シンザン
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1961年4月2日 |
死没 | 1996年7月13日 |
父 | ヒンドスタン |
母 | ハヤノボリ |
生産 | 松橋吉松 |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
馬主 | 橋元幸吉 |
調教師 | 武田文吾(京都) |
厩務員 | 中尾謙太郎 |
競走成績 | 19戦15勝(2着4回) |
獲得賞金 | 6021万9700円(当時1位) |
シンザン(1961年 - 1996年)は、1960年代に活躍した日本の競走馬・種牡馬。日本競馬史上2頭目、戦後初のクラシック三冠馬。1964年・1965年年度代表馬。1984年に顕彰馬に選出された。八大競走の勝利数から「五冠馬」と呼ばれる。その走りは「鉈の切れ味」と形容された。
注意:特に断りがない限り旧年齢(数え)での表記とする。
目次 |
[編集] 概要
シンザンは戦後期の日本競馬を代表する競走馬で、1964年の日本クラシック三冠馬である。五冠馬という称号もあるが、これは翌1965年に有馬記念、天皇賞(秋)を勝利したために呼ばれている。
デビュー時はあまり目立たず、同厩のオンワードセカンドの方が期待されていた。本格的に頭角を現すのはスプリングステークスでウメノチカラを破ってから、その後クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)、宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念といった当時牡馬が獲得可能なGI級競走を全て制した。この間記録したデビューから引退レースまでの連続連対19は、中央競馬におけるレコードである。「シンザンを超えろ」のキャッチフレーズと共に、この後長らくシンザンは日本競馬の目標であった。
引退後は種牡馬となり、初期にはスピード馬(スガノホマレ、シルバーランド等)、後期にはクラシックホース(ミナガワマンナ、二冠馬ミホシンザン)を輩出、他にも数多くの優駿を送り出した。当時冷遇されていた内国産馬に種牡馬の道を切り開いた種牡馬としての功績も大きい。
種牡馬引退後も、1995年にサラブレッドの長寿記録、1996年に軽種馬の長寿記録を更新するなど最後まで注目を集めた。
[編集] 出自
ハヤノボリの第5子として松橋牧場で生まれたシンザンは血統名を「松風」といい、当時としては高値である320万円で取引された。生まれ故郷の松橋牧場こそ小規模な牧場だったが、父が大種牡馬ヒンドスタン、兄弟にも活躍馬が多数いたことが評価されたのである。生後1ヶ月で調教師の武田文吾に資質を認められたシンザンは、2歳になると育成のため荻伏牧場に移動した。
名前は武田の孫の栗田伸一(のち騎手・故人)から一字をもらい「伸山」としたのが由来で、「新山」「深山」等の異説、誤説もある。京都競馬場の銅像やホッカイドウ競馬のレース名にもなっている「神賛」は武田が後にシンザンを称えこう呼んだ事からきている。ちなみに、「伸山」の「山」は「入厩時から山のようにどっしりと落ち着いていた」からであったという。
このシンザンという名前はシンザンの直仔や孫、ひ孫の名前としてもよく使われ、シンザンミサキ、ミホシンザン、マイシンザン、シンザンの末子となったスーパーシンザンらが知られている。ちなみにシンザンと名付けられた競走馬は他にもいて、1949年生まれの牝馬(父ニシヒカリ)もシンザンである、オーストラリアにもShinzan(1986年生)がいるが現在は国際保護馬名に登録されているためShinzanをそのまま使うことはできない。
また、所有馬主の橋元幸吉はこのシンザンの大活躍から自ら経営しているパチンコ屋を「シンザン」(現Shinzan Hall)と改名し、愛知県名古屋市港区名港一丁目にある名港店のショーウィンドウに銅像や写真、優勝レイを展示していた。後に競走馬を所有する「(株)シンザンクラブ」も設立している。なお、シンザンクラブの冠号はシンザンではなく「メモリー」(以前は「ハシ」)である。
