には牡丹江を占領し、16日には勃利を占領した。

[編集] 東正面の状況

東方面においては日本軍は第一方面軍が、ソ連軍は極東方面軍が担当していた。第一方面軍は防勢作戦を計画していた。つまり、国境の既存防御陣地を保守し、ソ連軍の主力部隊が進行した後は後方からゲリラ戦を以って奇襲を加える。同方面軍の任務は、侵攻する敵の破砕であったが、二次的なものとして、満州国朝鮮半島の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。しかし、日本軍の各部隊の人員や装備には深刻な欠員と欠数があり、特に陣地防御に必要な定数を割り込んでいた。同方面軍の主力部隊の一つであった第5軍を例に挙げれば、牡丹江沿岸、東京城から横道河子の線において敵を拒否する任務を担っていたが、銃剣軍刀・弾薬・燃料だけでなく、火器火砲にも欠数が多く、軽機関銃、擲弾筒は定数の三分の一から三分の二程度しかなく、また火砲は第124師団、第35師団ともに定数の三分の二以下、第124師団は野砲の欠数を山砲を混ぜて配備し、第135師団は旧式騎砲、迫撃砲で野砲の欠数を補填しているほどであった。事実、実際の戦闘においては第二十五軍、第三十五軍団を主力部隊とする極東方面軍の激しい攻撃を受けることになった。天長山・観月臺の守備隊は敵に包囲され、天長山守備隊は15日に全滅、観月臺は10日に陥落した。また八面通正面では秋皮溝守備隊は9日に全滅、十文字峠・梨山・青狐嶺廟の守備隊も10日にソ連軍の圧倒的な攻撃を受けて陥落、残存した一部の部隊は後退した。平陽付近では、前方に展開していた警備隊がソ連軍の攻撃で全滅し、残りの守備隊は8月9日に夜半撤退したが、10日にソ連軍と遭遇戦が発生し、離脱したのは850人中200人であった。このように各地で抵抗を試みるもその戦力差から悉くが撃破・殲滅されてしまい、ソ連軍の攻撃を遅滞させることはできても、阻止することはできなかった。

[編集] 北正面の状況

満州国の北部国境地域、孫呉方面及びハイラル方面でも日本軍は抵抗を試みるもソ連軍の物量を背景にした攻撃で後退を余儀なくされていた。孫呉正面においては、ソ連軍は36軍、39軍、53軍、17軍及びソ蒙連合機動軍を以って8月9日に機甲部隊を先遣隊として攻撃を行ったが、当時の天候が雨であったために沿岸地区の地形が泥濘となって機甲部隊の機動力を奪ったため、作戦は当初遅滞した。日本軍は第123師団と独立混成第135旅団は陣地防御を準備していたが、ソ連軍の攻撃によって一部の陣地が占領されるも、残存した陣地を活用して反撃を行い、抵抗を試みていた。しかし兵力の差から後方に迂回されてしまい、防衛隊は離脱した。またハイラル正面においては、ソ連軍はザバイカル方面軍の最左翼を担当する第36軍の部隊が進行し、日本軍は第119師団、独立混成第80旅団によって抵抗を試み、極力ハイラルの陣地で抵抗しながらも、戦況が悪化すれば後退することが指示されていた。戦闘ではソ連軍の正面からの攻撃だけでなく、南北の近接地域から別働隊が侵攻してきたために後退行動を行った。

