展望車
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展望車(てんぼうしゃ)とは、鉄道車両の一種で、軌道上の風景を展望できる座席や大型の窓を特に設けた車両を指す。
日本国有鉄道における客車記号は「テ」であるが、電車や1980年代以降に新造・改造された客車の展望車では、この記号を付さない場合が多い。
類似する例としてトロッコ列車と呼ばれる種類の車両が存在する。純粋な観光路線などで、より開放的な展望を得る目的や、一種の特殊なアトラクションという性格をもって、側面が開放された構造の客車や無蓋貨車を改造した車両などで運行される。
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[編集] アメリカでの事例
日本における第二次世界大戦以前の展望車は、元々19世紀末期~20世紀前半の北アメリカで長距離列車の最後尾に連結されていた展望車に範を採ったものである。
[編集] 初期の展望車
1880年代にアメリカの鉄道で車両間の連結部分に可動式の渡り板を渡し、蛇腹状の幌で覆った貫通路構造が考案された。この「べスティビュールカー(貫通式車両)」は、乗客が安全に車両間を往来できる利便性から、1890年代までに全米の鉄道に広く普及した。
車両間貫通路が整備された事で、寝台と喫煙室、供食設備を1両に収めた車両を何両か連結する列車の代わりに、独立したラウンジカー、食堂車などを備えた列車を運行する事が盛んになった。長距離を移動する際に一等旅客の憩いの場となるラウンジは、列車の最前部や最後部に設けられた。
この時、列車の最後部に設けられたラウンジに、旅客誘致の目玉設備として設けられたのが展望室である。
1890年代から1920年代頃までのアメリカの展望車の形状は、日本の展望車とよく似ている。車両の一端、乗降用のデッキを少し広くした程のスペースが、景色を展望可能なオープンデッキとされた。ここには転落を防ぐための柵が取り付けられ、隣接する客室が展望室となっていた。この構造は日本の展望車でも踏襲されていた。
日本の展望車との違いは、21世紀初頭の日本の寝台特急に於けるロビーカーと同様、展望室が乗車した各等旅客のフリースペースとなっていた事である。展望車車内のうち展望室を除いた残りのスペースは、開放式寝台ないし個室寝台で構成される客室とされるか、軽食用の供食スペースに充てられた。オープンデッキ部分が気軽に利用されていたのも日本との相違点の一つで、椅子を置き、走行中にカードゲームなどをして楽しんでいる乗客の写真や、家族並んでの記念写真などが残されている。日本からの旅行客もその例外ではなく日本人の視察団の記念写真も存在する。無論、展望車を連結した列車は一等運賃や特別料金が要求されるプルマン寝台車で構成された優等列車が多く、利用に当たってははある程度の出費を必要としたが、それは一般旅行客の利用を妨げるものではなかった。なお一部の車両には密閉式の展望車も存在した。
またアメリカの鉄道には企業幹部や資産家が貸切使用する客車「プライベートカー」が多数存在したが、その中にも展望室を設けたものが存在する。古い文献や写真、記録映画などで、政治家の地方遊説の際に描かれる展望車両は、多くはこの種の車両である。
[編集] 流線型展望車・ドームカー・2階建て車
アメリカで展望車が大きく変化したのは1930年代の事である。この時期に流線型デザインの軽量な客車が開発され、優等列車向けに普及したが、それらの車両では滑らかな流線型を描く密閉式の展望車を設ける事が一つのスタンダードとなった。また、これらの展望車の発展系として1948年運行開始の「カリフォルニア・ゼファー号」などに連結された2階建て展望車「ビスタドームカー」を挙げることができる。こうした流線型の展望車の一部は、21世紀初頭でもカナダの大陸横断列車「カナディアン号」の展望車として運行されている。
