小嶺忠敏
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小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日- )は長崎県南島原市(旧・南高来郡堂崎村→有家町)出身のサッカー指導者。長崎県立国見高等学校サッカー部前総監督。
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[編集] 来歴・人物
長崎県立島原商業高等学校、大阪商業大学を卒業し母校の商業科教諭およびサッカー部監督を務め、インターハイ優勝などの実績を残す。1984年に当時は無名だった国見高に社会科教諭として赴任し、サッカー部を全国高校サッカー選手権で戦後最多タイの6度の優勝に導く。
長崎県の公立高校教員は、本来なら離島の高校に一度は赴任しなくてはならないのだが、教育委員会が小嶺の県外流出を恐れ、特例として離島に赴任させず、後も教頭(1997-1999年度)・校長(2000-2005年度)として国見高に在籍させ続けた。なお校長就任の際、全国高等学校体育連盟の規定により、監督を退いている(監督のポストにはサッカー経験・指導歴のない教諭を形だけ据え、自らは「総監督」を名乗り、実質的な指揮をとった)。2006年3月に国見高を定年退職(総監督職は継続)。
定年退職後は長崎県サッカー協会会長(2004年6月10日就任)、長崎県教育委員会参与、特定非営利活動法人「V・ファーレン長崎スポーツコミュニティ」理事長(2006年5月27日付で副理事長から昇格)なども務めている。
2007年1月10日、同郷で防衛大臣の久間章生の推薦により、夏の参院選長崎選挙区で自民党公認での出馬を表明。それに先立ち、1月9日付で国見高の総監督 、長崎県教育委員会参与の役職を辞任している。4月、後任の監督として、島原商業時代の教え子で元熊本国府高監督の瀧上知巳が就任。
[編集] エピソード
- 島原商業がまだ全国レベルで勝てなかった頃、田畑を売り払ってマイクロバスを購入し、自らの運転で部員を連れて全国各地を転戦しながらチーム強化を図ったのは有名すぎるエピソード。九州の他校の指導者も小嶺に続き、後に九州はサッカー王国と呼ばれるに至った。
- 小嶺が国見高に異動して9ヶ月後の冬、島原商業の教え子たちが全国高校サッカー選手権で優勝を果たした(帝京と両校優勝)。ちなみに、国見高新監督の瀧上知巳はこのチームの3年生で、背番号10のエースストライカーとして活躍した。
- 元日本代表FWで、現横浜FC監督の高木琢也は中学3年生の時、自身が高校2年生に進級する年(1984年)に小嶺が島原商業から国見高に異動になるという噂を耳にしていたため、島原商業ではなく、あえて国見高に進学した。しかし、高木の在校中、全国高校サッカー選手権初出場を果たすことはできなかった(1学年下が3年時に初出場を果たし、準優勝)。
- 1993年に日本で開催されたU-17世界選手権でU-17日本代表監督を務め、後に日韓ワールドカップで活躍することになる中田英寿、宮本恒靖、松田直樹、戸田和幸らを率いて、ベスト8進出の快挙を果たした。なお、A代表・年代別日本代表を通じて見ても、FIFA主催の国際大会で日本がベスト8に進出したのは、この時が初めてである。余談だが、U-17世界選手権のアジア予選を兼ねて前年に行われたU-17アジアユース選手権の日本代表監督を務めた際、高校入学前までFWだった松田直樹のDFとしてのセンスを早くから見いだし、FWからコンバートしている。
- 2000年の国体サッカー少年男子の部の競技において、長崎県選抜チームが国見高の選手単独で編成され、本大会決勝で静岡県選抜を4-0で破り、優勝(監督は別)。この年度国見高はインターハイ、選手権と合わせ、三冠を達成した。
[編集] 主な功績
[編集] 島原商業時代
[編集] 国見高時代
[編集] インターハイ
- 1986年 優勝(1回目)
- 1987年 準優勝
- 1992年 3位
- 1993年 優勝(2回目)
- 1997年 3位
- 2000年 優勝(3回目)
- 2002年 準優勝
- 2003年 優勝(4回目)
- 2004年 優勝(5回目・連覇)
[編集] 全日本ユース選手権
[編集] 全国高校サッカー選手権
- 1986年 準優勝(初出場での快挙)
- 1987年 優勝(1回目)
- 1989年 3位
- 1990年 優勝(2回目)
- 1991年 3位
- 1992年 優勝(3回目)
- 1993年 準優勝
- 2000年 優勝(4回目)
- 2001年 優勝(5回目・連覇)
- 2002年 準優勝(三連覇ならず)
- 2003年 優勝(6回目)
- 2004年 3位
※左の数字は年度を表している(高校選手権は1月上旬を中心に行われる)。