[編集] 北朝鮮の状況

北朝鮮においては第34軍(主力部隊は第59師団、第137師団「根こそぎ動員」師団、独立混成第133旅団)が6月18日に関東軍の隷下に入り、7月に咸興に終結した。戦力は第59師団以外は非常に低水準であり、兵站補給も滞っていた。開戦して第17方面軍は関東軍総司令官の指揮下に、第34軍は第17方面軍司令官の指揮下に入った。また羅南師管区部隊は本土決戦の一環として4月20日に編成された部隊であり、二個歩兵補充隊と、五個警備大隊、特別警備大隊八個、高射砲中退三個、工兵隊三個などから構成されていた。第一線の状況として、ソ連軍の侵攻は部分的なものであった。咸興方面では第34軍はソ連軍に対して平壌への侵攻を阻止し、朝鮮半島を防衛する目的で配備され、野戦築城を準備していた。しかし終戦までソ連軍との交戦はなかった。一方で羅南方面では、ソ連軍の太平洋艦隊北朝鮮作戦部隊・第一極東方面軍第25軍・第10機甲軍団の一部が来襲した。8月13日にソ連軍の偵察隊が淸津に上陸し、その日の正午に攻撃前進を開始した。羅南師管区部隊は上陸部隊の準備が整わないうちに撃滅する作戦を立案し、ソ連軍に対抗して出撃し、ソ連軍の攻撃前進を阻止するだけの損害を与えることに成功し、14日払暁まで淸津に圧迫し、ソ連軍の侵攻を阻止する中で8月18日に停戦命令を受領した。

[編集] 南樺太および千島の概況

当時日本が領有していた南樺太千島列島は、米軍の西部アリュ-シャン列島への反攻激化ゆえ急速強化が進んだ。1940年12月以来同地区を含めた北部軍管区を管轄してきた北部軍を、1943年2月5日には北方軍として改編、翌年には第五方面軍を編成し、千島方面防衛にあたる第27軍を新設、第一飛行師団と共にその隷下においた。 結果、1944年秋には千島に5個師団樺太に1個旅団を擁するに至る。しかし本土決戦に向けて戦力の抽出が始まると、航空戦力を中心に兵力が転用され、1945年3月27日に編成を完了した第88師団(樺太)や第89師団(南千島)が加わったものの、航空兵力は貧弱なままで、北海道内とあわせ80機程度にとどまっていた。

他方、ソ連軍は同方面を支作戦と位置づけており、その行動は偵察行動にとどまっていた。1945年8月10日22時、第2極東戦線第16軍は「8月11日1000を期して樺太国境を越境し、北太平洋艦隊と連携して8月25日までに南樺太を占領せよ」との命令を受領、ようやく戦端を開く。 しかし、準備時間が限定されており、かつ日本軍の情報が不足していたこともあり、各兵科部隊には具体的な任務を示すには至らなかった。情報不足は深刻で、例えば、樺太の日本軍は戦車を保有しなかったにもかかわらず、第79狙撃師団に対戦車予備が新設されたほどであった。 北千島においてはさらに遅れ、8月15日にようやく作戦準備及び実施を内示、8月25日までに北千島、すなわち占守島幌筵島温禰古丹島の占領を命じた。

[編集] 南樺太の状況

1941年6月の関特演で樺太混成旅団(後にこれを中核として第88師団を編成)が動員され戦時編成となって以来、対ソ静謐の方針に従い情報収集や物資集積に努めていた。ただし、アッツ島玉砕を受け関心が千島の不十分な防備に移ってしまったうえ、対米戦のための陣地構築が樺太南部や東海岸で実施されるようになったため、その進捗は中途にとどまった。 さらには、国境地帯に広がるツンドラが陣地構築の妨げとなった。居留民の避難については、1944年秋に第五方面軍より指示されたが、資材や人員の不足から、上敷香から内恵道路に至る道路を構築できたにすぎず、例えば炭鉱の内地への労働力移出といった、民間側の努力に頼るほかなかった。 向地視察隊などによる情報収集の結果、ソ連側の兵力集中が確認されたが、対応は遅々としていた。

樺太でソ連軍を迎え撃ったのは第88師団であったが、主力は米軍来攻が予想される南部、すなわち豊原大泊にあり、国境付近を含め、北部(真逢久春内以北)に展開していたのは歩兵第125連隊だった。 第五方面軍及び大本営からのソ連宣戦布告の報に接すると、師団は落合にあった歩兵第25連隊に真岡方面への転進を命じ、歩兵第125連隊は国境陣地占領を行ない、平行して国境付近の作業員や警察官家族、開拓団の避難に努めた。8月10日には安別付近の住民に緊急避難命令を発令、西柵丹へと退避させた。また、9日には在郷軍人ら3628名を地区特設警備隊要員として防衛召集、沿岸警備や避難者援護に従事させた。恵須取では8月13日、支庁長により地域、職域ごとの義勇戦闘隊(男子約600名、女子約70~80名)が編成された。 同日、第88師団は樺太庁長官や豊原海軍武官府と「老幼緊急疎開の件」につき緊急会談、13歳以下の男女と14歳以上の婦女子等16万名を北海道へ疎開させる旨決定、8月12日に全市町村に通達した。翌13日には第一船が出発、23日にソ連軍が邦人の島外移動を禁ずるまでに87670名が離島に成功することになる。

[編集] 南樺太の戦闘

樺太におけるソ連軍最初の攻撃は、9日7時30分武意加の国境警察に加えられた砲撃である。しかし、11日までは斥候兵が出没するのみで、その動きは極めて緩慢であった。これは、ソ連側が、満洲における進捗いかんでは樺太及び千島への兵力を同方面に振り向けることを考慮していたためである。11日5時頃より、樺太方面における主力とされたソ連軍第56狙撃軍団は本格的に侵攻を開始した。ルートは樺太中央部を通る半田経由のものと、安別を通る西海岸ルートの二つに分かれていた。 しかし、ツンドラ地帯ゆえ戦車や重砲の通行可能なルートが限られていたこともあり、その進撃は果々しくなかった。他方、日本軍は方面軍の「積極戦闘を禁ず」という命令(8月10日に解除、ただし無線機材の故障や人員不足による機材置き去りゆえ前線に通じず)のため、専守防御的なものとならざるを得なかった。

けれども、国境付近の半田集落において国境警察隊と2個小隊の兵士約100人が抵抗、1個軍団を丸一日にわたり食い止める等の善戦を見せた。ただし、その多くが後に戦死した。国境の10kmほど後方の八方山陣地においては、日本軍第125連隊約3000人が陣地防御を行ったほか、伏兵を配置するなどの挺身奇襲攻撃を実施、時間的猶予を得ることに努めた。その間に非戦闘員の鉄道による後送を実施、これに成功した。 元来樺太は現有兵力でのみ防衛にあたることとされていたが、日本側の航空兵力が皆無だったこともあり、8月12日、在道の航空部隊に出撃が命じられた。しかし、出撃に至ったのは8月14日のことであり、かつ悪天候のため宗谷海峡を越えることなく終わってしまった。 陸上兵力についても増援が企図されたが、日の目を見ることはなかった。また、8月16日未明に実行すべく、北樺太上陸作戦が計画されていたが、終戦の知らせと大陸命により、こちらも中止された。

ところが、実際の戦闘はこの後も継続し、むしろ拡大していった。 15日の時点では、国境の古屯でのみ防御戦闘が続けられていたが、同日ソ連統帥部は真岡・千島への進攻を決断、夜には恵須取攻略船団(13日に一度撃退されたため)が出航していた。16日には恵須取への再攻撃が開始され、浜市街や太平炭鉱付近などもソ連軍による艦砲射撃と航空機による無差別攻撃があり、追い詰められた太平炭鉱病院の看護婦が集団自決する事件が発生。 これに対し、日本軍は18日の戦闘行動中止命令を受け、連絡を受けた部隊から順に解散していたが、19日以降方面軍から再三自衛戦闘継続が要求される。ソ連軍が南下を続ける限り、という条件付のものではあったが、ソ連側が「停戦には応ずるが、日本軍は無条件降伏したのだから、わが軍は目的地を占領するまで前進する」として取り合おうとしなかったこともあり、実質的には戦闘の継続を意味した。

真岡へのソ連軍上陸で事態はさらに急を告げる。同地は樺太南西に位置する港町で、ソヴィエツカヤガヴァニから出発したソ連海軍北太平洋艦隊が20日早朝から艦砲射撃を行い、その後上陸し占領した。真岡にあった部隊の多くは当時終戦に伴う師団からの命令により東方の荒貝沢に移動しており、市街に残っていた部隊は管理部隊が殆どだった。このため、犠牲となったのは一般市民であり、ソ連兵の避難民に対する無差別乱射により殺害されたものもあったという。この時同地では北のひめゆり事件が発生した。 同地にあった歩兵第25連隊は、軍使の派遣を考慮し発砲を禁じたが、軍使殺害事件が発生したため自衛戦闘に切り替えた。21日朝には荒貝沢に接敵機動、熊笹峠へ後退しつつ現場指揮官は抵抗を続け、避難民の後方への移動を掩護、23日2時ごろまでソ連軍を拘束していた。