展望ドーム車は編成の中間にも設けられた。前述のカリフォルニアゼファー号でも一部が2階建ての展望ドームとなった座席車が連結されたが、それとは別に車両全体が展望ドームとなった「スーパードーム」車も建造されている。ガラスドームのために重量が大きいのが特徴で、ミルウォーキー鉄道向けに建造された鋼製車は軽量構造にも関わらず、112トンもの重量を有した。
また、1950年代の後半にはアチソン・トピーカ・サンタフェ鉄道のシカゴ-ロサンゼルスを結ぶ「エル・キャピタン号」用に全車2階建ての編成が新造された。エルキャピタン号は全車座席車だったので、2階建て車両は座席車とラウンジ車、食堂車であり、寝台車や最後尾用の展望車は製造されなかった。これまでの全車2階建て車両が通勤用であったのに対し、この車両は展望を目的に建造されたというのが大きな違いである。この様式の車両はアムトラックの「スーパーライナー」に引き継がれ、寝台車も設けられた。スーパーライナーは西部の列車を中心に、アムトラックの長距離列車の主役として現在も運行を続けている。
[編集] その他の国と地域
前述の様にアメリカの展望車は日本の展望車にも大きな影響を与えているが、特に線路や車両の規格がアメリカのものと類似していた日本資本の南満州鉄道ではその傾向が強かった。
南満州鉄道の代表的な展望車としては、1930年代にあじあ号向けに製作されたテンイ8形が挙げられるが、これは当時アメリカで試作が進められた流線型の展望車を参考に製作されたもので、形態はまるきり本家アメリカ式の密閉式流線型である。この形式は21世紀初頭に於いても中国鉄道部に於いて若干数が現存しているといわれている。
また、観光用のドームカーや通勤用の2階建て車両については、ドイツ国鉄がアメリカに先駆け、1930年代から製作を行っている。1936年に建造されたガラス電車「ET491」や、1962年~1976年に「ラインゴルト号」に連結されたドームカーなどは、世界的に知られている。
ヨーロッパでは、風光明媚なアルプスやリビエラ海岸を走行する急行列車には、現在でもオブザベーションカーが連結されているが、これは窓を天井まで広げ展望を良くした一等車で、ドームカーの発展系といってよい。
[編集] 国鉄・JRの客車
[編集] 戦前形
日本の国鉄が1960年代以前に保有した正式な展望車は、東海道本線・山陽本線の特別急行列車に連結された。これらはすべて「乗り心地がよい」とされた3軸ボギー台車を装備し、後尾に柵を備えたオープンな展望デッキを設けていた。いずれも先行するアメリカの流儀に倣ったものである。民間メーカーでは1両も製造されず、国鉄工場で最高水準の技術をもって製作された。
通常は3等級制時代の一等車として編成の最後尾に連結された。従って展望席も一等客専用の領域であった。
この時代の日本における展望デッキは、主として駅での発車時及び見送り客に答礼し手を振るための「お立ち台」であり、乗客が走行中にデッキに出る事はほとんどなかった。
[編集] 初期の木製展望車
日本最初の展望車は、1908年に九州鉄道が発注した車両を国有化後の国鉄が引き継いだ、ブトク1形だとされる。
定期列車においてはじめに使用されたのは、1912年に新橋-下関間一等・二等特急列車(列車番号1・2列車。のち1929年に特急「富士」となる)に連結された木造車体のオテン9020形である。
1923年には車体断面を大型化した木造展望車のオイテ28070形が登場し、オテン9020形に取って代わった。1928年の称号改正でオイテ27000形に改称されている。
後に鋼製展望車の登場によって予備車となったが、1937年に2両が鋼体化改装され、スイテ37050(後のスイテ37形→マイテ58形)となって特急「鴎」に充当されている。鋼体化されなかった3両は後に荷物車などに改造された。
[編集] 鋼製展望車
1927年から国鉄客車の車体は鋼製が標準となった。20m車体を持つ優等車両についてはペンシルバニア式3軸ボギー台車のTR73形が開発され、展望車についても1930年以降にこれを装備した鋼製車が製作される事になる。
