ゲーム脳
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ゲーム脳(げーむのう)は、日本大学文理学部体育学科教授の森昭雄が、2002年7月に出版した著書『ゲーム脳の恐怖』において提示した造語である。森はゲーム中の脳波を測定する実験によって「テレビゲームが人間の脳に与える悪影響」を見出したなどと主張しており、この状態を象徴的に表現したものだが、脳科学の専門家の間では科学的根拠のないトンデモ論であるとの見方もある。
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[編集] 概要
すでに長い歴史を持つテレビゲームはすっかり若者や子供の間で普及しきっており、ゲームセンターやゲーム機などでコンピュータゲームに熱中する者も数多い。森は、独自に開発した脳波計でテレビゲームをプレイしている人間の脳波を計測した結果、ゲームに熱中している人間の脳波にはβ波が出ない場合があると発表した。そして、この状態の脳波は痴呆(認知症)患者と同じだとして、脳の情動抑制や判断力などの重要な機能を司る前頭前野にダメージを受けているという説を論じている。
森は、脳波の中でもとくにα波とβ波の関係に着目し、数人の被験者を対象にゲームが脳波に及ぼす影響を調べた。その実験結果によれば、テレビゲームを始めるとかなりの割合でゲーム中にβ波がα波より低位になり、β/α値が低下する。すなわち、ゲームをすることでβ波が激減してほとんど出ないようになるという。また、普段ゲームをしていない人はゲームをやめるとすぐにβ/α値が元に戻るが、一日に何時間もゲームをするなどゲーム漬けになっている人は回復が遅く、高齢者の痴呆症患者と同じような波形を示すという。森はこの状態を「ゲーム脳」と定義した。
森の研究によれば、「ゲーム脳型の人間になると、大脳皮質の前頭前野の活動レベルが低下し、この部位が司る意欲や情動の抑制の機能が働かなくなって、思考活動が衰える」という。これが「無気力や感情の爆発、いわゆる「キレる」状態にもつながり、ひいては凶悪少年犯罪にもつながる」…という危惧を著書で述べている。そして、このゲーム脳状態を回復させる方法として、お手玉のような遊び、そして全身をフルに使った運動を推奨している。運動をした後は、β/α値が上昇するというデータも示されている。
また、ゲームばかりでなく携帯電話を頻繁に利用する若者も、同じようにゲーム脳になるという。これを指して、メール脳という造語も登場した。他にも、女性が人前で平気で下着を見せるというようなことを羞恥心の欠如と考える論者によれば、それもゲーム脳のせいであるという主張もあり、ゲーム脳は社会問題のあらゆる原因としてかなり広い範囲を覆うことのできる仮説に発展している。
この主張がマスコミの報道や講演を通して広く認知されたことにより、「ゲーム=犯罪の温床」、「ゲーム=学力を低下の最大の原因」という認識を持つ層が現れた。「ゲーム=絶対的な悪」であることを望む保護者や教育関係者らに支持され、ゲームの規制を有利にするための論拠としてしばしば引き合いにされるが、主張の科学的正当性や根拠、客観性については批判的な見解が多く、同書は2003年度の「日本トンデモ本大賞」にノミネートされている。
ゲーム脳に関する研究については、2002年10月以来、自身が理事長を務めている日本健康行動科学会学術大会において口頭発表を行ない、会誌には英語論文が掲載されている。また、森はマスコミなどには「脳神経学者」の肩書きで紹介される事が多いが、学歴は(日大文理学部体育学科卒業、(同大学教育学研究科修士課程修了)、博士課程で医学に転向した。博士論文は筋肉に関する論文であり現在でも専門は運動生理学である。
一連の報道に対して、日本神経科学学会 の会長であり、大阪大学名誉教授である津本忠治は、『ゲーム脳の恐怖』やよく似た理論である『脳内汚染』(岡田尊司著) のような脳神経を扱った本に対し、「こういった本は神経学に対する信頼を損なうことになる。今までは放置の姿勢だったが、これからは間違いを正すべく努力したい」と学会の会報「神経科学ニュース」や雑誌のインタビューで表明した。
