京成2100形・210形・2000形電車
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2100形・210形・2000形電車(2100がた・210がた・2000がたでんしゃ)は、かつて京成電鉄に在籍していた通勤形電車である。
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[編集] 概要
本稿では、最後の「青電」形式として残った2100形2101~2109、210形210~219、2000形2008の20両を対象に記述する。
これら20両は、1967年(昭和42年)の210形更新により下記の4両編成5本に組み替えられた後、1980年代に入りファイアーオレンジの「赤電」塗装に変更され、1987年(昭和62年)9月~1988年(昭和63年)3月の廃車時まで使用した。これらをまとめて、「210系」と呼ばれた。
[編集] 1968年(昭和43年)以降の編成表
1967年の210形210~219の車体新製やカルダン駆動化の更新により、2100形2101~2109・2000形2008号を制御車とした以下の編成が組まれた。( )内は廃車年月
←上野
- 2102-211-212-2101 (1988年3月廃車)
- 2104-213-214-2103 (1988年3月廃車)
- 2106-215-216-2105 (1988年1月廃車)
- 2108-217-218-2107 (1988年2月廃車)
- 2008-219-210-2109 (1987年9月廃車)
編成名は上野方先頭車を基準に「2102編成」、「2104編成」などと称した。
[編集] 各形式車両の詳細
各形式とも、新規製造時期や更新時期等が異なり、まず各形式の詳細を紹介する。
[編集] 210形
1932年(昭和7年)に200形の増備車として製造され、車体両端に運転台をもつ吊り掛け駆動車だった。210のみ1961年(昭和36年)に、1935年(昭和10年)製の500形510と車両番号を交換したため、経緯は異なっていた。
210~219は1967年に運転台をもたない完全中間電動車として更新された。台枠を再用し車体を新製、カルダン駆動化、台車変更を含めた更新が行われた。車体はリベットなしの普通鋼製となり、客室の窓配置は扉間4か所の片引き扉車で、17m級車体であるものの、近時期に製造された3150形や3200形に極力近付けた仕様になった。
室内は、デコラは貼らず壁面はベージュ、天井面は白に塗装、網棚より上は天井同様に白に塗装された。座席の袖仕切は3200形同様にU字タイプのパイプ式になった。送風機は、三菱電機製の首振扇風機を設置し、背面に通気孔を設けた他、車端部に円形の通気孔を設けた。
足回りも、ほぼ完全新製となった。駆動装置・台車・主電動機の組み合わせは、213・214・217・218はTDカルダン・住友金属工業製FS-365A・東洋電機製造製TDK-816/1Bであり、210・211・212・215・216・219はWNカルダン・住友金属工業製FS-365・三菱電機製MB-3021であった。主電動機出力は両者ともに110kW。ブレーキ装置は750形や3000形以降のカルダン車で採用された発電ブレーキ併用電磁直通空気ブレーキとは異なり、自動空気ブレーキのままで存置され、発電ブレーキは装備されなかった。
[編集] 2100形・2000形
2100形は、1952年(昭和27年)7月に2101~2106が落成し、1953年(昭和28年)5月に2107~2111が落成した。製造メーカーは汽車製造と帝國車輛工業であった。 戦後初めての本格的な車両として登場した片運転台制御車で、ノーシル・ノーヘッダー屋根、鋼板プレスドア、前面貫通幌の設置、通路幅700mm、角型グローブ室内灯搭載等、後に続く車両にも引き継がれた点が多かった。車体は半鋼製である。台車は汽車製造製K-104で、制御車ながらパンタグラフを装備し、電動空気圧縮機(DH-25)を搭載していた。
1956年(昭和31年)に2110・2111は700形と組んで、上野方から706-2111-2110-703の編成とされた。
全車とも、1962年(昭和37年)9月~1964年(昭和39年)6月に車体が全金属化され、同時に室内照明が蛍光灯に変更され、三菱電機製扇風機が設置された。
1967年以降、2101~2109は更新・カルダン駆動化後の210形の制御車として、車両番号順に両端に配置された。1971年(昭和46年)に前照灯のシールドビーム上部左右2灯化、前面幌の撤去等の更新がなされ、正面スタイルは赤電形式の3100形に近くなった。室内についても、壁面にベージュ色デコラが貼付された。