まず、1930年に最初の鋼製展望車としてスイテ37000形(後のマイテ39形21~)が登場し、続いてスイテ37010(同じく後のマイテ39)が製造され、いずれもオイテ27000に代わって「富士」に充当された。
このうちスイテ37010の車内は「桃山式」と呼ばれた純和風の内装であった。国際列車であった戦前の特急「富士」にあっては事に外国人観光客に好評を博したとされるが、戦後復活した際には「まるで霊柩車の様で不気味」・「仏壇じみて縁起が悪い」と乗客の不評を買い、予備車に回された経緯を持っている。
その後1931年には当時の有名デパートにちなんで「白木屋式」と呼ばれた洋風内装のスイテ37020形(後のスイテ48形)が超特急「燕」用に製造され、またスイテ37000のうち1両は「燕」用にスイテ37030(後のスイテ47)に改造されている。これらはいずれもダブルルーフであった。
1939年には近代的な丸屋根構造を採ったスイテ37040形(後のマイテ49形)が登場し「富士」に投入されたが、展望車自体の新製はこれが最後となった。
なお、鋼製展望車の車内の標準的な構造は1等寝台車と共に使用された「富士」用のスイテ37000・37010・37040に於いては1等寝台車が区分室方式であったため、展望車自体は前位が1等室(談話室)で1人掛回転座席を備え、後位が展望室で1~2人用ソファを10席程度配置したものであり、基本的にオープンサロン方式。1等寝台車を連結しない昼行特急の「燕」・「鴎」用のスイテ37020・37030・37050は上記に加えて区分室を2室程度備えており、貴賓・高官の乗車に備えられていた。いずれも定員は展望室が10名程度、1等室が16~19人程度であった。
太平洋戦争末期には、特急列車の廃止に伴い、展望車を含む優等車両は戦災を避けて地方に疎開措置が取られた。
[編集] 戦後の展開
1945年の日本の敗戦に伴い、温存されていた優等車両のほとんどは進駐軍に接収された。また戦後の国鉄は正式な「展望車」は新製していない。
スイテ38 2及びスイテ39 1・2を除くすべての展望車が接収され、残った展望車は1949年に復活した戦後初の特急「へいわ」に充当された。後に全車が接収解除の上で東海道本線特急「つばめ」・「はと」に使用された。1950年代前半に車軸駆動による冷房化(マロネ40形の項目を参照)により重量が増加され、「ス」級から「マ」級になった。
戦後、一般営業用に復活した形式としては、まず「へいわ」用としてスイテ382、マイテ391・392が各々1等客室を大改造の上(この時に国鉄初のリクライニングシートが導入された)マイテ391、11、21となった。桃山式展望車であったマイテ39の2両は双方共車内の痛みが激しかったため、桃山式としてはマイテ39-11のみが残り、マイテ391、21は洋風のデザインとされた。なお桃山式マイテ3911は先述した通り、利用者の評判が芳しくなく、予備車となった。
その後「はと」用としてマイテ37(後のマイテ58)・マイテ492・マイテ481が接収解除され、整備の上使用された。これらの展望車は車内がほぼ戦前のままで使用された。
1955年には一等寝台の廃止(二等寝台への全車格下げ)により、国鉄の一等車は東海道本線特急に連結される展望車のみとなった。
客車特急の「つばめ」・「はと」に於いて最後まで使用された形式は、「つばめ」用としてのマイテ39・49-2、「はと」用としてのマイテ58であった。
1960年に東海道線昼行特急の電車化により展望車の定期運用はなくなった。展望車各車は専ら団体用となり、同時に2等級制への移行によって「マイテ」から「マロテ」へと名称が変更された。これらは1964年までに台枠を流用したオシ17形に改造され、或いは用途廃止によって廃車となるなどして全車が姿を消した。
