初島
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初島(はつしま)は静岡県熱海市の島。静岡県唯一の有人島であり、伊豆半島東方沖の相模灘に浮かぶ。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。
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[編集] 地勢
- 面積 0.437平方キロメートル
- 周囲 約4キロメートル
- 最高地点 51メートル
- 熱海市本土から南東に約10キロメートルの位置
- 人口 243人(2006年9月30日現在・住民基本台帳)
[編集] 概要
[編集] 歴史
島内から縄文時代の遺跡が発見されており、古くから人の居住があったと考えられている。鎌倉時代にも源実朝が「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」と詠んでおり(金塊和歌集)、風光明媚で知られていたことが伺える。
明らかな記録では南北朝時代の観応2年(1351年)に18戸の家があった。古くから島の産業は漁業と農業で、現存する記録では天明2年(1782年)に江戸の魚市場に魚を売った記録帳がある。(出典:水産総合研究センター中央水産研究所所蔵資料)江戸時代から島内の戸数は41戸前後で天保元年(1830年)に41戸との記録があり、この戸数が現在まで続いている。島内の耕作地や生活用水が限られることから次男以下は島を出て、男子がいない場合は婿を取り、41戸と一定の人口を維持するという慣習があった。島内に由来がある家系ではこの慣習が受け継がれてきたが、近年では長男以外のものが後継ぎになる例もある。島の生活は共同体であり、耕作地や漁獲は等分に分けられていたという。(下記の与謝野晶子の紀行文参照)
江戸時代中期以降は熱海が温泉場として発展したが、初島は長らく沖の小島として旧来の姿を守っていたと考えられている。幕末の混乱期には一時期伊庭八郎が匿われたとの資料がある。明治に入り明治14年(1881年)に熱海までの県道が通じ、温泉場として発展するとともに、初島にも徐々に開明の波が及び明治19年(1886年)10月には熱海尋常小学校初島分教場が開校している。
大正2年(1913年)1月24日に幼少の昭和天皇が校外学習で海軍の水雷艇で来島し植物採集をしている。
大正10年(1921年)1月に与謝野晶子が島を訪れ「初島紀行」という作品を書き、和歌を詠んでる。(以下引用)
- 行く人の稀な島へ特に船を雇つて出掛けると云ふのは、我れながら醉興なことだと思ひました。
- 初島へ行くには土産を持つて行く慣例であると宿の番頭から聞いて居たので熱海の鹽瀬の店で、五人が出し合つて、十圓の駄菓子を大きな五つの袋に詰めて貰ひました。
とあり、未だ初島は「観光地」という認識ではなく、古くからの集落によそ者が訪れるという趣であったことが伺われる。
- 島の戸數は現在四十一戸です。以前は四十三戸であつた相です。それ以上殖やすことの出來ない不文律が昔から行はれて居て、二男以下の子女はすべて他國へ行つて職業を求めます。島の土地が其等の人口を養ひ得ないからです。土地は昔から四十餘戸へ殆ど平分されて居て、その耕作は共同的であり、相互扶助の理想が自然の必要から實現されて居ます。食料と薪炭とは米を除いて自給自足の状態を繼續して居ます。米は夏期の雨が乏しいために陸稻さへも出來ません。夏は乾燥して露さへも全く降らないと云ひます。その割に夏の氣候は非常に涼しい相です。島に醫師は一人もありませんが、死亡者は統計に由ると(之は區長さんの言葉です、)五六年に四五人しか無いと云ふことです。現在の人口は二百四十三名だと聞きました。生活は半農半漁です。女子は自家用の縞木綿を織つて居ます。私の感心した事は、村の道路から庭内の隅隅までが歐洲の田舍のやうに丸石を敷き詰めてある事と、島中の植物の手入が行屆いて、何處の土地も掃いたやうに清潔な事です。併し此島では一草一木も日常生活の功利的必要から愛護されるのである事と思ふと、狹い土地の植物が家畜と同じ待遇を受けてゐる事を氣の毒に感じます。區長さんは大きな椿を見る度に指點して「之は何斗の實を結びます」と云つて、その大切な木である事を教へてくれました。區長さんは少年の日から島中の椿の實の收穫量を樹毎に就いて暗記してゐるので。