[編集] ゲーム脳の提唱者に関する誤解
「テレビゲームで脳が壊れるという理論の最初の提唱者は、東北大学教授の川島隆太である」という説もあるが、これはイギリスのタブロイド誌が川島の発言を誤解して報じてしまったためであり、誤りである。川島本人はこれらを発端とした一連の出来事を「忌まわしい過去の出来事」と書いている。
川島は、統計をもとに「一般的なテレビゲームの多くは前頭前野を刺激しない(ただし必ずしもそうではなく、新しいゲームをやり始めたころや、文章が多く表示されるゲームで流し読みではなく本腰を入れて読んだ場合など、ゲームの内容や遊ぶ姿勢によっては活性化するケースもある)」という結論は出しているが、ゲーム脳を肯定しているわけではなく、「痴呆に似た状態になる」「脳が壊れる」といったような悪影響論も述べていない。さらに、のちの自著『天才の創りかた』(講談社インターナショナル)や『頭をよくする本』(KKベストセラーズ)の中でも、「テレビゲームで遊ぶことで脳が壊れてしまうことは100%ない」と書いている。
むしろ、「前頭前野を刺激しない種類のテレビゲームで遊んでいるとき」と「リラックスしているとき(“癒し”)」の脳の血流や活動の状態が酷似しているとして、「前頭前野を使いすぎて脳が疲れたときに、休ませる目的でゲームをするのは良い」という、逆の考えを持っている。さらに2004年以降は、セガトイズから発売された知育玩具「脳力トレーナー」(ゲームソフト版も発売されている)や、任天堂のゲームソフト『脳を鍛える大人のDSトレーニング』など、脳および前頭前野を活性化できる携帯ゲームの監修も積極的に行っている。
[編集] 反響と論争
ゲームの危険性を論じた『ゲーム脳の恐怖』(以下、「本書」と表記)は、脳波測定という科学的手段を用いたことで話題になり、ベストセラーとなった。マスコミのIT関連記事や、犯罪事件報道(長崎男児誘拐殺人事件、長崎小6女児同級生殺害事件、大阪小学校教師殺傷事件など)でも幾度にわたって大きく取り上げられた結果、PTAや教育関係者~政治家(特に都道府県知事)や警察官僚に多数の支持を獲得しており、自治体による森を招いた講演会が開催されたり青少年保護育成条例の強化やゲームを規制する際の根拠や口実として掲げられるケースも多々発生している。2006年に発売された森の著書『元気な脳のつくりかた』は、日本PTA全国協議会推薦図書となっている。
本書の発表と前後して、文部科学省は2002年3月から始めた「脳科学と教育」研究に関する検討会の答申で、ゲームやテレビなどを含む生活環境要因が子供の脳にどう影響を与えるかを研究するために、2005年度から一万人の乳幼児を10年間長期追跡調査することを決めた。この中で、ゲームの影響も調べられるという。
また、テレビや新聞などのメディアでゲーム脳が無批判に取り上げられるケースも多く、その一例として、東海地区ローカルの番組「UP!」(メ~テレ)2006年2月14日放送分において、このゲーム脳を確かな説と信じきった論調の特集が放送されている。これらの多くは、森自身もインタビューに登場するなどの形で全面的に協力している。
このように本書は主にゲームになじみの薄い中高年層や保護者に多くの支持者を獲得する一方で、各方面から「本書の内容には科学的な間違いや論理的矛盾、恣意的なデータ解釈が数多く見られ、疑似科学の範疇に入る」と指摘されており、「トンデモ本である」との批判を浴びている。こうした批判については、府元晶(ゲイムマン)がまとめた、AllAboutのガイドサイト「ゲーム業界ニュース」中の「ゲーム脳」関連記事に詳しく書かれていたが、2006年にAllAboutは、府元が書いた一連の記事を削除した。
本書への批判としては、以下のようなものが挙げられる。
- 「ゲーム中毒者はβ波が低下するので痴呆症患者と同じ」という前提には根拠がない。