[編集] 現役時代
[編集] 3歳時
京都の武田文吾厩舎に入厩したが、最初武田は名牝ミスオンワードの仔であるオンワードセカンドの方により期待を寄せていた。武田はメイズイの菊花賞挑戦に帯同して京都競馬場に来ていたウメノチカラの調教を見るなり、対戦を避ける形でシンザンのデビューをずらしている。また、阪神3歳ステークスにもオンワードセカンドのみを出走させ、シンザンは出走させていない。厩舎の中でシンザンの実力を認めていたのが騎手の栗田勝で、オンワードセカンドとシンザンのどちらに乗るか問われた際、シンザンに乗りますと即答した。以後栗田はシンザンとコンビを組むこととなり大半のレースを一緒に戦った。
デビューしたシンザンは武田の予想をよい意味で裏切り、そして栗田の予想通り強さを発揮し、無敗の3連勝を飾った。しかし、年が明けて1つの問題に直面する、シンザンは跳びの極めて大きい馬であるため疾走中に前肢と後肢の蹄が交叉(接触)してしまい、これによって蹄から出血を起こしていた。この蹄の問題を解決しなければ、満足な調教を行うことができない。
武田は試行錯誤の末、前脚の蹄鉄には強度を高めるためのブリッジを張り、後ろ脚の蹄鉄にはスリッパのようなカバーを付けた「シンザン鉄」と呼ばれる蹄鉄を考案した。カバーにより蹄が保護されるため、調教がスムーズに行われるようになった。このシンザン鉄は通常の蹄鉄に比べ2倍以上の重量があり調教のタイムが遅くなるといった欠点も抱えていたが、レースでは通常の蹄鉄を使用していたのでレースで問題はなかった。また、この特殊な蹄鉄の重さゆえにシンザンは足腰をさらに強化する事ができたという説もある。なお後の三冠馬ディープインパクトも蹄の問題を蹄鉄の工夫で乗り切っている。
[編集] 4歳時
翌年は順調に勝ち進んだ。年明けシンザンが勝利した京都競馬場のマイル戦は後にクラシックを占うレースとしてシンザン記念と改称されている。関東に遠征したスプリングステークスでは、1番人気ブルタカチホ、阪神3歳ステークス2着馬アスカ、朝日杯3歳ステークスに勝ち前年の最優秀3歳牡馬ウメノチカラ達が出走しており、シンザンは6番人気の評価であったが優勝し、皐月賞へと駒を進めた。皐月賞では1番人気に推され、先行策をとると直線入り口には既に先頭に立ち、猛追するアスカに3/4馬身差をつけ6連勝でまず一冠目を獲得。
続く東京優駿(日本ダービー)に向けて、調教だけでは仕上がらないと主張した武田と、叩き台は不要とした騎手栗田の間に対立があり、東京優駿前にオープンに出走するが2着に敗れ、初の敗北を喫する結果となった。本番の東京優駿では皐月賞同様に1番人気に推され、2番人気はは前走NHK杯でオンワードセカンドを破ったウメノチカラ、3番人気は皐月賞2着馬アスカであった。レースはダイトウリョウが逃げハイペースの展開。中段を進んだシンザンは最後の直線で外から仕掛け、対するウメノチカラは内から追い込み最後はこの2頭の一騎打ちになった。シンザンは直線坂上で一時ウメノチカラに交わされるも、鞭を入れられると再び差し返し、叩き合いを1馬身1/4差制した。3着はオンワードセカンド、アスカは5着に終わった。優勝タイムの2分28秒8は前年のメイズイのレコードから0.1秒遅れの当時史上2位のタイムであり、のちの三冠馬となるミスターシービーや、シンボリルドルフのタイムを上回るものであった。
武田は、シンザンを北海道などで休養に入らせることをせず、京都競馬場で調整することにした。そして、この年は猛暑となり、シンザンは重度の夏負けにかかり、扇風機で馬房を冷やす、氷の柱をつり下げるなど対策を講じた。秋になりオープン、京都杯に出走するが共に2着と連敗した。菊花賞では、古馬相手の毎日王冠2着、セントライト記念1着、オープン1着という成績を残したウメノチカラが1番人気に支持され、シンザンは2番人気だった。菊花賞に出走した二冠馬で1番人気に押されなかったのはシンザンの他には喘鳴症を患い体調不良が明らかであったタニノムーティエのみである。
