中村勝広
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中村 勝広(なかむら かつひろ、1949年6月6日 - )は、千葉県山武市(旧・山武郡成東町)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。右投げ右打ち。阪神タイガース、オリックス・バファローズで監督を務めたあと、現在はオリックスのシニア・アドバイザー(SA)。
1989年12月4日に出身地の千葉県山武郡九十九里町より町民栄誉賞が贈られた(生まれは成東町だが育ちは九十九里町)。これは1990年からの阪神タイガース監督就任を記念してのもので、九十九里町の町民栄誉賞第1号でもある。
「ゆうこりん」の愛称で知られるタレント小倉優子は遠縁の親戚にあたる
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[編集] 来歴・人物
成東高、早大から1971年、阪神にドラフト2位で入団。早大では主将を務め、プロ入り当時から将来の阪神指導者を嘱望された。1年目から頭角を現し3年目の1974年には引退した安藤統男に替わる二塁手のポジションを獲得。以降1978年まで正二塁手の座に座り、堅実な守備で1970年代のチームを支えた。また、1978年に残したシーズン守備率.995は当時の日本記録。1981年からコーチ兼任。1982年限りで現役引退、コーチ退任。
1983年~1987年に2軍監督で1986年にはウエスタン・リーグ優勝している。1988年は作戦守備走塁コーチ(途中からヘッド格)に就任するも、村山実監督と衝突して1年で辞任する(三塁ベースコーチとしての、度重なる失敗のため。実質上は解任だった)。1990年に阪神の監督に就任し、1992年にAクラス・2位に浮上させる。だが、1993年以降Bクラスが続きチームが再び低迷、阪神・淡路大震災の起きた1995年のシーズンの7月23日限りで途中休養、藤田平2軍監督が代理監督となった。
その後、1989年・1996年~2003年まで毎日放送、スポーツニッポンの解説者を経て、2001年からプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに参加。2003年秋にオリックスの取締役常務兼GMに就任する。GMとしては村松有人、菊地原毅らチームの中心となる選手の補強に成功し、成果を上げた。また、大学卒、社会人の選手でくすぶっている者を「契約金ゼロ」で獲得し、プロで飛躍するチャンスを与える、といういわゆる「契約金ゼロ枠」を廃止した事でも知られている(「契約金ゼロ枠」でオリックスの主力になった者は一人もいない)。「夢や憧れだけでプロに入団させるわけにはいかない。本人のためにも、チームのためにもならない」とは本人の弁である。
2005年オフのドラフト会議において、辻内崇伸の抽選の際外れクジを当たりクジと勘違いして話題になった。(※この年のクジは外れにも認印が押してある紛らわしいデザインだったのでソフトバンクの王貞治監督も同様の勘違いをしている。翌年以降デザインは刷新された)阪神監督時代にも1992年のドラフト会議では阪神ファンだった松井秀喜の抽選を外している。(※4球団競合。中村の抽選順は3番目で最後の1枚を引いた巨人長嶋茂雄監督が獲得)。他にも、倍率が高かったとはいえ1989年には野茂英雄(※8球団競合。近鉄入り)、1990年には小池秀郎(※8球団競合。ロッテの指名を拒否、のち近鉄)とことごとく一位指名の抽選を外してしまい、チーム低迷と外した選手たちのその後の大活躍もあって未だ怒っている阪神ファンも多い。が、クジ引きは運以外の何者でもないのでそれを責めるのは流石に気の毒というものだろう。中村以前に同じ阪神で江川卓や岡田彰布を引き当て「ゴッドハンド」の異名を取った岡崎義人がいたことも、中村にとっては不運なことだった。
2005年シーズン終了後、仰木彬監督の勇退(仰木は勇退の数ヵ月後にこの世を去る)により監督として現場復帰、2006年からオリックスを率いることになると同時に、常務職を降りる。
仰木監督の後任として宮内義彦オーナーの一声により中村が監督となる。建前はGM・監督経験者となっているが、実際は中村がフロントのイエスマンであり、出身球団の阪神人気にあやかった人事だとされる。また、阪神の監督をかつての中村の部下であり早稲田の後輩でもある岡田彰布が務めていたことも大きく影響しているといわれる。
結局、レギュラーシーズン5位という成績不振の責任を取る形で1年で辞任。なお、その後も球団に残り、2006年11月1日付でシニア・アドバイザー(SA)に就任。
ちなみに自分の親戚にあたる小倉優子がタレント活動をしていたのは最近まで知らなかったらしい、また小倉のいとこのコンサドーレ札幌のサッカー選手関隆倫も遠縁の親戚にあたる。
[編集] 監督としての評価
[編集] 阪神監督期
躍進した1992年には、外野守備走塁コーチ3塁担当兼作戦コーチとして島野育夫が就任している。 しかし、大野久や渡真利克則など1985年V戦士やエース野田浩司の放出、また高橋慶彦や松永浩美など峠を越した選手のトレードによる獲得は失敗に終わり、「中村はチームを盛り上げる気がないのか」とファンに酷評された。特に、野田の放出については当時のチームリーダーだった和田豊も「投手力を維持しながらの補強ならいいけど、それを下げてまで・・・」と疑問視したという。
その結果、1993年以降チーム成績が低迷。さらに1995年途中に当時の久万俊二郎オーナーから「スカタン」と発言されシーズン途中での辞任につながった。この久万オーナーの発言は、「勝負事の世界は人がいいだけではやっていけない」という本質を的確に突いたものと言える。
その一方で「中村には(マスコミに対する)適応能力がある」とも発言しており、マスコミとの確執を起こさなかった点では中村を評価している。また、中村の監督就任2年目まで阪神に在籍した田尾安志も著書で中村の名前こそ伏せているものの、「試合の最中なのに負けた時の言い訳を考えていた監督がいた」と痛烈に批判しており、さらに中村との確執から阪神を退団したトーマス・オマリーも、「阪神ファンは最高だったけど、中村監督は単純だった」と後年語っている。
[編集] オリックス監督期
就任1年目の春季キャンプで、平野恵一や後藤光尊をコンバート。
清原和博や中村紀洋の加入により、「かつての巨人のようなチームが2つ出来た」と豪語していたが、シーズンに入ると両選手は故障でたびたび戦線離脱し、それを補うはずだったクリフ・ブランボー、カリーム・ガルシアも2006年は不振だった。中村紀洋とはラスベガス・フィフティワンズでクリーンアップを組み、期待されていた新外国人のジェイソン・グラボースキーも全くの期待外れであった。これに加え、谷佳知の不振も相まって、チームの深刻な得点力不足に拍車をかけた。
先発オーダーは、前任者・仰木彬の「猫の目打線」の流れをくんでいた。オーダーはもっぱら打撃コーチを務めた新井宏昌、継投は投手コーチである神部年男が決めている。しかしながら、上述した主力選手の不振が響き、結果を出す事は出来なかった。
采配では不調のベテランを起用し、好成績を残している若手を主軸で起用しない、不可解な采配などで多くの批判を受けていた。そんな中平野佳寿に対しての期待は相当なもので、新人王を取らすために何故か完投数を重視させ、異常なまで完投を強いる、また交流戦で巨人戦、阪神戦を経験させるために、わざわざローテーションを崩してまで巨人戦や阪神戦に当てるが、シーズン中盤から大幅に調子を崩し、新人王どころか二桁勝利もならなかった。
極めつけは、シーズン終盤若手を使うことを公言したのにも関わらず、宮内が「若手を使うのはシーズンをあきらめた証拠、ファンに失礼」という発言をするとその横槍をすんなり受け入れ、結局若手を使わなかったなど、監督としての資質にも疑問符が付いた。
8月下旬、宮内オーナーが故障者の多さを理由に続投を匂わせたが、その後の楽天との3連戦でパリーグチーム初の楽天戦3タテを食らい、進退は白紙化された。また、その際宮内オーナーは「予想以上に弱い」と発言している。
9月下旬時点で、最下位楽天とのゲーム差が徐々に縮まり、最下位転落の可能性もある危機的状況に陥ったが辛うじて5位の座を死守した。
一方、オリックスは清原の様な主力に不安定なベテランが多く、外国人選手はトム・デイビーが奮闘したものの、他はカリーム・ガルシアが最低限の成績を残しただけで、来期以降の戦いに不安が残るシーズンとなった。なお、水口栄二が年下とはいえコーチの三輪隆に不満を爆発させる等チームを混乱させたこともある。
結局、この年のチームは5位に終わり、9月27日のシーズン最終戦後に成績不振の責任を取って監督辞任を発表することとなってしまい、監督しての無能さを露呈してしまった。
[編集] 通算成績
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
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1990年 | 平成2年 | 6位 | 130 | 52 | 78 | 0 | .400 | 36 | 135 | .252 | 4.58 | 41歳 | 阪神 |
1991年 | 平成3年 | 6位 | 130 | 48 | 82 | 0 | .369 | 26 | 111 | .237 | 4.37 | 42歳 | |
1992年 | 平成4年 | 2位 | 132 | 67 | 63 | 2 | .515 | 2 | 86 | .250 | 2.90 | 43歳 | |
1993年 | 平成5年 | 4位 | 132 | 63 | 67 | 2 | .485 | 17 | 86 | .253 | 3.88 | 44歳 | |
1994年 | 平成6年 | 4位 | 130 | 62 | 68 | 0 | .477 | 8 | 92 | .256 | 3.43 | 45歳 | |
1995年 | 平成7年 | 6位 | 130 | 46 | 84 | 0 | .354 | 36 | 88 | .244 | 3.83 | 46歳 | |
2006年 | 平成18年 | 5位 | 136 | 52 | 81 | 3 | .391 | 28.5 | 106 | .253 | 3.84 | 57歳 | オリックス |
- 監督通算成績 867試合 373勝487敗7分
- 6シーズン連続での監督は、タイガース史上最長である。
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
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- ※1 カッコ内は監督・シニアアドバイザー在任期間。
- ※2 1995年は7月23日まで指揮。
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