高津臣吾
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高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は平成期(1990年代~)のプロ野球選手(右投げ右打ち、投手)。東京ヤクルトスワローズに在籍。佐々木主浩と並び、1990年代以降の日本プロ野球を代表する抑え投手である。ヤクルト公式の愛称は『フィニッシャー』(石井弘寿・五十嵐亮太の"ロケットボーイズ"と共にファンから公募されたもの)。
右横手から時速140km前後のストレートと130km/h台、110km/h台、100km/h台の3種類のシンカーを武器に、セーブを重ね続けている。2006年シーズン終了時点での、日本通算273セーブは歴代1位。また、日米通算300セーブは佐々木主浩に次いで史上二人目となる快挙である。
アメリカでの代理人はオクタゴン社のジョー・アーボン氏、日本国内は水戸重之弁護士が担当。また、日本でのマネジメントは長谷川滋利や石井一久らと同様、吉本興業スポーツ部が請け負っている。
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[編集] 来歴
- 広島県広島市南区段原出身。張本勲、福富邦夫は中学の先輩となる。幼少の頃から広島東洋カープのファンで、ミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。また、ドラフト会議のあった1990年はその山本浩二が監督をやっていたため広島入りを熱望していた。
- 広島県立広島工業高等学校3年の時、春夏通じて甲子園に出場(春ベスト8、当時の4番は新井貴浩の兄であった)したが、控え投手だったため登板機会はなし。同学年で広陵高等学校の金本知憲と何度か対戦しているが、高津の方が控えで直接の対戦は無い。ちなみに当時エースだった上田俊治はその後中国放送に入社して報道記者を務めている他、ローカル番組「KEN-JIN」の軟式野球の企画にも甲子園経験者という経歴を買われて出演していた。
- 大学は亜細亜大学に在学。当時ナンバーワンの左腕、小池秀郎の影に隠れて二番手の扱いだった。
- 1990年 ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。入団当時は先発投手として活躍を期待されていた。特に目立った特徴の無いピッチャーだったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。
- 1993年5月2日 プロ入り初セーブを達成。この年抑え投手に転向し、20セーブをあげてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。
- 1994年 プロ入り初のタイトル、最優秀救援投手を獲得。
- 1997年 自らの不調、伊藤智仁の復活によって中継ぎとして起用される。翌年も中継ぎとしての起用は続いた。
- 1999年 若松勉監督の就任とともに抑えに復帰、最優秀救援投手獲得。
- 2001年 最優秀救援投手獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは連続無失点。
- 2003年 佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手獲得。
- 2004年 FA権を行使し、念願だったアメリカメジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスに入団。メジャー初登板の最初の打者は松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキース)であった。抑え投手として活躍。
- 2005年 救援失敗が続いた上、味方投手の好調に押し出されてホワイトソックスを自由契約(戦力外)に。その後ホワイトソックスとマイナー契約したものの、8月1日に解雇。その後、8月12日にニューヨーク・メッツとマイナー契約し後にメジャー昇格を果たすが、オフにFAとなり退団。メジャーリーグでプレーした2年間で27セーブを記録した。
- 2006年 入団テストを経て、3年振りにヤクルトに復帰した。シーズン当初は中継ぎを任されたものの、抑え候補の石井弘寿・木田優夫らの離脱により、以前の定位置だった抑えを任せられるようになる。
- 2006年10月7日 対広島20回戦(神宮球場)で日米通算300セーブを達成。日米通算300セーブを達成している日本選手は、横浜ベイスターズと大リーグ、シアトル・マリナーズで活躍した佐々木主浩投手以来で、史上2人目。
[編集] 人物
- 100km/h台のシンカーは野村克也監督に「西武ライオンズの潮崎哲也のシンカーを盗め」と言われて完成させたもの。1992年、ヤクルトは日本シリーズで潮崎のシンカーに苦しめられた。このとき、高津にシンカーを教えたのが、キャンプで臨時コーチだった山田久志である。
- プロ野球の抑え投手と言えば佐々木主浩を筆頭として、150km/h級の剛速球とフォークボールを武器とする投手が大半であり、高津のように「打たせて取る」タイプの投手は異例である。しかしその抜群のコントロール、加えてバッテリーを組む古田敦也との絶妙なコンビネーションによって、球界屈指の抑え投手となった。
- プロ入り初セーブを上げた1993年5月2日、当時読売ジャイアンツ入団1年目の松井秀喜に、プロ入り第1号ホームランを献上した。これは野村監督が、スカウトが調べあげた松井秀喜の得意コースが本物であるか確かめるために、そこに球を放らせ続けたら見事にホームランを打たれた、というものであった。そのことから、高津の制球の良さがわかる。また、1996年のオールスター第2戦、イチロー登板に際して松井秀喜にかわる代打に送られたりと、MLBでの初対戦含め松井秀喜とはちょっとした縁がある。
- 登板時、得点圏までランナーをためるが後続をしっかり抑えるピッチングスタイルは「高津劇場」と呼ばれた。
- 日本シリーズでの通算8セーブ、10SPは日本記録である。また、日本シリーズでは通算11試合に登板して、1点も許していない。当然、防御率も0.00である。このためメジャーリーグに移籍した際は『Mr. Zero』と呼ばれた。
- 上記のようなピッチングスタイルから、ホワイトソックス時代には、USセルラーフィールドに「イッツ・シンゴタイム!」の表示がともった。
- シンカーの速度がアメリカの他の選手の投げるものより数段遅いため、解説者からはチェンジアップと呼ばれていた。日本では投球のほとんどがストレートとシンカーのみであったが、メジャーではカーブも投げるようになった。