菊花賞は牝馬クラシック二冠馬カネケヤキの大逃げから始まった。一時は20馬身以上の大差が付いたがウメノチカラが先に仕掛けカネケヤキを交わすと、シンザンは待ってましたとばかりにこれらを大外からまとめて抜き去り戦後初、セントライト以来23年ぶりの三冠を達成した(奇しくもその数ヶ月後にセントライトはまるで自身に次ぐ三冠馬誕生を見届けて満足したようにこの世を去る。)。三冠競走での合計着差4馬身はシンボリルドルフのそれより大きい。三冠達成後の表彰式の会場ではそれを称えてくす玉が用意された。これは前年に三冠に挑んだメイズイのために用意されたものだったが、それを逃したため使いまわされた。
三冠達成後、疲労が抜けずシンザンは休養に入る。回避を表明していた有馬記念でのファン投票は3位で、ウメノチカラ(ファン投票2位)より低かった。
[編集] 5歳時
半年間の休養後、平場オープン競走を4馬身差優勝で復帰すると、もう一戦平場オープン競走を叩き宝塚記念に出走した。天皇賞(春)優勝馬アサホコは回避したが、ヒカルポーラ、バリモスニセイ達を初め出走馬は全て重賞優勝馬だった。不良馬場の中、道中はバリモスニセイが軽快に逃げ、直線に入るとシンザンは最後にはバリモスニセイを交わし勝利した。
5歳時の夏は昨年ほどの猛暑にはならずシンザンの調整は順調に進んだ。そして、目黒記念を63kgのハンデでヤマトキヨウダイらを破り天皇賞(秋)に向かう。天皇賞(秋)の2番人気は10戦9勝2着1回のハクズイコウであった。ハクズイコウはシンザンと同期だがデビューが遅れ今まで対戦することはなかった。レースは前走シンザンに敗れた加賀武見騎乗ミハルカスが大逃げを打ったが、シンザンは2着ハクズイコウに2馬身差をつけ優勝した。
このレースには、後に障害競走で活躍するフジノホマレ、ハクズイコウなども出走していたが、シンザンの単勝支持率は78.3%であった。単勝の配当は100円元返しでGI級レースでの払い戻しとしては他に5例しかなく、ハクチカラ(1957年天皇賞(秋)、85.9%)とディープインパクトの菊花賞(79.03%)次ぐ記録である。
この後、平場オープン競走を一戦はさみ有馬記念に向かった。レースでは松本善登との初コンビで出走した。これは一週前の前走の出走を巡って武田と栗田が対立し、武田博騎乗で2着に敗れたレース振りにショックを受けた栗田が深酒を煽り泥酔、結果として日曜のレースの騎乗が不可能になるという事態を起こしたたためである。それでも1.1倍の圧倒的1番人気で、前年3位だった人気投票も1位となっている。レースはハクズイコウ、ミハルカス、ヤマトキヨウダイらのメンバーが出走した。前走天皇賞(秋)でも大逃げを打つといった策に出ていたミハルカス鞍上の加賀武見(シンザン陣営は加賀にシンザンの騎乗依頼を打診したが断られている)は、終始シンザンをマーク。4コーナーでは、直線でシンザンに内の荒れた芝を走らせるために大きく外に持ち出すという作戦に出た。しかし、シンザンはミハルカスのさらに外の外ラチ一杯に進路を取った。このためシンザンがテレビカメラの視界から消えてしまい、「シンザンが消えた!」という名文句が生まれた。(実際、直線でシンザンを撮影した写真を見ると、シンザンの手前に外ラチが写り込むほど外に回している)シンザンは外ラチ沿いから抜け出し1馬身3/4差で優勝し、このレースを最後に引退した。
有馬記念の勝利でシンザンは日本競馬史上に残る「五冠馬」に輝いた。これはグレード制がない当時、八大競走において牡馬が獲れる全てのレースを制したというものである。この後シンボリルドルフが現れるまで「シンザンを越えろ!」は日本競馬の合い言葉になった。
[編集] 競走成績
年月日 | レース名 | オッズ | 着順 | 距離 | タイム | 着差 | 騎手 | 勝ち馬/(2着馬) | |
1963.11.13 | 京都 | 3歳新馬 | (1人) | 1着 | 1200(良) | 1:13.9 | 4馬身 | 栗田勝 | (ホシツキ) |
11.30 | 阪神 | オープン | (2人) | 1着 | 1400(稍) | 1:25.7 | 2 1/2 | 栗田勝 | (エイブルマン) |
12.14 | 阪神 | 3歳中距離特別 | (2人) | 1着 | 1600(稍) | 1:40.0 | 4馬身 | 栗田勝 | (オークラヤマ) |
