小川邦和
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小川 邦和(おがわ くにかず、1947年2月1日 - )は、昭和後期(1970年代後半-1980年代前半)のプロ野球選手。自らの意志で初めてメジャーリーグに挑戦した選手である。広島県福山市生まれ。
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[編集] 来歴・人物
阪急などで活躍した池田善蔵(金星時代に藤村富美男に日本初のサイクルヒットを許した投手)が監督を勤めていた尾道商業に入学、厳しい指導でエースとなる。この頃、下関商業・池永正明(元西鉄)、北川工業(現府中東高)・高橋一三(元巨人)、倉敷商業・星野仙一(元中日)、松岡弘(元ヤクルト)、岡山東商・平松政次(元大洋)、関西高校・森安敏明(元西鉄)ら球史に名を残す名投手と山陽路で競い1964年、春選抜大会出場。ノーマークだったが横手から変化球を操る小川の2完封などで決勝へ進出。相手は3完封で勝ち進んで来た現プロゴルファー、尾崎将司の徳島海南高(2006年3月閉校)。第1回大会を除くと史上初の初出場対決となった決勝は、初めて外野席の入場制限が出るほどの大人気となった。試合は尾道商業が7回までリードし小川曰く「尾道市内をパレードしている姿が浮かんだ」が、体は既に限界を超えていた。8回、尾崎の三塁打などを浴び逆転負け。
その後早稲田大学から日本鋼管に進み1972年ドラフト7位で巨人入団。2年目に12勝を記録するなどV9時代末期から第一期長嶋巨人を支えた。特に独持のアンダースローで大洋のジョン・シピンをきりきり舞いさせる"シピン殺し"で有名だった。30歳で解雇されると1978年、反骨心から単身渡米。史上初のメジャーリーガーである村上雅則は野球留学中にスカウトされたので、小川が初めて自らの意志でメジャーリーグに挑戦した選手となる。村上以降は誰も挑戦する選手は無く、周囲も暴挙と揶揄した。この時代、小川の挑戦は日本では全く報道されなかった。2年間、独立リーグ、マイナーリーグ(2A、3A)でプレー、メジャーには上がることは無かった(小川以降、メジャー挑戦した野茂英雄の間には江夏豊しかいない)。1981年、日本に戻り、広島東洋カープで3年間プレー。またも解雇されると今度はメキシコに渡り、日本では、ほとんど馴染みのないメキシカンリーグで活躍した。その後、ロッテのコーチ、韓国三星ライオンズのコーチ、文化放送やNHK・BSの野球解説者、日刊スポーツ野球評論家、メジャーリーグフロリダ・マーリンズの極東スカウトを経て、現在はピッツバーグ・パイレーツの極東スカウトを務める。またマスターズリーグにも参加しながら東京都内でシニアリーグの指導にもあたっている。ゲンダイと契約しているのか巨人の記事によくコメントが載っている。
現役時代から読書家として知られ、自宅にはサルトルなどの哲学書をはじめ、学術書や英語の書物が山積みになっていたといわれる。また、テレビの英語会話講座への出演経験もあるインテリで、野球選手にしては一風変わっていた。
[編集] エピソード
- 小林繁が巨人に入って、小川に大人の遊びを教えてもらったと語っている。
- 第1次長嶋巨人時代の1975年10月15日、対広島戦の9回表に大下剛史のバントをファウルと判断しボールを見送ったところ、深く守っていた王貞治の捕球が遅れ内野安打となる。ベンチに戻った小川は関根潤三ヘッドコーチと言い合いになり、試合中にも関わらずベンチ内で大ゲンカとなった(ちなみにこの試合は広島が初優勝を決めたゲームである)。この後も選手とコーチの大ゲンカがあると、この時の話が引き合いに出される事がある。
[編集] 通算成績
[編集] 関連項目
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