- シーズン途中で解雇されたものの、その後ホワイトソックスがワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手している。
- 2005年12月5日放送(大阪)の「クイズ!紳助くん」にてゲスト解答者として出演。このときは「プー(太郎)です」(現在どこの球団とも契約していない、という意味)と語っていた。
- プロ野球選手をタレント的に扱った最初の雑誌『プロ野球ai』(1991年~)創刊時に一番人気があった選手だった。人柄の良さと喋りの上手さ、面白キャラが受けて人気投票ではたいてい1位だった。
- カラオケの十八番はクリスタルキングの「大都会」。オフのプロ野球選手が登場する番組でも、クリスタルキングのムッシュ吉崎のパートをものまねで歌っている。野球界では岩本勉(引退)、佐伯貴弘と並ぶ「芸達者」として知られる。
- 選手名鑑の「趣味・特技」欄には、「マッチを使った手品はプロ級、将棋は初心者」と10年以上変わらずに掲載されている。
[編集] 略歴
- 身長・体重:180cm 73kg
- 投打:右投右打
- 出身地:広島県広島市
- 血液型:A型
- 球歴・入団経緯:広島工高 - 亜大 - ヤクルトスワローズ(1991年 - 2003年) - シカゴ・ホワイトソックス(2004年 - 2005年途) - ニューヨーク・メッツ(2005年) - 東京ヤクルトスワローズ(2006年 - )
- FA行使(日本):2003年(1回目)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1990年(3位)
- 英語表記:TAKATSU
- 推定年俸:5000万+出来高(2007年)
- 守備位置:投手
[編集] 年度別成績
- 表中のこの数字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 試合 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 完投 | 投球回 | 三振 | 失点 | 防御率 |
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1991年 | YS | 13 | 1 | 1 | 0 | 1 | 27 2/3 | 25 | 15 | 4.23 |
1992年 | YS | 23 | 5 | 3 | 0 | 3 | 82 2/3 | 63 | 48 | 4.68 |
1993年 | YS | 56 | 6 | 4 | 20 | 0 | 78 1/3 | 72 | 28 | 2.30 |
1994年 | YS | 47 | 8 | 4 | 19 | 0 | 72 1/3 | 54 | 25 | 2.86 |
1995年 | YS | 39 | 1 | 3 | 28 | 0 | 48 1/3 | 36 | 14 | 2.61 |
1996年 | YS | 39 | 2 | 6 | 21 | 0 | 50 | 35 | 18 | 3.24 |
1997年 | YS | 51 | 7 | 4 | 7 | 0 | 79 1/3 | 68 | 20 | 2.04 |
1998年 | YS | 42 | 2 | 3 | 3 | 0 | 45 1/3 | 32 | 29 | 5.56 |
1999年 | YS | 40 | 1 | 1 | 30 | 0 | 41 1/3 | 38 | 11 | 2.18 |
2000年 | YS | 35 | 0 | 1 | 29 | 0 | 34 2/3 | 29 | 8 | 2.08 |
2001年 | YS | 52 | 0 | 4 | 37 | 0 | 51 2/3 | 39 | 17 | 2.61 |
2002年 | YS | 44 | 0 | 2 | 32 | 0 | 41 2/3 | 28 | 19 | 3.89 |
2003年 | YS | 44 | 2 | 3 | 34 | 0 | 42 | 28 | 19 | 3.89 |
2004年 | CWS | 56 | 6 | 4 | 19 | 0 | 62 1/3 | 50 | 16 | 2.31 |
2005年 | CWS | 31 | 1 | 2 | 8 | 0 | 28 2/3 | 32 | 19 | 5.97 |
2005年 | NYM | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 2/3 | 6 | 2 | 2.35 |
2006年 | YS | 48 | 1 | 2 | 13 | 0 | 42 2/3 | 31 | 15 | 2.74 |
[編集] 日米通算成績
- NPB通算(1991年~2003年,2006年) 573試合 36勝41敗273S 738投球回 576奪三振 防御率3.11
- MLB通算(2004年~2005年) 99試合 8勝6敗27S 98 2/3投球回 88奪三振 防御率3.375
- AAA通算(2005年) 7試合 0勝1敗0S 7 2/3投球回 6奪三振 防御率3.375
- 日米通算(1991年~) 632試合 44勝47敗300S 794投球回 664奪三振 防御率3.14
- (2006年シーズン終了時点)
[編集] タイトル・表彰
[編集] 記録
- 2002年4月28日 通算200セーブ(史上2人目)達成
- 2003年6月20日 270セーブポイント(日本記録)達成
- 2003年12月 名球界入り
- 2006年10月7日 日米通算300セーブ(史上2人目)達成。(1位は佐々木主浩)
- 2006年10月7日 通算273セーブ(日本記録)達成。
[編集] 背番号
- 22(1990年~2003年) ヤクルトスワローズ
- 10(2004年~2005年途中) シカゴ・ホワイトソックス
- 18(2005年途中) ノーフォーク・タイズ(ニューヨーク・メッツAAA)
- 10(2005年途中~末) ニューヨーク・メッツ
- 11(2006年) 東京ヤクルトスワローズ
- 22(2007年~) 東京ヤクルトスワローズ
[編集] 著書
- 『ナンバー2の男』(2004年、ぴあ)ISBN 4835609301
[編集] 関連項目
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72 伊東昭光 | 79 成本年秀 | 77 八重樫幸雄 | 73 杉村繁 | 83 馬場敏史 | 82 佐藤真一 | 71 中西親志 | 93 海老野貴勇 | 80 二軍監督 小川淳司 | 84 伊藤智仁 | 99 山部太 | 74 荒井幸雄 | 75 土橋勝征 | 76 角富士夫 | 85 飯田哲也 | 70 上原茂行 | 89 猿渡寛茂 | 97 高橋寛 |
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