稲荷神
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稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本の神。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名で親しまれる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼び、日本各所にある稲荷神社の総本社は京都市伏見区にある伏見稲荷大社である。
稲荷神は、宇迦之御魂神(うかのみたま。倉稲魂命とも書く)などの穀物の神の総称であり、宇迦之御魂神の他、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などとされている。
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[編集] 概要
日本にある稲荷神社は2万社とも3万社とも言われており、屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものまで入れると稲荷神を祀る社は無数と言って良いほどの数になる。江戸時代には、江戸に多い物として「火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞」というはやり言葉があったほどである。本来は穀物・農業の神であるが、現在は産業全般の神として信仰されている。
伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。 稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)される前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)2月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。
諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化したという記録があるが、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられている。
雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろう。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神を鼎立した。
深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようだ。
[編集] 歴史
全国の稲荷神社の総本社は、京都市伏見区の稲荷山の西麓にある伏見稲荷大社である。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神であり、現存する旧社家は大西家である。また江戸後期の国学の祖、荷田春丸を輩出した荷田家も社家である。(荷田東丸は,稲荷社祠官,羽倉家の生まれで,僧契沖に始まる近世国学(和学 倭学)を発展させて,「万葉集,古事記,日本書紀」研究の基礎を作った。門下に賀茂真淵がおり,続く本居宣長,平田篤胤と共に,国家の四大人といわれた。)
『山城国風土記』逸文には、伊奈利社(稲荷社)の縁起として次のような話がある。秦氏の祖先である伊呂具の秦公(いろぐのはたのきみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが神名となった。伊呂具の秦公はその稲の元へ行き、過去の誤ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。 また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。
都が平安京に遷都されると、元々この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに稲荷信仰が全国に広まることとなった。
稲の神であることから食物神の宇迦之御魂神と同一視され、後に他の食物神も習合した。中世以降、工業・商業が盛んになってくると、稲荷神は農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神ともされるようになり、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになった。
明治の神仏分離の際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神話に登場する神を祀る神社になったが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になった。
[編集] 稲荷神と狐
宇迦之御魂神は別名「御饌津神」(みけつのかみ)と言う。狐の古名を「けつ」と言い、御饌津神を「三狐神」と解して、狐が稲荷神の使い、あるいは眷属であるとされた。狐を稲荷神の使いとする民間信仰は、中世より始まったものである。後に、狐が稲荷神そのものであると誤解されるようにもなった。
稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物とされる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。
[編集] 信仰
稲荷神社では、2月の最初の午の日に「初午祭」が行われる。これは、伏見稲荷神社の祭神が降りたのが和銅4年(711年)2月の初午であったからと言われる。これに際し東京では、行灯に地口とそれに合わせた絵を描いた地口行灯を街頭に飾ることがある。
稲荷神には大別して2系統あり、片方は伏見稲荷大社などに祀られる稲荷神(豊川稲荷、篠村八幡宮、祐徳稲荷神社等)。もう一つは狐神として祀られ庶民の間から派生した稲荷神である。
[編集] 三大稲荷
いくつかの稲荷神社や稲荷を祀る寺院では、「当社は日本三大稲荷の一つ」ということを宣伝文句としている。しかし、それらの内容は寺社によって異なっている。
大日本史等の歴史書や稲荷信仰事典では、総本社の伏見稲荷大社のほか豊川稲荷、祐徳稲荷神社を日本三大稲荷としている。その他の文献には笠間稲荷、竹駒神社、最上稲荷などが候補に上がる。尤も、総本社である伏見稲荷大社では、「三大稲荷は地域により異なる」として、三大稲荷の3社を限定することはしていない。
更に豊川稲荷は妙厳寺という寺院であり、仏教伝来の荼枳尼天は、伏見が祭神とする宇迦之御魂神とは系統が全く異なる。よって、伏見、豊川と並ぶという宣伝文句は全国的な知名度だけで自分の稲荷神社を同格と見做す宣伝行為と見て取れる。しかし、これらの神社は実際、地元に深く信仰が根付いているのも事実であり、地元では決して伏見に負けない知名度である(むしろ、伏見から勧請した稲荷信仰がしっかりと根付いている)という郷土の誇りの表れと見做すこともできる。
以下に、日本三大稲荷とされている寺社の一部と、各寺社が他の2つを何としているか挙げる(「不明」は他の2つの名を挙げていないもの)。
- 祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市) - 伏見、最上
- 豊川稲荷(愛知県豊川市) - 伏見、祐徳
- 笠間稲荷神社(茨城県笠間市) - 伏見、祐徳
- 最上稲荷最上稲荷教総本山妙教寺(岡山県岡山市) - 伏見、豊川
- 竹駒神社(宮城県岩沼市) - 伏見、笠間
- 鼻顔稲荷神社(長野県佐久市) - 伏見、豊川
- 千代保稲荷神社(岐阜県海津市) - 伏見、豊川
- 瓢箪山稲荷神社(大阪府東大阪市) - 伏見、豊川
- 草戸稲荷神社(広島県福山市) - 伏見、豊川
- 太鼓谷稲成神社(島根県津和野町) - むしろ、当社は五大稲荷を名乗っている。五大とは伏見、笠間、祐徳、竹駒、そして太鼓谷といわれる
- 高橋稲荷神社(熊本県熊本市) - 不明
他に、以下の稲荷社もその名が知られている。
列挙すればこれだけであり、更に細分化されたものでは、関東三大稲荷や九州三大稲荷などきりがない。実際、現在別表神社として格が認められているものは、志和稲荷神社、竹駒神社、笠間稲荷神社、箭弓稲荷神社、太鼓谷稲成神社、祐徳稲荷神社、高橋稲荷神社のみであり、これらが特に影響力を持っていた稲荷社であったと推測できる(尤も、旧官社は伏見のみで、あとは県社、郷社であった。また、伏見稲荷は神社本庁との被包括関係にないため、別表神社ではない)。
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