大久保博元
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大久保 博元(おおくぼ ひろもと、1967年2月1日 - )は、元プロ野球選手。現役時代は西武ライオンズ・読売ジャイアンツに所属した。ポジションは捕手。1995年限りで現役を引退後、タレント(芸名=デーブ大久保)、野球解説者(フジテレビ、ニッポン放送、サンケイスポーツ)、プロゴルファー。愛称は「デーブ」「ブーちゃん」。
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[編集] 来歴・人物
1984年のドラフト会議で西武から1位指名され入団。入団当時から長打力には定評があったが当時は絶対的な正捕手伊東勤がおり、さらに守備に難がある上に太りすぎの体格も「自己管理能力の欠如」として広岡達朗監督に評価されなかった。広岡の後を継いだ森祇晶監督には守備に関しては評価されず、主に代打要員としての出場だった。1992年途中中尾孝義捕手との交換トレードで巨人に移籍、すぐに藤田元司監督の下で正捕手となり、ホームランを15本放つなど活躍、最下位だったチームを優勝争いに加わらせた。(特に前半戦は当時の絶対的ストッパーの石毛博史投手とのコンビで大車輪の活躍で、前半戦終了時に特例の報奨金が球団から贈呈された。)
また阪神タイガースの亀山努外野手とともに、その年一番の人気者となり、移籍直後の6月には月間MVPにも選ばれた。翌1993年には長嶋茂雄監督が就任。序盤戦には本塁打王争いに加わるなど活躍したが、5月下旬に左腕を骨折し9月まで戦線を離脱した。そして、10月になってようやく復帰し復帰初戦では4番に抜擢された。翌日の試合にも4番を打ったが、大久保が4番を打ったのはこの2試合のみだった(その時の守備位置は一塁手)。また、ひとたびホームランを打つとなると田淵幸一を彷彿とさせる滞空時間の長い放物線を描き、大いに観客を沸かせた。
1994年からは村田真一が正捕手の座を取り戻したが、西武在籍時にアメリカ野球留学をしていて英語が話せるためレギュラーではなくなってからも、外国人投手が先発する時は捕手としてスタメン出場することが多かった。しかし、高校生以下と言われたリードとキャッチングが原因で投手陣からの不満が噴出した。特に桑田や香田との相性が悪く、桑田は自分が登板の時は村田に変更して欲しいと直訴したほど。香田はあまりにもの酷さに大久保を怒鳴りつけた事がある。太りすぎから来るひざの故障などもあり1995年、28歳の若さでユニフォームを脱いだ。
ゴルフが趣味で、引退後はゴルフを満喫している。2001年に日本ゴルフツアー機構のクオリファイングトーナメントの一次を通過し、スポンサー推薦枠でツアートーナメントに出場する。しかし、ツアートーナメントに出場はするも予選落ちを繰り返し、日本ゴルフツアー機構主催競技の生涯獲得賞金は0円である。出身地にある大洗ゴルフ倶楽部で行われた2003年のダイヤモンドカップトーナメントでは、初日88ストローク、二日目90ストロークとトータル34オーバーで最下位の140位で予選落ちした(首位とは41打差、139位には17打差)。
現在はフジテレビ、ニッポン放送の解説者(1996年~)。プロ野球中継の解説やプロ野球ニュースのキャスターを歴任し、現在に至る。著書に「デーブ大久保の一発逆転」がある。尚、芸名の「デーブ」は、ベーブ・ルースの様に飛ばすこととデブをもじった名前で、西武2軍時代から愛称として定着している。西武時代に米マイナーに野球留学した際(1986年)に、英語名の愛称をつける際に「デーブ大久保」と名乗ったとされている。同時に渡米した横田久則投手は「久則」を中国語では「ジョージ」のような発音になる、ということで「ジョージ横田」と名乗っていた。
解説時、くだけた語り口や表現をよく使うので、その親しみやすさを支持する人がいる一方、批判する人も多い。自分が在籍した球団への贔屓、関係者にしか分からないような内輪的な発言が目立つのも事実である。
[編集] 経歴
- 出身地 茨城県東茨城郡大洗町