この最中、8月22日に知取にて停戦協定が結ばれるが、赤十字のテントが張られ白旗が掲げられた豊原駅前にソ連軍航空機による攻撃が加えられ、多数の死傷者が出るなど戦火は続いた。同日朝には樺太よりの引揚船「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」が留萌沖で潜水艦に攻撃され、「第二新興丸」が大破、他の二船は沈没し1708名の死者と行方不明者を出した。 その後もソ連軍は南下を継続し24日早朝には豊原に到達、樺太庁の業務を停止させて日本軍の施設を接収した。25日には大泊に上陸、樺太全土を占領した。

[編集] 千島列島の状況と戦闘

アリューシャン列島からの撤退により、千島列島、中でも占守島をはじめとする北千島が脚光をあびる。当初はアッツ島からの空爆に対する防空戦が主であったが、米軍の反攻に伴い、兵力増強が図られる。本土決戦に備えて抽出がなされたのは樺太と同様であるが、北千島はその補給の困難から、航空兵力も含めある程度の数が終戦まで確保(航空機は占守島で8機-樺太はゼロ、兵力約25000、火砲約200門)された。 また、樺太と異なり、対米戦であれ対ソ戦であれ、スタイルとして異なるところはなく、資源を有効活用できたのも特筆すべきであろう。 作戦は、対米戦における戦訓から、水際直接配備から持久抵抗を志向するようになったが、陣地構築の問題から砲兵は水際配備とする変則的な布陣となっていた。 ソ連参戦後も、付近に艦船を目撃することはあったが積極攻勢には出ず、特に動きはないまま、8月15日を迎える。そして、方面軍からの18日16時を期限とする戦闘停止命令を受け、兵器の逐次処分等が始まっていた。 だが、この日、15日ソ連軍は千島列島北部の占守島への侵攻を決め、太平洋艦隊司令長官ユマシェフ海軍大将と第二極東方面軍司令官プルカエフ上級大将に作戦準備と実施を明示、18日未明に揚陸艇16隻、艦艇38隻、8363人の兵員を運用して上陸作戦を行った。 投入されたのは第101狙撃師団(欠第302狙撃連隊)とペトロパヴロフスク海軍根拠地帯の全艦艇、上陸用舟艇、商船及び国境軍の現有船舶、第128混成飛行師団であった。

当時占守島の防衛を担っていた日本軍第91師団はこのソ連軍に対して水際で火力防御を行い、少なくてもソ連軍の艦艇13隻を沈没させた。これは、上陸可能な地点が限定されていたことや、ソ連軍内部での通信の途絶などが主因であったといえよう。 だが、残存したソ連軍部隊が上陸し、島北部の四峰山において戦闘が続いた。第91師団は、方面軍命令の時刻、すなわち18日16時まで上陸したソ連軍部隊を殲滅すべく攻撃を実行、予定通り16時に戦闘行動の停止と防御移転の命令を発した。しかし、最初の軍使をソ連軍に送ったところ攻撃にあってしまい、また部隊が戦闘停止してからもソ連側の攻撃はしばらく続いた。19日朝に再び軍使が送られ、ソ連軍もこれを受け入れた。そして21日に局地停戦協定が締結され、23・24日にわたり武装解除がなされた。

なお、千島列島のうち民間人が在住していたのはほとんどが南千島(北方領土)であり、北千島の定住者は18名だけであった。しかし、季節労働者である日魯漁業の女子従業員400~500名がいた。終戦後直ちにその送還が企図され、8月19日16時、独航船26席に分乗し脱出、全員無事北海道に到着した。

