イグナツ・プライエル
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イグナーツ・プライエル(イグナス・プレイエル)(Ignatz Joseph Pleyel, 1757年6月18日 - 1831年11月14日)はオーストリア出身の古典派音楽の作曲家である。
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プライエルは、ニーダー・エースターライヒ州のトゥルン近郊ルッパースタール Ruppersthal でマルティン・プライエルという名の教師の息子として生まれた。若いころ彼はおそらくヴァンハルと共に学び、1772年からアイゼンシュタットのヨーゼフ・ハイドンの生徒になった。プライエルは、彼の13年後に生まれたベートーヴェンと同様に、彼の研鑽において貴族階級の後援―この場合はエルデーディ・ラースロー伯(1746年 - 1786年)―から恩恵を受けた。プライエルは明らかに、彼を優れた生徒だと考えていたハイドンとよい関係にあった。
この時代のプライエルの初期の作品には、人形歌劇(puppet opera)『Die Fee Urgele』(1776年)があり、エステルハージ宮殿のマリオネット劇場とウィーンとで上演された。同じ時期に、彼はハイドンのオペラ『火事に遭った家』(Das abgebrannte Haus)の序曲の少なくとも一部を書いている。
プライエルの最初の職業的地位はエルデディ伯の楽長であったが、このことはあまり知られていない。彼の初期の出版物には六つの弦楽四重奏曲(作品1)がある。
1780年代の初め、プライエルはイタリアを訪問し、そこでオペラを一曲(『Ifigenia in Aulide』)とナポリ王に委嘱された諸作品を作曲した。
1783年にフランスのストラスブールに移り、それ以後フランス風の名「イグナス・プレイエル(プレイェル)(Ignace)」を名乗った。彼は、最初フランチシェク・リヒテル(František Xaver Richter)のもとでストラスブール大聖堂の副楽長(assistant Kapellmeister)に就き、その後1789年にリヒテルの死に際し、楽長(full Kapellmeister)になった。1788年にストラスブールの絨毯職人の娘フランソワーズ=ガブリエル・ルフェヴル(Francoise-Gabrielle Lefebvre)と結婚し、四人の子をもうけた。長男のカミーユについては後述する。
1791年に、フランス革命によって教会での公演が公の演奏会と同様に廃止された。代わりの職を探すためにプレイエルはロンドンに渡り、そこでヴィルヘルム・クラマー(Wilhelm Cramer)が組織する「プロフェッショナル・コンサート(Professional Concerts)」を率いた。この立場にあって、同じ時期にハイドンがヨハン・ペーター・ザロモンの組織する演奏会シリーズを率いていたので、プレイエルは不注意にも彼の師の敵の役割を演じることになった。二人の作曲者は職業上敵対していたが、かれらは個人的にはよい関係のままであった。
ちょうどハイドンのように、プレイエルはロンドン訪問によって財を成した。ストラスブールへの帰還に際し邸宅を購入した。サン・ピエール近郊のイタンウィラ城(Château d’Itenwiller)である。
1793年の恐怖時代の始まりとともに、フランスでの生活は大勢の人にとって危険なものになった。いくつかのソースによると、プレイエルの客地(adopted country)への忠誠心には疑問が呈されており、彼は破滅的な結果に容易になりうる事態を愛国的な音楽作品の作曲することによって回避したと言われている。
[編集] 企業家としてのプレイエル
プレイエルは1795年にパリに移った。1797年に、数ある作品のうちにハイドンの弦楽四重奏曲の完全版(1801年)や研究のための最初のミニチュア・スコア(『音楽叢書(Bibliothèque Musicale)』)も手がけた音楽出版社(「Maison Pleyel」)の仕事を立ち上げた。出版業は39年続き、ボッケリーニ、ベートーヴェン、クレメンティ、ドゥシークを含む約4000作品をこの間に出版した。
1807年には、ピアノ製造業者になった。ピアノ製作会社プレイエルについては以下参照。
1824年に勇退し、パリから約50kmの郊外に移った。自分の音楽様式が新しいロマン派音楽に完全にとってかわられていることに、明らかに気付いていた。1831年に他界し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。
[編集] 作品
プレイエルは、その時代には非常に有名だがやがて知られなくなる(ケルビーニ、マイヤベーア、タールベルクを含む)作曲家という現象の、一例である。何人かの人々によると、ヨゼフ・ハイドンの最盛期とベートーヴェンの名声の上り坂との間の短い期間、プレイエルはヨーロッパにおいて最も有名な作曲家だった。
彼の名声は、当時の音楽的な辺境であるアメリカ合衆国にまでも及んだ。マサチューセッツ州の沖合いのナンタケット島にプレイエル協会があり、プレイエルの旋律は、当時盛んだったシェイプ・ノート(shape note)賛美歌集でも発展を見た。(プレイエルは実際、現代のシェイプ・ノート讃美歌集『The Sacred Harp』に現れる、唯一のクラシックの作曲家である。)
恩師ハイドンと同じく、プレイエルは多作家であり、41の交響曲、70の弦楽四重奏曲、いくつかの弦楽五重奏曲とオペラを作曲した。これらの作品の多くは、ストラスブール時代から始まっている。プレイエルの創作活動は、企業家になってからは少なくなった。
20世紀の音楽学の成果により、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲(作品56)の主題の真の原作者は、ハイドンでないことが明らかにされたが、実際は誰なのかが長いこと不明のままだった。だが、最近の研究では、それがプレイエルである可能性が推測されている。 プレイエルは、今日では、教則本の練習曲の作曲家として知られている。例えば、ヴァイオリンやフルートの初心者は、プレイエルが作曲した多数の二重奏曲を教材とすることがある。
[編集] プレイエルピアノ
ピアノ製作会社「プレイエル商会(Pleyel et Cie )」は、イグナツ・プレイエルとその息子カミーユ(1788年 - 1855年、ピアノの名手で1815年に父の仕事の共同経営者になった)によってに設立された。この会社はフレデリック・ショパンに使用されたピアノを生産し、また、ショパンがパリで最初に演奏会を(そして最後の演奏会も)行ったコンサートホール「サル・プレイエル(Salle Pleyel)」も経営した。19世紀末ころ、プレイエル社は最初の半音階ハープを製作した。20世紀初頭には、ワンダ・ランドフスカの要請で、ハープシコードの復活に手助けをした。
[編集] プレイエル社史
イグナツ・プレイエルによって1807年にPLEYELを冠した最初のピアノが製造される。 1813年にイグナツは、正式にカミーユにその経営権を譲り、1829年にイグナツの健康状態の悪化を機にプレイエル親子は、財産の整理を始め、長年の友人であるカルクブレンナーが、プレイエルピアノの製造、販売、貸出を行うPleyel & Co.を設立する。
1855年にカミーユよりオギュスト・ヴォルフに経営権が引継がれ、ヴォルフは、工場をパリからサンドニに移動させる。55000㎡の広大な工場では、1866年の最盛期には年間3000台のピアノを生産した。1887年のヴォルフの死を受け、義理の息子であるギュスターブ・リヨンが経営を引継ぐ。優れた音楽家でもあり、鉱山技師でもあったリヨンは、製造の近代化に成功する。1866年には、プレイエルの経営は、パリのロシュシュアールのショールームの他に、パリ市内に2軒、ブリュッセル、ロンドン、シドニーにそれぞれ1軒ずつ支店を持つまでに成長した。
1927年にパリにサル・プレイエルが建設される。
1930年、リヨンが経営より退く。時を同じくして、1929年のアメリカの株の大暴落を受けたプレイエルのピアノ部門が1933年財産管理下に陥る。翌年、プレイエル破綻。サル・プレイエルは、クレディリヨネ銀行に買収され、1998年までその管理下におかれる。
1961年、経済的苦境の中、前年に合併したばかりのガボー・エラールと合併し、ガボー・エラール・プレイエルとなる。この時点で、多くのピアニストの証言からプレイエルの音は消えたといわれている。1971年に、ドイツのシンメル(Schimmel piano company)により買収され、工場をドイツのブランシュヴァイクへと移転する。このシンメルによる経営はその後25年に渡る。この買収劇によって、プレイエルブランドのピアノはドイツ資本のなったものの、技術者たちが出資者たちの援助のもと、北フランスに工場を開き、ラモー(Rameau)の名でフランスピアノを作り続ける。
サル・プレイエルの所有者であるクレディリヨネ銀行が、1995年に経済的なスキャンダルに見舞われ、その財産が国の管理下におかれ、競売に掛けられる。翌年、フランス人ビジネスマンのユーベル・マルティ二がサル・プレイエルを購入し、南仏アレスに移転していたプレイエルの工場の再生にも着手し、名称もフランスピアノ製造会社(Manufacture Francaise De Pianos)に変更する。 翌1998年、サル・プレイエルの実質的な売却が行われ、70年間の分裂を経て、再びプレイエルが一つになる。サル・プレイエルは2006年9月に再開され、オーケストラの公演など多くのコンサートを開いている。
2002年マルティニの要請を受け、アルノー・マリオンがサル・プレイエルとフランスピアノ製造会社の経営に関る。2006年現在、フランスピアノ製造会社は、アラン・ラフォンにより運営されている。
[編集] プレイエルピアノでの録音
戦前のSPではこのメーカーで録音された演奏も多かった。中でもアルフレッド・コルトーの1930年代の録音は、全てプレイエルで行われている。
[編集] 名の呼び方
「Pleyel」はドイツ語では、おおよそ「プライル(plile)」のように発音される。フランス語では、(やはりおおまかに)「プレイ-エル(play-ELL)」である。英語の話者は、一般にフランス語の発音に従っている。日本語でも、フランス語のように「プレイエル」と表記することが多い。
[編集] 関連書籍
プレイエルの生涯と作品に関する労作は、『ニュー・グローヴ音楽大事典』(w:New Grove Dictionary of Music and Musicians)およびその有料サイトにて閲覧可能である。
アルノー・マリオンによるプレイエルの歴史に関する書籍『Pleyel History with future』[1]
[編集] 外部リンク
- Pleyel pianos(英文)
- サルプレイエル(英文・仏文)
- アルタリア社による伝記(英文)
- the Ignaz Pleyel Museum(独文)
- プレイエルピアノについてのサイト (英文)- ワーテルロー大学のスティーヴン・バーケット氏による。プレイエルと歴史的なプレイエルピアノの写真を含む