- α波とβ波にゲーム脳以前の擬似科学とは逆の意味を与えている。以前の疑似科学ではα波を「良いもの」と捉える伝統があったが、ゲーム脳では逆に「悪いもの」と捉えている。α波に注目するという発想自体は他の疑似科学理論から採り入れつつα波の評価だけ正反対にするのは都合が良すぎる。
- 脳波を測定するのに用いられた装置は、森が独自に開発したもので、厳格な医学的手続きを踏んでいない。そのため、測定された「脳波」の結果自体が信頼できない。
- 森の実験では標本や被験者数がはっきりと記されていないものが多い。正確な標本の数がない実験については、対象者全体のうち何%がどのような異常を示したか、というような統計を取ることもできない。
- 被験者数が記されていても、その人数が極端に少なく、統計学的にみて行動と脳波の相関関係があると言うことはできない(統計学的に、10人以下と、極端に少なすぎる被験者の実験は全く無意味である。また、20~30人程度の被験者でも相関関係の推定精度は悪い。最低でも100人単位の被験者がいないと信頼できるデータが得られない)。
- ある程度被験者数が多くても、年齢や性別が偏れば公正かつ中立のデータを取ることはできない。「ゲーム=悪」であることを支持する動きに対し、若者(幼児、小・中学生~20代程度)からのデータしか取らない傾向があり、30代以上の中年層~60代以上の高齢者からはデータを取ろうとする節がないため、年齢別のデータ収集がないか不十分なデータである以上、若者が全て悪い者と認識され、ゲームへの偏見を植え付けることになりかねない。
- 森はゲームの影響を計る実験の際、対象者を「ビジュアル脳」「ノーマル脳」「ゲーム脳」などに分類しているが、この選別基準は少数の実験対象者について森が抱いた印象や憶測に基づいており、個人的な主観による分類にしかすぎず、客観的に見れば科学的とはいえない。
- さらに、本書においてゲーム中の脳波を計測する実験では、ゲーム中にはβ波が出なくなり、β/α値が低下するということがゲーム有害論の根拠となっているが、実際には本書に掲載されている「運動をしている最中」のデータでも、同じようにβ/α値が低下する。それにも関わらず、ゲーム中のβ/α値の低下は批判し、運動時のβ/α値の低下は推奨しているというのは矛盾しており、二重基準(ダブル・スタンダード)である。
- ゲームに初めて触れる者よりも、ある程度慣れた者のほうが、ゲーム中 (「ゲーム脳の恐怖」内の実験では積み木合わせゲーム = テトリス) の脳の働きが弱いという実験結果が現れたのは、そのゲームの性質上、ゲームルール自体に慣れていることにより、単に「脳の働きが効率化」されているためであるということが十分に考えられる。しかし、以前から指摘されているにもかかわらず、そうではないという調査・立証が未だに行われていない。
また将棋・そろばん・朗読・カードゲーム・コンピュータ操作・携帯電話のメール・テレビの視聴・大学生による英語学習・音楽を聴く・肩たたきをしてもらうなどでもゲーム脳の状態になると論じられており、なかでも将棋・コンピュータ操作などについては提唱者である森自身も認めている。「ゲーム脳」を信じる教育関係者の中には、脳を活性化させるために朗読を勧める人が多い。しかし、朗読でもゲーム脳の状態になるという森の主張と対立し、矛盾している。「朗読の際に前頭前野の血流が下がる」と川島隆太が自著で指摘していることは注目に値する。
なお、本書は2003年度の第12回日本トンデモ本大賞(選評)にノミネートされ、次点を獲得した。その後、と学会の『トンデモ本の世界T』でも書評が取り上げられている。
本書で取り上げられた内容の他にも、森が講演で「テレビゲームが原因で自閉症になる」「最近、自閉症の発症率が100人に1人と増えているのは、ゲームのせい。先天的な自閉症の数は変わらないので、増えた分はゲーム脳による後天的自閉症だ」(注: 自閉症は先天的な脳機能の障害であり、ゲームなどの外的要因で後天的に起こることは絶対にありえない) など、自閉症について誤解を招く発言を行うなど、ゲーム脳に関連した森自身の発言内容に対して批判の声が聞かれる。 より詳しい内容については、森昭雄の項目を参照されたい。