その後、保存車としては東京都青梅市の青梅鉄道公園のマイテ3911、大阪府大阪市港区の交通科学博物館のマイテ492が残存していた。マイテ492については1987年に改修のうえ車籍が復活し、西日本旅客鉄道(JR西日本)が引き継いだ。同社では、山口線の「SLやまぐち号」をはじめとするイベント列車において限定的に運用されている。またマイテ3911は、損傷が激しくなったためJR東日本大井工場(現・東京総合車両センター)に移送されて復元が試みられたものの、高度な細工を凝らした桃山式の内装はもはや修復できる技術が残っておらず、実現には至らなかった。やむなく装飾などを取り払われた上で、東京総合車両センターに保管されているが、2007年10月にさいたま市大宮区に開館する鉄道博物館において再び展示されることとなっている。
なお、厳密な展望車には該当しないが、20系客車の編成端部に連結することを前提としたナハフ20形(のち改造でナハネフ20形)・ナハネフ22形には折りたたみ椅子を設けた展望スペースが設置されており、ある程度展望車を意識した造りになっていたともいえる。ただし、これらの車両は運用上編成の向きを変えることは行われていなかったので、後部から展望を楽しめたのは片道に限られていた。
[編集] 1980年代以降の展開
元々一等車の需要は限られたもので、1950年代初頭には密閉式の展望車新造が計画された事もあったが、試作的改造(スハ32・オハ35系改造のスヤ51形)のみで実現せず、試作車も国鉄内部の巡察などに用いられたのみに終わった。
1980年代に至り、「ジョイフルトレイン」の先駆けとなった「サロンエクスプレス東京」や「サロンカーなにわ」には、改造車ではあるが編成両端の車両に展望室を設けた車両が連結された。但しこれらはガラス張りで、特に前者は構造的にも伝統的な国鉄展望車よりも名鉄7000系パノラマカーに端を発する展望ロマンスカーの客車版といった雰囲気であった。これの類似車両は「スーパーエクスプレスレインボー」、「ユーロライナー」、「サザンクロス」など多岐に渡る。
伝統的な開放式展望車としては、1982年に西武鉄道からの譲受電車であるサハ1501形1515号を改造した大井川鉄道のスイテ82形が登場した。国鉄でも1983年に名古屋車両区にて改造されたお座敷客車の両端がタネ車の12系の構造体を流用しつつ開放式展望室を設けた。さらに1987年には50系から「アイランドエクスプレス四国」が、1988年には同じく50系から「ノスタルジックビュートレイン」が開放室展望車を製造して改造されている。また同年には「やまぐち」向け12系の1両が開放式展望車に改造されている。
しかし、これらはスイテ82形を除いてすべて形式用途号は展望車の「テ」ではなく、通常緩急車の「フ」を名乗っており、「テ」の新形式は事実上途絶えたかと思われた。ところが意外なアプローチから1998年にJR北海道にて改造車ながら新形式が登場する。→トロッコ列車を参照の事。
近年は、「SLばんえつ物語号」編成の様に編成の中間車両をハイデッカータイプとして良好な眺望を確保した大型窓を設け、乗車定員を0人として指定席券を発券しないケースも出て来ている。なお、このハイデッカータイプの展望車両は客車・電車・気動車を問わずトレンドとなっており、用途形式上もロビーカーに準ずる「ハ」を名乗るケースが少なくない。
一方、新造車両では、上野~札幌間の寝台特急「カシオペア」用車両E26系に車端部に本格的な展望部を有する「カハフE26形」が投入され、好評を博している。なお、この車両の名称は「ラウンジカー」を名乗っている。
また1980年代より「トロッコ列車」と呼ばれる素朴な形態の展望車両も運行される様になっている。運行当初は貨車を改装したものが用いられたが、後に安全上の問題から貨車改造が認められにくくなり、以後は12系などの通常型客車から側面ガラス窓・外板の一部を取り払った車両が投入される様になった。
なお、かつての特別急行列車「つばめ」・「はと」などでは三角線と呼ばれる配線を利用して編成ごと方向転換をしていたが、近年のそれは編成の両端に展望車を設ける方法が一般的である。或いはSL列車の場合は発着駅近辺にSLの転車台が残っているため、それを使って展望車のみ方転させる場合もある。
