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波留 敏夫(はる としお、1970年5月25日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手、現在は横浜ベイスターズの打撃コーチ。現役時代は主に中堅手として活躍し、闘志を剥き出しにしたプレーには定評があった。ニックネームは「突貫小僧」「ハマの核弾頭」。
[編集] 来歴・人物
[編集] プロフィール
[編集] 通算成績
年度 |
所属チーム |
背番号 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁打 |
三塁打 |
本塁打 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗塁死 |
犠打 |
犠飛 |
四死球 |
三振 |
併殺 |
失策 |
打率 |
1994 |
横浜 |
2 |
53 |
168 |
26 |
50 |
12 |
2 |
3 |
75 |
10 |
7 |
3 |
1 |
0 |
18 |
33 |
1 |
2 |
.298 |
1995 |
100 |
378 |
59 |
117 |
14 |
2 |
5 |
150 |
29 |
9 |
8 |
7 |
2 |
47 |
55 |
3 |
2 |
.310 |
1996 |
114 |
332 |
32 |
88 |
14 |
2 |
2 |
112 |
21 |
4 |
5 |
12 |
0 |
29 |
57 |
4 |
1 |
.265 |
1997 |
127 |
502 |
89 |
148 |
22 |
3 |
8 |
200 |
41 |
16 |
8 |
23 |
1 |
47 |
68 |
7 |
3 |
.295 |
1998 |
106 |
428 |
69 |
117 |
23 |
1 |
2 |
148 |
39 |
12 |
2 |
11 |
4 |
44 |
57 |
5 |
1 |
.273 |
1999 |
130 |
568 |
95 |
169 |
31 |
5 |
15 |
255 |
70 |
21 |
5 |
14 |
1 |
26 |
80 |
11 |
8 |
.298 |
2000 |
60 |
219 |
30 |
66 |
14 |
0 |
8 |
104 |
17 |
3 |
4 |
1 |
1 |
16 |
31 |
10 |
2 |
.301 |
2001 |
1 |
13 |
21 |
1 |
3 |
1 |
0 |
0 |
4 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
1 |
4 |
0 |
0 |
.143 |
中日 |
8 |
92 |
275 |
21 |
66 |
8 |
0 |
1 |
77 |
20 |
2 |
3 |
15 |
2 |
15 |
37 |
8 |
4 |
.240 |
2002 |
39 |
87 |
5 |
19 |
5 |
0 |
0 |
24 |
7 |
0 |
0 |
4 |
0 |
3 |
16 |
2 |
0 |
.218 |
2003 |
ロッテ |
50 |
111 |
15 |
22 |
4 |
0 |
0 |
26 |
5 |
1 |
1 |
10 |
2 |
21 |
22 |
6 |
1 |
.198 |
2004 |
29 |
49 |
5 |
7 |
2 |
0 |
0 |
9 |
7 |
1 |
1 |
3 |
1 |
8 |
16 |
1 |
1 |
.143 |
通算 |
|
|
913 |
3138 |
447 |
872 |
150 |
15 |
44 |
1184 |
266 |
76 |
40 |
103 |
14 |
275 |
476 |
58 |
25 |
.280 |
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] エピソード
- 横浜時代、その広い守備範囲でチームを支えた。また、佐伯貴弘とともにオフシーズンには「チームの顔」的役割を果たした。
- 2001年に中日ドラゴンズへのトレードが決まった際、「逆指名で横浜に入団、このまま横浜で終わりたかった」と発言し、号泣した姿は有名。トレード直後の試合では、ドラゴンズ仕様のスパイクが間に合わなかったため、ベイスターズ時代に使用していたスパイクに青マジックで色を塗り、試合に出場した。
- 2004年の千葉ロッテ移籍後(結果的にはこの年が現役ラストイヤーであった)のチーム開幕戦の1番バッターの西武戦において、開幕投手の松坂大輔より1回表に口火を切る貴重な先頭打者ヒットを打つ。
- 2005年現役引退後は各放送局の解説者を務めるが、その大半は新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスのホームゲームを徹底中継したスカイ・Aでの解説で、新人らしからぬなかなか堂に入った解説ぶりであった。また後述のようにラッキーカラーは赤であるが、このスカイAの東北楽天ゴールデンイーグルスのホーム初中継(2005年4月1日の西武戦でフルキャストスタジアム宮城の柿落としの試合)の試合解説担当であったが、ネクタイ色は深紅で本人曰く「僕はここ一番という時は赤いものを見に付ける傾向があり、今日の解説デビューに合わせてこのネクタイですよ」という説明があった。
- 2005年8月に放送のテレビ東京「元祖!でぶや」頑張れ横浜ベイスターズ編において、鶴見の沖縄出身者野球チームとの「ヒットを打ったらゴーヤをGET」という企画で、石塚英彦の”ドラえもんのポケット”で「ハルトシオ」として登場。見事にセンター前ヒットをしゴーヤを手に入れたが、それに増してバラエティのセンスがあると石塚とパパイヤ鈴木に絶賛されていた。
- 守備には定評があり、時々見せる派手なダイビングキャッチはファンの喝采を浴びた。本人も横浜時代、一番欲しいタイトルはゴールデングラブ賞だと明言していたほどである。しかし、当時は守備の名手として知られていた飯田哲也、同じく守備の評判が高い新庄剛志、はたまたルーキー時代から高い守備力を見せた高橋由伸などが立ちはだかったため、ずっと受賞候補に挙がるのみであった。
- 日本一を経験した1998年には優勝後のビールかけに社会人時代に愛用していた熊谷組のヘルメットを着用して、ちょうど経営不振に陥いり債権放棄問題に揺れていた同企業に対し「がんばれ!熊谷組」と連呼していたほど同企業には愛着を持っていた。
- ロッテ移籍時、童謡・「春が来た」を応援歌として採用し、オープン戦でも使われたが、波留本人が激怒したため使用中止になったことがある。
- 現役時代に帽子のつばに春と塩(はるとしお)と書いていた。
- 引退後は主にJ SPORTS・スカイA・テレビ神奈川の野球解説者として活動。また熊球クラブ(日本野球連盟 (社会人野球)クラブチーム)のメンバーでもあった。
- ラッキーカラーは赤。現役時代のリストバンドは深紅で、漲る闘志を表していたと言う。
- 2006年、古巣横浜のコーチとして交流戦で楽天戦に臨んだフルキャストスタジアム宮城は、波留にとって昨年のメイン職場であると言っても過言で無い程スカイ・Aでの解説で通いつめた場所だけに、同放送の実況担当アナウンサーやベンチレポーターの平方恭子らとの再会を楽しんでいて、オフにはゴルフコンペの開催の約束をしていたという。
[編集] 背番号
- 2(1994年~2000年)
- 1(2001年途中)
- 8(2001年途中~2004年)
- 71(2006年~)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク