斉藤明夫
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斉藤 明夫(さいとう あきお 1955年2月23日 - )は京都府出身のプロ野球選手、野球解説者。現役時代は大洋ホエールズ・横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズで投手として活躍した。右投げ右打ち。大洋・横浜大洋・横浜全ての時代で活躍した唯一の選手である。1982年までの登録名・及び本名は斉藤 明雄(読み同じ)。力のあるストレートとおちょくったようなスローカーブを武器に活躍。
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[編集] 来歴・人物
花園高等学校を経て大阪商業大学へ進学。全日本大学野球選手権大会で2度の優勝投手に輝いた逸材として、1976年秋のドラフトで大洋ホエールズから1位指名を受け入団。球団は斉藤への期待を込め、秋山登や山下律夫らが付けたエースナンバーの17を与えた。
1977年は、新人ながら開幕1軍。8月30日の対巨人戦で、王貞治の本塁打世界記録(755本)達成を阻止したうえプロ初完封、一躍脚光を浴びる。このシーズンは8勝9敗で、西本聖を押し退けて新人王を獲得。翌1978年は、新築された横浜スタジアムのオープニングゲームに先発。見事に完投勝利し、同球場の公式戦勝利投手第一号となる。この頃からトレードマークの口ひげを蓄えるようになる。1981年には遠藤一彦と入れ替わりで抑え投手に転向。5勝5敗10Sを挙げる。1982年登録名を「明雄」から「明夫」に改名。当時の日本記録である8連続Sとシーズン30Sを達成、リーグ最多セーブを記録する。さらに規定投球回に達し最優秀防御率のタイトルも獲得。1983年には10勝8敗22Sで最優秀救援投手のタイトルを獲得。1986年には2度目の最優秀救援投手となる。
しかし、1988年の開幕直後に右膝半月板を損傷し、先発投手に再転向。7月3日の対中日戦で、右投手では史上初、左右あわせても史上3人目の通算100勝100Sを達成する。1993年には投手兼任コーチに就任するも持病の右膝痛が悪化し(主治医には「60歳代の膝と同じ状態」と言われた)、現役引退を表明。10月20日の対ヤクルト戦で通算600試合登板を果たし、2日後の10月22日の対広島戦で現役最終登板。
引退後は1994年~1995年フジテレビの解説者、1996年~1999年横浜一軍投手コーチ、2000年~2006年フジテレビおよびニッポン放送解説者、2007年より横浜一軍投手チーフコーチに復帰する。
[編集] エピソード
- 口ヒゲを蓄えた、いかつい風貌がトレードマークで、大洋ファンのみならず他球団のファンからも「ヒゲの斉藤」と呼ばれ記憶された。
- プロ野球史上で唯一、100勝100セーブをマークしながら優勝経験のない投手である。そのためか、1998年にコーチとして優勝の瞬間を迎えたときは、現役選手と同じくらい喜んでいた。
- 1992年に巨人に在籍していたロイド・モスビーに顔が似ていることを指摘され、かなり気にしていた。
- 同時期に大洋の先発エースだった遠藤一彦が快速球とフォークボールで三振の山を築いていったのに対し、球速もコントロールも傑出したものを持たなかった斉藤は、人並みはずれた気迫とヒゲの強面で相手打者を威嚇して討ち取った。特に巨人戦では普段にも増して闘志をむき出しにしたため、全国区ではアンチヒーローとしてのイメージが濃かった。しかし、解説者としての斉藤は穏やかで温和な語り口である。
- 現役時代から「怒らせたら恐い」ことで有名であった。それは現役を離れてからも同じである。コーチ時代、横浜の投手・五十嵐英樹が巨人の吉原孝介に危険球を与えた試合では、五十嵐は何度も頭を下げているにも関わらず巨人選手が詰めかけ、大乱闘に発展。その後乱闘自体は何とか静まったものの、本体とは関係無いところで巨人の井上真二に対して斉藤が激怒。今にも殴ろうとしていたため、横浜の波留敏夫、秋元宏作、井上純が3人がかりで必死で止めた。金網に押し付けるようにして止めていたが、波留が一瞬目を離した隙に再び襲い掛かろうとしたため、またもや数人で止められている。この場面は珍プレー好プレーで傑作とされ、何度も流されている。ちなみに、何故斉藤が井上真二に激怒したかは不明である。
- マウンドでは恐い斉藤であったが、ベンチに戻れば穏やかであったとされる。記者の質問に関しても、斉藤の返答が記者に分かりづらかったり、理解できないようであれば、何度でも答えてくれると言うことで、番記者には好評であった。
- 川崎時代に大洋に入団した選手の中で、ベイスターズのユニフォームを着るまで現役を続けたのは斉藤ただ一人である。
- 600試合登板を果たした1993年10月20日、すでに引退を表明していた斉藤は試合前からユニフォーム姿で横浜公園内に現れ、通りすがるファンからのサインや握手に応じた。
- 2001年からプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスに参加。2002年~2003年シーズンには同リーグのMVPに輝いている。また、マスターズリーグでは極稀にみせる背面投げ(中日の小川健太郎投手が王貞治選手を抑えるためにうみだした投法)という珍投法でファンを沸かせている。現役時代もオープン戦で一度、披露したことがある。後にトリビアの泉でも横浜スタジアムで披露し、レフト前ヒットを打たれたが、「打たれたことよりも、ストライクが入って嬉しい」とコメントした。