「ゲーム=犯罪の温床になる」という論争については、南カリフォルニア大学の社会学者カレン・スターンハイマーにより、否定的な研究結果が発表されている。同氏は、1999年に米コロラド州で起きたコロンバイン高校銃乱射事件発生後からこの問題を研究している研究者であり、同乱射事件について、一部の専門家が「Doom」というゲームが事件の引き金になったと主張したことに対して、「若者の暴力をテレビゲームのせいにする人々はそのほかの重要なことを見過ごしている」と指摘した。
スターンハイマーが青少年の犯罪に関する新聞報道とFBIの統計を分析したところ、「Doom」とそれに類似する残虐なタイトルのゲームが発売されてからの10年で、米国における若者の殺人罪での検挙率は77パーセント減少したという事実が判明した。
[編集] 参考文献
- 森昭雄 『ゲーム脳の恐怖』 日本放送出版協会<生活人新書>、2002年。ISBN 4140880368
- 森昭雄 『ITに殺される子どもたち-蔓延するゲーム脳』 講談社、2004年。ISBN 4062124750
- 森昭雄 『元気な脳のつくりかた』 少年写真新聞社、2006年。ISBN 4879812226 (日本PTA全国協議会推薦図書)
- と学会 『トンデモ本の世界T』 太田出版、2004年。ISBN 4872338499
- 香山リカ・森健 『ネット王子とケータイ姫』 中央公論新社、2004年。ISBN 4121501551
- 香山リカ 『テレビゲームと癒し』 岩波書店、1996年。ISBN 4000260510
- 坂元章 『テレビゲームと子どもの心』 メタモル出版、2004年。ISBN 4895954633
- 小笠原喜康 『議論のウソ』 講談社、2005年。ISBN 4061498061
- 川島隆太 『天才の創りかた』 講談社インターナショナル、2004年。ISBN 4770025858
- 川島隆太 『頭をよくする本』 ベストセラーズ、2004年。ISBN 4584159858
- 久保田競 『バカはなおせる』 アスキー、2006年。ISBN 4756147054
- 岩波明 『狂気の偽装 精神科医の臨床報告』 新潮社、2006年。ISBN 4104701025
- 斎藤環 『心理学化する世界』 PHPエディターズ・グループ、2003年。ISBN 4569630545
- 草薙厚子 「「ゲーム脳」の影響はここまで来た!? 女たちはなぜパンツを見せるのか」 講談社、2002年10月23日。
- 岡田尊司 『脳内汚染』 文藝春秋、2005年。ISBN 4163678409
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 原著論文
- ゲーム脳の肯定論者=支持側
- 森昭雄インタビュー
- 携帯メールでも脳が壊れる? 拡大する“ゲーム脳”汚染
- 日本大学ビデオオンデマンドサービス - 「教職員登場・森昭雄教授『ゲーム脳からの解放』」と題された30分の映像が見られる
- 日本健康行動科学会
- ゲーム脳の否定論者=批判側
- 斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖
- 山本弘氏に聞く トンデモゲーム脳の恐怖
- 脳波のなぜ? Q&A - 医療関連の研修やセミナーなどを実施するメディカルシステム研修所のサイト上のコンテンツ。ゲーム脳や実験方法に関する多数の誤りや矛盾・疑問点などを科学的に分析している
- 読冊日記2002年7月下旬 - 東京の精神科医のHP、7月25日、26日に『ゲーム脳の恐怖』批判あり
- 森昭雄『ゲーム脳の恐怖』生活人新書(NHK出版)2002 - 『ゲーム脳の恐怖』の疑問点や論理的飛躍のまとめ
- 「ゲーム脳」とは何か?
- 東京大学教授 馬場章氏インタビュー 後編(ITmedia)
- その他の立場
- 日本大学医学部秦助教授のインタビュー(マスコミの取り上げ方に責任があることを指摘。)