[編集] 電車・気動車
太平洋戦争以前の一部地域の路面電車には、窓ガラスをなくして眺望を確保し、側面腰板を金網張りとして風通しを良くした「納涼電車」が存在した。暑い時期に乗客の涼を取る事を主眼としたもので、江ノ島電鉄などで1930年代まで運行されていた。これも一種の展望車と言える。神戸電鉄などには、高速電車でも同様な納涼車仕様の車両があった。多くは太平洋戦争中に輸送力確保のため、通常型電車に改造されて消滅した。
[編集] 特別席としての「展望車」・「展望席」
第二次世界大戦以前の日本の電車は、一般に運転台周りは開放的な構造であったが、その中でも1938年に南海電気鉄道の前身である南海鉄道が製造した貴賓車「ク1900号」は、流線型の前面形状と広い窓を備え、車内にはソファーを備えた展望構造であった。これは皇族などの高野山への参詣に於ける利用を主眼としたものであるが、第二次世界大戦後は一般客向けの特急「こうや」に特別車として連結され、1961年まで運用されたが、同年の特急撤退後は通常形態の通勤形電車に改造されてしまった。
東武鉄道は豪奢なサロンを備えた貴賓用の付随展望車としてトク500形客車(1930年製、製造時は木造車、戦後鋼体化)1両を保有し、主に日光特急電車の後尾に連結して運用していたが、1957年に廃車となった。なお東武の特急車両は1720系「DRC」及び100系「スペーシア」以降の電車は前面展望を意識しない造りになっている。
[編集] 「パーラーカー」
国鉄の場合、東海道本線特別急行列車「はと」・「つばめ」に151系を充当する際に、従前の展望車に比する車両として大阪方先頭車に「クロ151形車両」を製造した。この車両を利用する乗客層として客車時代の一等車の乗客が利用する事を前提としていたため、「パーラーカー」の愛称と特別料金を要し、当時の時刻表による表記では「展望車」が当てられた。しかし、東海道新幹線開業に伴い山陽本線特急群に転じて以降、一等車(後のグリーン車)利用者の絶対的な減少に伴い開放室の普通席への改造(クロハ181形への改造)が行われ、山陽本線からの撤退・関東地区への転属に伴い1973年までに完全に普通車化された。なお、東海道本線から直接上越線など関東地区の路線に転属したものは当初から完全な普通車に改造されており、パーラーカーとして運用されたものはない。
[編集] 屋上運転台式前面展望車(セッテベロ形展望車)
運転台を屋根上に上げ、客席を車両最前面に置いて展望を確保する構造の鉄道車両は、古い例では1930年代にフランスで製作された気動車「ブガッティ・ガソリンカー」などが存在する。
しかし、この種の展望構造を採った高速列車で世界的に有名となった最初は、1953年にイタリア国鉄が開発した7両編成のETR300形である。この豊かな曲面を備えた流麗な特急電車は「セッテベロ」(Settebello)の愛称を与えられ、列車名にもこの愛称が採用された。(「セッテベロ」とはイタリア語で「7人の美女」という意味である。)1960年には同様の構造を持つ4両編成のETR250形も製造されている。これらの電車は日本でも文化映画『ベスビアス特急』で紹介されて知られる事になり、名実共にイタリア国鉄の代表的車両であった。なお、2004年時点では1編成を残して廃車されている。
日本でセッテベロ形の展望構造を採った電車の最初は、1961年に開発された名古屋鉄道の初代「パノラマカー」7000系で、これに続き小田急電鉄でも小田急ロマンスカーの系統である1963年開発の3100形「NSE」でこの構造を採用した。名古屋鉄道は同様な構造を1963年製造の7500系でも採用、また小田急電鉄も1980年の7000形「LSE」、1987年の10000形「HiSE」で屋上運転台を採用している。また、2005年に登場した50000形「VSE」も同様の構造を採用している。