大正12年(1923年)の関東大震災では島が隆起し、島内の家屋が損害を受けたとの記録がある。
大正14年(1925年)には国鉄が熱海まで開通し、さらに1934年(昭和9年)に丹那トンネルが開通すると熱海は一大観光地となり、初島への遊覧も増加していった。
戦後は昭和39年(1964年)には新幹線の開通とともに初島バケーションランドが開設され、漁業・農業・観光の島となった。その後、バブル景気のリゾート開発の失敗などがあったが、現在も首都圏から日帰りができる距離にありながら素朴な雰囲気を残した離島として貴重な存在となっている。
[編集] リゾート開発
- アール・エイジア
1964年に富士急が初島バケーションランドをオープンした。(トロピカルガーデン、ゴーカートコース、ハワイアンプール)。高度成長期のレジャーブームで東京から日帰りで行ける島として人気を呼び、ピーク時には年間15万人の来場者があった。近年は施設の老朽化もあり集客力が落ちていたことから、2006年に全面改装し、プールやスパ、キャンプサイトを備えたアジアのビーチリゾートをイメージした施設となった。面積は7万3千平方メートル。
- エクシブ初島
1989年にバブル景気から空前のリゾートブームとなり、不動産・リゾート開発会社の日本海洋計画が「初島クラブ」というリゾート施設を建設する計画をたてた。それまでにも開発計画や土地買収の話が相次ぎ、1945年には島に住む41戸全てが「島外の資本には土地を売らない」という誓約書を取り交わしていたが、「初島クラブ」の計画は島民が初島区事業協同組合を設立し10%を出資し、役員になり土地は賃貸するというものであったため開発が実現することとなった。日本海洋計画にはサントリー、富士急、トヨタ、日本長期信用銀行、フジケンコーも出資していた。
1993年8月に施設はオープンしたが、バブル経済崩壊の影響からリゾート会員募集が順調に進まずに当初から苦しい経営となった。1998年度には売上高は目標額の3分の2となり、ついに1999年4月26日に会社更生法の適用を申請し事実上倒産した。その後、リゾートトラストの支援の元、新会社の「リゾートトラスト初島」となり、施設の名称も「エクシブ初島」と変更され営業を続けている。
初島クラブの倒産は日本長期信用銀行の破綻に大きな影響を与えたとされ、後に出資・融資を推進した取締役が訴訟を起こされている。
[編集] 島内の観光施設・レジャー等
[編集] 観光施設等
- アール・エイジア
- 初島海洋資料館
- 初島神社
- 初木神社(毎年7月に例大祭があり鹿島踊りが披露される。)
- 初島灯台(昭和34年(1959年)3月設置、2007年3月28日より参観灯台として一般公開を開始、灯台資料館も併設)
[編集] レジャー
[編集] 宿泊施設
- エクシブ初島(会員制リゾートクラブ)
- 民宿(29軒)
[編集] 島内の行政・インフラ等
[編集] 行政
- 島内に熱海市立初島小中学校がある。校歌は1980年に伊東市在住の阿久悠が作詞、三木たかしが作曲している。
- 各種選挙の際には荒天による船舶の欠航を考慮して、一日早く投票が実施される。
- 島内の環境保護のために空き缶デポジットが実施されている。
[編集] インフラ
- 電気や上水道、温泉は伊豆半島からの海底ケーブル、パイプで運ばれる。2003年4月に送電用の海底ケーブルが破損し、ゲリラや敵対国(地域)などの工作員による切断も疑われるなど様々な疑惑や憶測を呼んだが、その後の調査ではケーブルの老朽化による破断と結論した。ケーブルが復旧するまでのあいだ、東京電力は発電機と燃料を船で輸送し対応した。
- 携帯電話はドコモ、au、ソフトバンク共に使用できる。ウィルコムは使用できない。
- 常設の病院・診療所はなく、週一日熱海から医師がやってくるのみ。緊急時にはヘリポートを利用。ヘリコプターが飛べない荒天時の急患は船で熱海に移され、熱海港から救急車で搬送される。
- 銀行・ATM・郵便局は無い。ポストは島内に1つあり、ゆうパック・宅急便は初島漁業協同組合で受け付けている。
[編集] 交通
[編集] 文献
内田寛一『初島の経済地理に関する研究』中興館,1934年