三仏寺
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三仏寺 | |
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![]() 投入堂(国宝) |
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所在地 | 鳥取県東伯郡三朝町三徳1010 |
位置 | 北緯35度23分57.55秒 東経133度57分20.74秒 |
山号 | 三徳山(みとくさん) |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来 |
創建年 | (伝)嘉祥2年(849年) |
開基 | (伝)慈覚大師 |
正式名 | 三徳山 三佛寺 |
別称 | |
札所等 | 中国三十三観音霊場31番 伯耆観音霊場29番 |
文化財 | 投入堂(国宝) 文殊堂、地蔵堂、納経堂ほか(重要文化財) 三徳山(史跡・名勝) |
三仏寺(さんぶつじ)は鳥取県東伯郡三朝町にある天台宗の仏教寺院。山号を三徳山(みとくさん)と称する[1]。
開山は慶雲三年(706年)に役行者が修験道の行場として開いたとされ、その後、慈覚大師円仁により嘉祥二年(849年)に本尊釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の三仏が安置されたとされる。[2]
鳥取県のほぼ中央に位置する三徳山(標高900メートル)に境内を持つ山岳寺院である。古くは三徳山全体を境内とした。「投入堂」(なげいれどう)の通称で知られる奥院の建物は、垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた他に類を見ない建築物で、国宝に指定されている。また、三徳山は昭和9年(1934年)7月7日に国の名勝、史跡に指定された。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 伝説時代
草創の時期や事情についてははっきりわかっていない。近世の地誌『伯耆民談記』によれば、慶雲3年(706年)、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ、役行者)が子守権現、勝手権現、蔵王権現の三所権現を祀ったのが始めとされている。役小角は伝説的要素の多い人物であり、この伝承を文字通り信じることはできないが、三徳山(近世以前は「美徳山」と書くことが多い)は、同じ鳥取県所在の大山(だいせん)や船上山と同様、山岳信仰の霊地として古くから開けていたことが想像される。なお、子守権現、勝手権現、蔵王権現はいずれも奈良県の吉野山(修験道の霊地)に祀られる神である。前出の『伯耆民談記』によれば、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁が釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三仏を安置して「浄土院美徳山三佛寺」と号したというが、この説も伝承の域を出ないものと思われる。
[編集] 中世以降
平安時代末期頃までの寺史はあまりはっきりしていないが、現存する奥院(投入堂)の本尊・蔵王権現像の像内に納められていた文書には仁安3年(1168年)の年記があり、奥院の建物自体も様式上平安時代後期にまでさかのぼるもので、この頃には山岳修験の霊場として寺観が整っていたものと思われる。中世以降、文書、記録等に「美徳山」の名が散見されるが、「三佛寺」の寺号が文献に現われるのは江戸時代中期以降である。
近世に入って、慶長4年(1599年)には近隣の坂本村(三朝町坂本)のうち百石が三仏寺に寄進され、寛永10年(1633年)には鳥取藩主池田光仲から百石を寄進。これらの寺領は幕末まで維持された。天保10年(1839年)には池田斉訓が本堂を再建するなど、近世を通じて鳥取藩主の庇護を受けた。
[編集] 境内の特徴
伽藍は山下と山上に分かれる。山下には本堂、宝物殿のほか輪光院、正善院、皆成院(かいじょういん)がある。かつては多くの子院が軒を連ねたというが、現存するのは上述の3箇院のみである。現存する3つの子院は宿坊を併設しており、宿泊が可能である。
[編集] 投入堂への道
奥院である投入堂へは、本堂裏手の登山事務所で入山受付を行う必要がある。三仏寺拝観料とは別にここで入山料を支払い入山届に記入した上、貸与された「六根清浄」と書かれたたすきを身につけ、すぐ裏の宿入橋から山道を登ることになる。この時に登山に不適当な服装や靴を着用している者は入山を拒否されることがある。なお、下山時にたすきを返納し下山時間を入山届に記入することにより、入山者の下山の確認を行い不慮の事故に備えている。
投入堂へ向かう途中には野際稲荷、文殊堂、地蔵堂、鐘楼堂、納経堂、観音堂、元結掛堂、不動堂などが建つ(文殊堂、地蔵堂、納経堂は重要文化財、他は鳥取県指定保護文化財)。いかにも山岳信仰の中心地らしく、山の麓から投入堂までの道程のうち、特に麓から鐘楼までは、起伏に富んだ自然の山道がほとんど改良されることなく、以前のままの状態で残されているため、非常に過酷な部分が多い[3]。本堂裏の宿入橋からの高低差200メートル、全長ほぼ700メートルの行程は全て難所と言ってよく、ところによっては鉄の鎖やロープ、時にはむき出しになっている木の根だけを頼りにしがみついてその都度足場を確保しながら登ることになる。鐘楼から納経堂の間にある「牛の背」「馬の背」と言われる、かつては両側を断崖絶壁に挟まれた岩場をバランスを取りながら渡った難所は、現在は改良が施されそれほどの難所とは言えなくなった。納経堂からは難所もなくなる。なお、難所は下りの方がはるかに通過困難になることは留意すべきである[4]。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
[編集] 投入堂
- 奥院(投入堂)- 平安時代。附(つけたり):愛染堂、棟札、古材(43点)
国宝指定名称は「三仏寺奥院(投入堂)」。流造、檜皮葺き、正面一間、側面二間の建物で、正面と右側面に高欄付きの縁をめぐらす。三徳山の北側中腹の断崖絶壁のオーバーハングした岩窟の中に、絶妙なバランスで建てられており、左隣に付属する愛染堂、棟札1枚、古材43点とともに国宝に指定されている。参拝者は投入堂をはるかに見上げる地点までは立ち入りができるが、堂に近付くことは危険なため固く禁止されている。投入堂に近付こうとして滑落死した者もいるという。投入堂の写真を見れば明らかなように、堂の正面・側面のいずれにも入口らしきものはなく、特別に許可されて入堂する者は、崖伝いに堂の床下を通って縁に這い上がるしかない。
蔵王権現を安置するための堂であるが、屋根形式は神社本殿に多く見られる流造(切妻屋根の正面側の軒を長く伸ばし、側面から見ると「へ」の字形に見える屋根形式)で、形態的には神社建築である。内部には7体の木造蔵王権現立像(いずれも重要文化財)を安置していたが、これらは山下にある宝物殿に移されている。
日本建築史上他に例を見ない特異な建造物であるとともに、屋根の軽快な反り、堂を支える長短さまざまな柱の構成など、建築美の観点からも優れた作品である。建造時期については、様式上平安時代後期と言われてきたが、確実な史料がなく、修験道の開祖、役小角がその法力でもって建物ごと平地から投げ入れたという伝承が語り継がれていた(「投入堂」の名称はこの伝説に由来する)。2001年(平成13年)~2002年(平成14年)に奈良文化財研究所により行われた、年輪年代測定法による研究調査の結果、内部に安置されていた木造蔵王権現立像ともども、平安時代後期に当たる11世紀後半に伐採された木材が使用されていることが判明。そのことから建造時期もほぼ同じ頃と推定され、現存する神社本殿形式の建築物では日本最古級のものであることが科学的にも裏付けられた。ただし建立のくわしい経緯までは現時点で明らかになっていない。創建以来たびたび修理され、多くの部材が取替えられている。2006年には屋根葺き替えを主とする保存修理が行われた。
2001年6月1日より、投入堂のある三朝町や鳥取県の主導で、ユネスコの世界遺産への登録を目指す活動が開始された。
投入堂を近くから見るためには、前項にあるように厳しい山道を辿る必要があるが、麓の車道からも投入堂を遠望できる場所があり、「投入堂遥拝所」として駐車場や無料の望遠鏡が完備されている。
[編集] 重要文化財
- 文殊堂
- 室町時代後期。入母屋造、杮(こけら)葺き。奥院への道筋の山中に建つ。内部は通常非公開だが、2006年に草創1,300年を記念して地蔵堂とともに公開された。従来桃山時代の建築とされていたが、新たに永禄10年(1567年)の墨書が堂内から見出されたことから、建築年代は若干上がるものと思われる。
- 地蔵堂
- 室町時代後期。入母屋造、杮(こけら)葺き。奥院への道筋の山中に建つ。
- 納経堂
- 平安時代後期。鎮守神を祀った春日造の小社を流用したもの。従来鎌倉時代の建築とされていたが、用材の年輪年代測定の結果から、平安時代後期にさかのぼることが判明した。
- 木造蔵王権現立像
- (もと奥院安置)- 投入堂正本尊で、現在は宝物殿に安置される。右足を高く上げ、焔髪を逆立てる典型的な蔵王権現像であるが、忿怒の表情は控えめで、全体に平安後期彫刻特有の穏やかな作風になる。像内納入文書に仁安3年(1168年)の年記がある。
- 木造蔵王権現立像 6躯
- 投入堂に上記の正本尊像とともに安置されていたもの。6躯の形態や作風はそれぞれ異なっているが、いずれも正本尊像よりは素朴な作風になる。
- 木造十一面観音立像
- (もと観音堂安置) - 重要文化財指定名称は「木造聖観音立像」。頭上の十一面が失われているが、元来十一面観音像として造立されたものである。
[編集] 鳥取県指定保護文化財
- 本堂 - 江戸時代後期
- 十一面観音堂(野際稲荷) - 江戸時代中期
- 鐘楼堂 - 鎌倉時代の部材を残す。
- 観音堂 - 江戸時代前期
- 元結掛堂 - 江戸時代前期
- 不動堂 - 江戸時代後期
[編集] 札所
- 中国観音霊場第三十一番
- 伯耆観音霊場第二十九番
[編集] 所在地
〒682-0132 鳥取県東伯郡三朝町三徳1010
[編集] 交通アクセス
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
「三徳山・三仏寺」……公式ページ
「三徳山・投入堂を世界遺産に!」……三朝町役場による解説ページ
[編集] 注釈
- ^ 宗教法人としての名称は正しくは「三佛寺」であるが、本稿では引用部分を除き「三仏寺」を用いる。
- ^ 三徳山三佛寺の縁起(三徳山三佛寺公式ページ)による。
- ^ そのためか写真家の土門拳は、自身の著作の中で「投入堂は素晴らしいが、二度と行きたくない」とこぼしている。
- ^ 山歩きに不慣れな者や、運動能力に自信のない者は参拝を再検討した方が無難である。本堂裏の登山事務所では、登山に不適当な靴を履いて来た参拝者のために有料でわら草履を貸してくれるが、あらかじめ汚れてもかまわないような動きやすい服装や登山に適した靴、岩や木の根を掴むための手袋、登山道には水場がないために水筒等の装備を準備しておいた方がいい。