それ以降、ソ連軍は25日に松輪島、28日には択捉島、29日にウルップ島という順に、守備隊の降伏を受け入れながら各島を順次占領していった。 米軍が進駐してこないことを確認すると9月1日に国後島歯舞諸島を占領、2日に降伏文書に正式調印した。色丹島を占領したのはその後、4日のことである。

[編集] 停戦

外地での戦闘が完全に収束する前に、日本政府はポツダム宣言を受諾し、終戦詔書が発布された。このことにより攻勢作戦を実行中であった部隊はその作戦を中止することになった。しかしソ連最高統帥部は「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。そのため、日本軍は戦闘行動で対応するほかなく、関東軍とソ連軍の停戦が急務となった。連合国最高司令官マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営に対して戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令を出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊はほぼすべてが激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたために、全く状況は変わっていなかった。

8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将はソ連側と交渉に入ったが、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は8月20日午前まで停戦しないと回答した。これにマッカーサーは要求を強め、ついに8月18日に一切の武力行動を停止する命令を出し、これをうけ日本軍は各地で戦闘停止し、停戦交渉が本格化することとなった。同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。

8月19日1530(極東時間)、関東軍参謀長畑中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。8月24日には、スタフカから正式な停戦命令が届いたが、作戦は9月始めまで続けられ、ソ連軍は中国東北部、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島を占領した。

[編集] 前線部隊の状況

対ソ防衛戦は満州国各地、及び朝鮮半島北部などにおいて広範に行われた。巨視的に日本軍は終始戦力格差から各地で一日の間に陣地を突破される事態が各地で発生し、突破された部隊は戦況を立て直すことができず、離散することがほとんどであった。しかし、編成が終了したばかりの新兵と装備不十分の寡弱な部隊を、強大なソ連軍が進撃する戦場に投入したとしても、交戦前に混乱状態に陥った部隊は皆無であった。例えば第5軍は、絶望的な戦力格差があるソ連軍と交戦し、少なからぬ被害を受けたものの、1個師団を用いて後衛とし、2個師団を後方に組織的に離脱させ、しかも陣地を新設して邀撃の準備を行い、さらに陣地の後方に各部隊を再編して戦力を準備することに成功しており、非常に優れた指揮の下で円滑に後退が行われたことが伺える。また既存陣地(永久陣地及び強固な野戦陣地)に配備された警備隊はほぼすべてが現地固守を命じられた。これは後方に第二、第三の予備陣地が構築されておらず、また増援が見込めないからであった。そのため後退できない警備隊は物量で波状攻撃をかけるソ連軍に対して悲愴な陣地防御を行い、そのほとんどが担当地域で果てることとなった。ここで注目すべき点は、戦闘力が寡弱な中隊小隊であったとしても、事前に定位を捨てる部隊はなく、戦闘前に個人的に離隊した兵士も一人もいなかった。

[編集] 在留邦人の状況

日本軍の一切の武力行動禁止が命じられ、ソ連軍が満州各地に進駐してきてから地域の在留邦人が悲惨な事態に追い込まれることとなった。ソ連軍首脳部は日本軍、日本人に対する非人道的な行為を戒めているものの、実際には現地部隊はそれを無視しており、正当な理由なき発砲・略奪・強姦・車両奪取などが堂々と行われていた。また推定50万人の避難民が発生し、飢餓と寒さで衰弱していた。関東軍は当時、武装解除が行われており、具体的な対応手段は完全に封じられていたため、現地の状況について東京に伝え、ソ連に対してこの事態についての外交交渉を求めることが限界であった。その中でも現地状況を逐次日本政府に電報で再三にわたって送り続け、連絡船などによる内地向け乗船に満州からの避難民を優先するように取り計らっていた。

[編集] 参考文献

  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面陸軍作戦 <2> 千島・樺太・北海道の防衛』朝雲新聞社(昭和46年3月31日発行)
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍 <2> 関特演・終戦時の対ソ戦』朝雲新聞社(昭和49年6月28日発行)
  • 金子俊男『樺太一九四五年夏-樺太終戦記録-』(1974年4月28日第4刷)
  • 秦郁彦『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会(1996年9月10日第4版)

[編集] 関連項目

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