- 球歴・入団経緯 水戸商高 - 西武ライオンズ(1985年-1992年途中) - 読売ジャイアンツ(1992年途中-1995年)
- プロ入り年度・ドラフト順位 1984年・ドラフト1位
[編集] 通算成績
[編集] 背番号
- 45 1985年~1992年途中
- 22 1992年途中~1995年
[編集] 発言など
- 巨人在籍時には、よく宮本和知とのコンビでバラエティ番組に出演した。2人で日本テレビの夜も一生けんめい。に出演して歌を披露したこともある。
- 仕えた監督(広岡達朗、森祇晶、藤田元司、長嶋茂雄)はすべて巨人OBである。
- 1995年7月、福岡ドームにて行われた、日本の球団に所属する外国人選手選抜チームと日本人選手選抜チームが対戦した「チャリティードリームゲーム」において、外国人選手に捕手がいなかった(その年に日本ハムには捕手経験のあるティム・マッキントッシュがいたが、オールスター前に解雇された)為、語学力を買われて外国人チームに入れられた。登録名は「デーブ」。なお、その試合の監督は、同年ロッテを率いていたボビー・バレンタイン。もう一人の捕手として、当時ロッテの正捕手だった定詰雅彦が「ジョー」の登録名で出場した。
- 入団当時の広岡監督やその後を継いだ森監督に評価されず、西武で2軍暮らし・ブルペン生活をしていた大久保を巨人移籍直後から励まし活躍の場を与えてくれた藤田元監督には相当恩義を感じているようで、2006年2月9日、藤田が亡くなると真っ先に弔問に駆けつけ、「本当にありがとうございました」と号泣しながら恩師に何度も頭を下げた。西武時代、首脳陣から太りすぎを指摘され腹一杯食べることを控えていたが、巨人移籍後のキャンプで藤田が「おい、そんなんで足りるのか」と声をかけ、料理人に「こいつにステーキ2枚焼いてやってくれ」と言ってくれたことが、私淑のきっかけと語っている。
- 入団当時の監督だった広岡達朗に「大久保は太りすぎだから自己管理能力がなってないんです。彼の体格なんて大相撲の力士ですよ。野球選手、あるいはスポーツ選手として失格ですね」と発言されたことを根に持っているため、テレビ番組などで広岡を批判している(しかし広岡は大久保のバッティングを高く評価しており、彼の背番号をかつてライオンズで主砲として活躍した中西太にちなみ6に変更しようとしたという)。
- とはいえ、今ではこう発言している。「僕が監督でも伊東さんを使うでしょう。けど、現役やってるときはそうは思わないんだよなぁ・・・」
- 現役時代、何が一番堪えたか、と聞かれ「阪神甲子園球場で自分が打席に入ったときに『ブタ』と野次られたこと」と言っていた(関西では肥満体質の人のことを指して『ブタ』と言うことが多い)。太っているから「デブ」と言われることは許せても、「ブタ」はないだろう…というのが本音。ちなみに1999年11月21日に大阪ドームで行われた近鉄と巨人のOB戦では、当時金鳥「ゴキブリキャッチャー」のCMに出演していたこともあって、近鉄ファンから「早くゴキブリと代われ!」「お前以外はONもゴキブリか?」などと野次られた。
- 高校時代は母親にもらったお金でソープランドで遊んだなどとテレビで発言。
- 西武入団当初は田舎者と思われないようにしていたらしい。しかし、レストランで同行者がドリアを注文した所、当時ドリアを知らなかった大久保はライスを付けて注文しようとした。
- 現役時代、遠征先で試合後繁華街に出て食事中、酔っ払いに絡まれ本気で喧嘩になりそうなことがあった。この時一緒にいた吉村禎章とともに酔っ払いに殴り飛ばされタクシーに放り込まれ退散し、大事に至らなかった。タクシーの車内で吉村に「もっと効き目のある水晶付けておけ」と言われる。
[編集] 関連項目
[編集] 現在の出演番組
- BASEBALL SPECIAL~野球道
- SWALLOWS BASEBALL L!VE
- すぽると!(プロ野球コメンティター)
- ニッポン放送ショウアップナイター
[編集] 外部リンク
- デーブカンパニーLtd.(個人芸能事務所)
- デーブ大久保のDAVEな日記
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