1964. 1. 4 | 京都 | オープン | (1人) | 1着 | 1600(良) | 1:42.3 | 2馬身 | 栗田勝 | (ハナビシ) |
3.29 | 東京 | スプリングS | 10.5(6人) | 1着 | 1800(良) | 1:51.3 | 1/2身 | 栗田勝 | (ヤマニンスーパー) |
4.19 | 東京 | 皐月賞 | 2.7(1人) | 1着 | 2000(良) | 2:04.1 | 3/4身 | 栗田勝 | (アスカ) |
5.16 | 東京 | オープン | (1人) | 2着 | 1800(良) | 1:50.8 | 0.1秒 | 栗田勝 | ヤマニンシロ |
5.31 | 東京 | 東京優駿 | 2.1(1人) | 1着 | 2400(良) | 2:28.8 | 3/4身 | 栗田勝 | (ウメノチカラ) |
10.10 | 阪神 | オープン | (1人) | 2着 | 1800(良) | 1:51.6 | 0.1秒 | 栗田勝 | イチミカド |
11. 1 | 京都 | 京都杯 | (1人) | 2着 | 1800(良) | 1:52.1 | 0.2秒 | 栗田勝 | バリモスニセイ |
11.15 | 京都 | 菊花賞 | 2.4(2人) | 1着 | 3000(稍) | 3:13.8 | 2 1/2 | 栗田勝 | (ウメノチカラ) |
1965. 5.29 | 阪神 | オープン | (1人) | 1着 | 1600(稍) | 1:37.7 | 4馬身 | 武田博 | (ヤマヒロ) |
6.13 | 阪神 | オープン | (1人) | 1着 | 1850(良) | 1:53.7 | 1 1/2 | 武田博 | (ヤマヒロ) |
6.27 | 阪神 | 宝塚記念 | 1.3(1人) | 1着 | 2000(不) | 2:06.3 | 1/2身 | 栗田勝 | (バリモスニセイ) |
10. 2 | 阪神 | オープン | (2人) | 1着 | 1850(良) | 1:54.0 | アタマ | 武田博 | (ヒカルポーラ) |
11. 3 | 東京 | 目黒記念(秋) | 2.4(1人) | 1着 | 2500(稍) | 2:42.2 | 1/2身 | 栗田勝 | (ブルタカチホ) |
11.23 | 東京 | 天皇賞(秋) | 1.0(1人) | 1着 | 3200(良) | 3:22.7 | 2馬身 | 栗田勝 | (ハクズイコウ) |
12.18 | 中山 | オープン | (1人) | 2着 | 2000(良) | 2:05.5 | 0.2秒 | 武田博 | クリデイ |
12.26 | 中山 | 有馬記念 | 1.1(1人) | 1着 | 2600(稍) | 2:47.2 | 1 3/4 | 松本善登 | (ミハルカス) |
(レース名の赤字は八大競走、青字は重賞)
- 19戦19連対。連対率100%
[編集] 受賞
- 1964年 年度代表馬、最優秀4歳牡馬
- 1965年 年度代表馬、最優秀5歳以上牡馬
[編集] 身体的特徴
現役時代の出走体重は456-472 kg。中型からやや大型の馬体の持ち主であったが、一般的に好まれるスマートな馬体ではなく、「馬車馬のよう」と形容された様にどちらかといえば無骨な体形であり、武田文吾もデビュー以後活躍するまでは素質を見抜けなかった。競馬評論家の大川慶次郎は「こんな不格好な馬が強いはずがない!」と発言し、シンザンにはついに一度も本命の「◎」印を打たなかった。その他シンザンの特徴を知る事ができるエピソードとして、「ある日、厩舎の外で(何かに)突然驚いたとき、後ろの二本足立ちになりそのまま数十メートル歩いた」(通常、普通のサラブレッドは後ろ2本の脚で立ち上がっても耐え切れなくすぐ降りてしまう)という話が残っている。また、ミスターシービーやディープインパクトのように後ろ足で耳を掻くことが出来たともいわれている。また、二本足で立ち上がるのは機嫌が良い時にも見せる事があり、引退後に牧場で収められた写真は、シンザンの力強さを示すものとして有名である。
[編集] レーススタイルと特徴
決して身体能力がずばぬけていたわけではないようで、事実当初はあまり期待されていた馬ではなかった。しかし、並々ならぬ闘争心があり、最後には絶対に相手をかわす勝負強さがあった。勝ったレースでは相手のペースに合わせて行き、それほど千切らず最後に必ず抜け出すという職人的な勝ち方をすることが多かった。
[編集] エピソード
- 皐月賞前に、シンザンを「炭鉱王」の上田清次郎に売却する話があった。上田はすでに高齢で、どうしても東京優駿(日本ダービー)を獲りたかったためである。結局、武田が猛反対し実現しなかったが、翌年同じ橋元幸吉の持ち馬で東京優駿(日本ダービー)で1番人気に支持されたダイコーターは2400万円で上田に売却されている。
- 三冠後は年内のレースに出走せず、故障でもないのに翌春の天皇賞(春)を回避したことで、「強い古馬との対戦を避けているのでは?」などとマスコミから取材され、武田は「シンザンが走りたくないと言っている」と答えている。なお、1964年の有馬記念はシンザンと同期のウメノチカラがヤマトキヨウダイの4着、翌1965年の天皇賞(春)はアサホコが2着に1.2秒をつけて優勝している。
- GI級レースは宝塚記念を含め6勝しているが、宝塚記念は八大競走に入っていなかったため、シンザンは六冠馬ではなく、五冠馬と称される。
- 4敗のうち3敗は平場オープン競走であったため、平場オープン競走を調整代わりに使っていたとの批判が大川慶次郎などからあった。
- 引退式は初めて東西2場で行われ、東京競馬場では1966年1月9日に、京都競馬場では同年1月16日に行われた。
- 武田は自身が管理し、皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を制したコダマと比較して「コダマはカミソリ、シンザンはナタの切れ味。ただしシンザンのナタは髭も剃れるナタである」と称した。
- シンザンは15勝したが、レコードタイムで勝ったことはなかった。また、調教でもそれほど走らなかった為、無駄な力は使わない、頭の良い馬であった事が伺える。
[編集] 引退後
[編集] 種牡馬時代
引退後は種牡馬となったが、シンザンの初年度産駒がデビューした1968年には種牡馬ランキングトップ20に内国産種牡馬は1頭も入っておらず、シンザンが種牡馬になった後の1970年代は同ランキングトップ10に入った内国産種牡馬はシンザンを含めて2頭のみという状況であった。
このような内国産種牡馬が活躍していない状況で、繋用地である谷川牧場は「儲ける事よりもシンザンの血統を後世に伝える事が重要」と考えシンザンの種付け料は20万円と設定された。そして、初年度と2年目の種付け数は30頭前後であった。そんな中、2年目の産駒のシングンが1972年の金鯱賞を勝ち、これがシンザン産駒の初重賞制覇となる。その後、レコードを5回記録したスピード馬のスガノホマレ、日本で芝2000m2分の壁を初めて破ったシルバーランド等を輩出した。そして、この頃からシンザンの種牡馬としての人気が高まっていった。
1978年の5位を最高に合計7回もサイアーランキングのトップ10に入ったが、クラシック等の大レースを勝つ馬がなかなか出てこず、1974年のスピードシンザン(優駿牝馬2着)、1978年のキャプテンナムラ(菊花賞2着)も後一歩で勝てなかった。1980年には長らく守ってきた内国産種牡馬1位の座をアローエクスプレスに奪われ、トウショウボーイやノーザンテースト等次世代の種牡馬達も活躍し始めた。
この様な状況に陥った理由として、初期の産駒にはスピード馬が多く八大競走を初めとした中長距離の競走には向かなかった事、上級産駒が故障に悩まされた上、不運にも死亡する馬が多かった事が挙げられる。事実、ハイセイコーと同期のブルスイショーは盾取り目前に急逝(調教中の骨折が原因で予後不良)、グレートタイタンも天皇賞直前に心臓発作で死亡している。
しかし、シンザンは高齢で種牡馬成績自体は下降傾向にあったものの種牡馬としての能力に衰えは無く、1981年には初のクラシックホースであるミナガワマンナ(菊花賞)を送り出し、種牡馬ランキングトップ10から消えた1985年には代表産駒となるミホシンザン(二冠馬、他に天皇賞(春)等を優勝)が登場した。
最終的に産駒の重賞勝利数は49勝に達し、この記録はトウショウボーイの43勝を上回り、戦後の内国産馬としては最多である。また、1969年~1992年には産駒24年連続勝利の記録を打ち立てた(のちにノーザンテーストが更新)。
シンザンは1987年に種牡馬も引退。その後のシンザンの後継種牡馬達は、ハシコトブキとミホシンザンが重賞優勝馬を2頭ずつ出すに留まった。現在はスーパーシンザンの産駒とミホシンザンの後継マイシンザンの産駒が数頭走っている程度である。一方母方にシンザンの血を引く馬はハシハーミットやトロットスター、ロジック等がいる。日本以外では前述のトロットスター(母母父がシンザン)が韓国へ輸出、アサヒライジング(母父ミナガワマンナ)がアメリカンオークスで2着に入った。この他特筆すべき事として、馬術競技馬として才能を示した馬も何頭かいた。特にシルバーランドの産駒ミルキーウェイ(競走名シルバータイセイ)は元競走馬として初めてオリンピック出場にまで至った(元競走馬が馬術・障害飛越で日本代表になったのは2006年現在この馬のみ)。
引退後のシンザンを記録したものとしては、冬の牧場で二本足で力強く立ち上がった姿を真横から捉えた有名な写真が存在する。この写真は日本中央競馬会のポスターに用いられたもので、これに添えられた「シンザンを超えろ」のコピーと共に、中央競馬会のPRポスターの最高傑作という声も多い。そして、「シンザンを超えろ」はその後ミスターシービー、シンボリルドルフが登場するまでの長い間、日本の競馬や馬産の世界の合言葉になっていた。
[編集] 晩年
1994年に最後まで現役を続けていたスーパーシンザンが引退し種牡馬としての役割を完全に終えた頃には、同期の馬はシンザンとカネケヤキだけになっていた。その頃初めて倒れ一時危篤に陥ったが関係者らの努力もあり回復している。その後カネケヤキと長寿記録を競い、カネケヤキが1995年9月30日にサラブレッドの長寿記録を塗り替えると(同年10月28日死亡)、シンザンは同年11月19日にそれを塗り替えた。またタマツバキ(アングロアラブの名馬)が持っていた軽種馬の長寿記録も翌1996年5月3日に破るが、同年7月13日午前2時頃、老衰により永眠。35歳3ヶ月11日(旧年齢表記で36歳)の大往生だった。現在までこの記録は破られていない。
死後は盛大な葬儀が行われテンポイント以来の土葬が行われた。土葬が行われた競走馬は他にマルゼンスキー、ナリタブライアン、パシフィカスの3頭しかいない。シンザンの墓は生まれ故郷である北海道浦河町の谷川牧場にあり、この牧場にはシンザンの銅像も建てられている。
[編集] 種牡馬成績
- 産駒数/種付け数 805/1122頭
- 産駒JRA勝ち数 625勝
- 産駒JRA重賞勝ち数 49勝(20頭)
- 産駒GI(級)勝ち数 5勝(3頭、*安田記念含む)
[編集] 主な産駒
- ミホシンザン - 皐月賞、菊花賞、天皇賞(春)他GII4勝 産駒にマイシンザン他
- ミナガワマンナ - 菊花賞、アルゼンチン共和国杯連覇
- スガノホマレ - 日本短波賞、京王杯オータムハンデキャップ、CBC賞、東京新聞杯、レコード勝ち5回。
- グレートタイタン - 京都記念2回、阪神大賞典、金杯(西)、愛知杯
- シルバーランド - マイラーズカップ、愛知杯2回、CBC賞、京阪杯、2000 m2分の壁を初めて破る。
- ハシコトブキ - 朝日チャレンジカップ、京都記念、愛知杯
- ロイヤルシンザン - 安田記念
- キャプテンナムラ - 阪神大賞典、鳴尾記念、菊花賞2着、日経新春杯2着、毎日王冠2着
- フジマドンナ - カブトヤマ記念、福島記念、中日新聞杯、中山牝馬ステークス連覇 40戦して10勝、堅実に走り着外は僅か6回、最終的に2億以上稼ぎ出して当時の賞金女王になった
- シングン 金鯱賞、朝日チャレンジカップ、シンザン記念2着、日経新春杯2着。中京記念2着 シンザン産駒初の重賞馬、シンザン記念でも好走。その後供用2年目で死亡
- シンザンミサキ - 鳴尾記念、愛知杯、高松宮杯2着、天皇賞春3着 愛知杯ではスガノホマレを破った
- ウラカワチェリー - 北九州記念、阪神牝馬特別、函館記念2着、函館3歳ステークス2着
- ゴールデンボート - 京王杯スプリングハンデキャップ
- アサヒダイオー - カブトヤマ記念、天皇賞(秋)3着 アサヒテイオーの全兄、アサヒエンペラーの半兄
- アサヒテイオー - 日経賞 アサヒダイオーの全弟
- ブルスイショー - カブトヤマ記念、クモハタ記念、アメリカジョッキークラブカップ2着、オールカマー2着
- ヒヨシシカイナミ - 愛知杯
- フジリンデン - 北九州記念
- キョウワシンザン - 小倉3歳ステークス 最後の重賞馬
- グレートエコー - 京都大障害(秋)、阪神障害ステークス(秋) 唯一の障害重賞勝ち馬。日本ダービーにも出走した
- スピードシンザン - 優駿牝馬2着
- ハシストーム - 平地障害で計12勝、 日経新春杯2着、中京記念2着 産駒にエントリーストーム
- スーパーシンザン - シンザン最後の産駒。福島TV杯、ストークステークス
[編集] その他
- シンザンが本拠地としていた京都競馬場にはシンザンの銅像と蹄鉄が展示されている他、毎年1月には3歳馬(旧4歳)の重賞競走に同馬の名前を冠した「(日刊スポーツ賞)シンザン記念」が開催されている。また毎年8月には故郷である北海道・浦河で「シンザンフェスティバル」が開かれている。
- 2000年にファン投票で選ばれた20世紀の名馬Dream Horses2000ではシンザンは17,159票を獲得し、7位に選出された。1位ナリタブライアンの得票は37,798票。
- 雑誌「Number」で行われた、競馬関係者による「20世紀の名馬アンケート」では1位に選ばれた。2位は同じ三冠馬シンボリルドルフであった。
- 現在競馬博物館内のメモリアルホール、JRAのページ([1])等では「最強の戦士」という副題で紹介されている。
[編集] 血統
父方についてはヒンドスタン及び、セントサイモン系を参照されたい。牝系は1907年にイギリスから小岩井農場が高額で輸入したビューチフルドリーマー系(参照:小岩井農場の基礎輸入牝馬)に属す名門で、母ハヤノボリも6勝をあげ、半妹に優駿牝馬優勝馬ジツホマレ、甥に皐月賞優勝馬カズヨシがいる良血である。この牝系は他にテイエムオーシャン、メイヂヒカリ等多数の名馬を輩出している。兄弟にも活躍馬がおり、兄にリンデン(全3勝 京都4歳特別、中京4歳特別、4歳抽選馬特別)、オンワードスタン(全9勝 中山記念、アメリカジョッキークラブカップ、天皇賞3着、日経賞3着)、ケンスターツ(全3勝)等が活躍した。活躍した兄達に比べ弟妹はさっぱり走らずチヨノキク(牝系子孫現存)が南関東で2勝をあげた程度でほか4頭は未勝利に終わった。
[編集] 血統表
シンザンの血統 (ボワルセル系/Gainsborough4×4=12.5%) | |||
父
*ヒンドスタン Hindostan 1946 黒鹿毛 |
Bois Roussel | Vatout | Prince Chimay |
Vasthi | |||
Plucky Liege | Spearmint | ||
Concertina | |||
Sonibai | Solario | Gainsborough | |
Sun Worship | |||
Udaipur | Blandford | ||
Uganda | |||
母
ハヤノボリ 1949 栗毛 |
ハヤタケ | *セフト | Tetratema |
Voleuse | |||
飛竜 | *クラックマンナン | ||
*オーフロラ(Yinkari) | |||
第五バッカナムビューチー | *トウルヌソル | Gainsborough | |
Soliste | |||
バッカナムビューチー | *シンモア | ||
第三ビューチフルドリーマー F-No.12 |
[編集] 関連項目
日本の三冠馬 |
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牡馬 |
セントライト | シンザン | ミスターシービー |
牝馬 |
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