なお、名古屋鉄道の場合、それ以降は運転席を下に配置した8800系「パノラマDX」、1000系「パノラマスーパー」が製造されたが、その後は展望車両は製造されていない。
国鉄・JRに於けるセッテベロ形の展望電車は、国鉄末期の1987年に165系をジョイフルトレインとして改造した「パノラマエクスプレスアルプス」が最初である。なお、この車両は2001年に富士急行に譲渡され、形式を2000形に変更の上「フジサン特急」として運用している。
気動車では、1988年にJR九州が「オランダ村特急」用に製作したキハ183系があり、2004年現在でも久大本線特急「ゆふDX」に運用されているが、前面展望席は制度上・発券上も特別席扱いを受けている。
[編集] ハイデッカー前面展望車
セッテベロ形構造の車両は、車体強度確保や運転士の乗降、衝突対策などクリアすべき制約が多く、扱いにくい事もあり、日本では限られた鉄道で用いられたのみに終わった。
これに代わって高床式(ハイデッカー)の前面展望車両が1980年代以降に出現している。発想は観光バスなどと共通したもので、運転台を通常の床面に置き、直後の客席床面を大きく嵩上げした上で、車両前面の窓ガラス面積を大きく取り、運転台の頭越しに前面眺望を確保する手法である。多くの場合は客室側面窓も大きく作られ、全方向への眺望確保を図っている。
セッテベロ形よりも構造が簡単で、運用が容易である事から、電車・気動車に於ける前面展望車両の一つの主流となっている。
日本では、1984年に登場した名古屋鉄道の8800系「パノラマDX」が最初である。但し、老朽化に伴い2005年1月29日の中部国際空港へのアクセス路線、空港線の開業に際してのダイヤ改正で運行終了、同年中に全廃となっている。
その後は伊豆急行の2100系「リゾート21」や国鉄のキハ59形「アルファ・コンチネンタル・エクスプレス」など、リゾート列車への採用例が多い。JR西日本のエーデル形気動車シリーズもこの形式。セッテベロ形展望車の代表格である名鉄パノラマカーの後継車1000系「パノラマスーパー」もハイデッカー形で製造されている。
[編集] 2階建車両
2階建車両は、特に2階席からの眺望に優れる事から、アメリカの「ビスタドームカー」などの様に「眺望車」・「眺望席」という位置付けでアピールされる事がある。
日本の場合、近畿日本鉄道のビスタカーのうち、特急専用車両とされるものについては、2階席を眺望席として位置付けており、発券上指定が出来る事から特別枠ではあるものの料金制度上の特別席ではない。
"制度上の特別席"という点では、瀬戸大橋線の快速列車「マリンライナー」に使用されるJR四国の5100形車両は2階席及び運転席寄り座席をグリーン席とし、1階席及び連結面を普通席として「眺望の良い特別車両」として使用されている。これは運行当初より使用していたJR西日本所属の213系のグリーン車「クロ212形車両」の「瀬戸大橋での眺望を楽しむ」という点を踏襲したものである。
しかし必ずしも「2階建車両=観光列車に充当される車両」ではないため、例えばJR東日本の215系や東京近郊運行電車の中距離電車に連結される二階建てのグリーン車では、展望の望めない1階席が存在するなど、必ずしも眺望が良い様な座席配置は行っていない。
[編集] トロッコ気動車
JR東日本のキハ40系を改造して「トロッコ列車」用とした「びゅうコースター風っ子」や会津鉄道のAT-301が存在する。大昔の「納涼電車」の再来の様な車両である。
[編集] 関連項目
[編集] リンク
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)・JRの客車 |
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9500系・12000系・22000系・28400系 |
鋼製一般形客車 |
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