更新から4~5年後の1975年(昭和50年)前後に台車をKS104から2250形の廃車発生品であるKS110に変更したほか、空気圧縮機をDH-25からC-1000に変更した。
2110・2111は700形とともに、1974年(昭和49年)に新京成電鉄に譲渡され、1985年(昭和60年)6月に廃車された。
2000形は1948年(昭和23年)~1950年(昭和25年)に第二次世界大戦で被災した国電の払い下げを受け、復旧した制御車である。種車は国鉄モハ30形、クハ65形、サハ39形等の17m級車だった。 2001~2016が導入され、うち2008のみカルダン駆動化後の210形と編成を組むことになった。同車は1961年に全金属車体化の上室内照明の蛍光灯化、三菱電機製扇風機設置、1971年には2100形2101~2109同様に前照灯のシールドビーム2灯化等の更新が行われた。同車は、屋根上には何も搭載されず、通風器(ベンチレーター)は側面上部埋め込み式といった点が特徴だった。
[編集] 更新後、1972年(昭和47年)以降の動向・改造等
1975年頃に、全車の客室側扉を、鋼製で窓ガラス支持方式が黒Hゴムのものから、アルミ製でHゴム支持を廃したもの(室内側は壁面同色に塗装)に変更した。
更新直後は、上野~千葉(現・千葉中央)間の快速等に使用されることもあった。しかし、750・2250形の青電初期カルダン車が消滅した1974年(昭和49年)以降、発電ブレーキを装備しない青電形式は、4両特別運用枠に入り運用(一部急行・特急等優等運用もあった)。成田空港駅が開業した1978年(昭和53年)5月以降は、青電専用の4両特別運用枠は普通運用必須となり、以後青電形式が優等運用に就いた実績は、ダイヤ乱れ時を含めない。
1980年(昭和55年)2月の2106編成を皮切りに、青電塗装から赤電形式(3000形~3300形)同様にファイアーオレンジにモーンアイボリー帯への塗装変更を開始した。尚、帯部分はカラーフィルムタイプで、赤電形式特有のステンレスの縁取りは省略した。塗装変更は1981年(昭和56年)10月の2104編成を最後に完了した。その間、1980年3月末に釣掛車500形・200形は青電塗装のまま全廃されたことと、行商専用車に使用された700形3両が1981年度末(1982年3月頃までに)で除籍されてから青電形式は以上の20両のみになった。よって、青電塗装の一般営業車は消滅した。500形・200形の全廃に伴い、京成は関東地方の大手私鉄で最初に営業用車両全車のカルダン駆動化を達成した。
塗装変更後も、本線・金町線・千葉線普通に4両特別運用枠(普通B速度)で使用された。自動ブレーキで加速性能も、3000番台各形式より劣るため、ラッシュ時に使用される機会は少なくなっていた。
軽微な改造としては、1984年(昭和59年)9月~1985年11月に側面客用扉開閉確認灯が2灯化され、ケースも円形のものから一体化されたカプセル形とされた事、それと前後する形で室内のアルミ製塗装仕上の乗務員仕切扉窓支持方式が、黒Hゴムから金属押さえ金に変更された。
1984年秋に2109のみ側面客用扉をステンレス製のものに交換した。
[編集] 廃車
1987年9月、3600形3638編成の代替として2008編成が廃車になった。これをもって、2000形は2100形・210形に先立ち形式消滅となった。京成在籍車両の廃車は、行商専用車で1982年1月末に廃車になった704・2203以来5年半振りであり、一般営業車としては前述の500形・200形以来7年半振だった。1988年(昭和63年)1月~3月に3600形6両編成3本(3648編成~3668編成)18両が入線し、それと替わる形で、2100・210形4両編成4本は順次廃車された。そのうち、2102編成は青電塗装に戻され、1988年3月25日から31日にかけて '2100・210形さよなら運転'を行った。その後2102編成は留置され続けたが、1990年春に2101号車のみ再塗装が成され、他の3両は1990年夏に解体した。2101号は保存車対象としてしばらく留置していたが、用地の関係上同車は保存車の対象から外れ1995年(平成7年)秋に解体した。またそれとは別に、215・216が、1981年7月に廃車された1600形アルミ車1602と共に倉庫代用として使用され、210形2両はファイアーオレンジ塗装のまま使用したが、2001年にホワイトに塗装した。雨ざらしの為陳腐化も著しかったうえ、工場内に別途倉庫を設けた為、2005年(平成17年)春に、1600形1602を含み3両共に解体した。
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