[編集] 背番号
- 1977年~1993年 17
- 1996年~1999年・2007年~ 77
[編集] 年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗北 | セーブ | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977年 | 大洋 | 38 | 3 | 1 | 0 | 8 | 9 | 0 | 141.1 | 156 | 17 | 64 | 87 | 69 | 4.40(18) |
1978年 | 大洋 | 47 | 12 | 2 | 3 | 16 | 15 | 4 | 241 | 234 | 24 | 73 | 162 | 84 | 3.14(3) |
1979年 | 大洋 | 37 | 10 | 2 | 1 | 11 | 6 | 0 | 196.1 | 198 | 25 | 59 | 138 | 88 | 4.04(15) |
1980年 | 大洋 | 35 | 17 | 1 | 2 | 14 | 17 | 1 | 247.1 | 245 | 24 | 75 | 165 | 104 | 3.79(13) |
1981年 | 大洋 | 47 | 3 | 0 | 0 | 5 | 15 | 10 | 169.1 | 195 | 18 | 65 | 100 | 81 | 4.31(18) |
1982年 | 大洋 | 56 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | 30 | 134.2 | 109 | 12 | 36 | 80 | 31 | 2.07(1) |
1983年 | 大洋 | 54 | 0 | 0 | 0 | 10 | 8 | 22 | 116 | 113 | 14 | 47 | 67 | 46 | 3.57 |
1984年 | 大洋 | 43 | 1 | 1 | 0 | 11 | 6 | 10 | 94 | 115 | 10 | 33 | 53 | 51 | 4.88 |
1985年 | 大洋 | 55 | 0 | 0 | 0 | 9 | 5 | 18 | 109.2 | 93 | 9 | 22 | 72 | 26 | 2.13 |
1986年 | 大洋 | 44 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | 23 | 78 | 62 | 10 | 13 | 49 | 16 | 1.85 |
1987年 | 大洋 | 39 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 15 | 70.2 | 57 | 6 | 16 | 36 | 17 | 2.17 |
1988年 | 大洋 | 24 | 2 | 0 | 1 | 5 | 4 | 0 | 105.2 | 114 | 4 | 29 | 38 | 41 | 3.49 |
1989年 | 大洋 | 18 | 5 | 2 | 1 | 8 | 6 | 0 | 117.1 | 127 | 12 | 36 | 49 | 42 | 3.22 |
1990年 | 大洋 | 24 | 6 | 1 | 2 | 10 | 7 | 0 | 150.1 | 144 | 15 | 41 | 98 | 68 | 4.07(19) |
1991年 | 大洋 | 17 | 1 | 1 | 0 | 4 | 6 | 0 | 99.2 | 103 | 10 | 28 | 57 | 40 | 3.61 |
1992年 | 大洋 | 17 | 4 | 0 | 2 | 3 | 8 | 0 | 91.1 | 92 | 12 | 15 | 66 | 37 | 3.65 |
1993年 | 横浜 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10.2 | 20 | 3 | 3 | 4 | 9 | 7.59 |
通算成績 | --- | 601 | 64 | 11 | 12 | 128 | 125 | 133 | 2173.1 | 2177 | 225 | 655 | 1321 | 850 | 3.52 |
[編集] タイトル・表彰
[編集] オールスターゲーム出場
- 1978年
- 1981年
- 1982年(このとき、斉藤は7回から登板し延長11回まで5イニングを投げた。これはオールスターゲームにおける連続投球回数の日本記録であるが、現在のオールスターのルールでは延長戦なし1投手3イニングまでの投球のため、現行のルールである限りこの記録が破られる事はない。)
- 1983年
- 1985年
- 1987年
[編集] 関連項目
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85 監督 大矢明彦 | 72 弘田澄男 | 71 波留敏夫 | 77 斉藤明夫 | 75 野村弘樹 | 82 進藤達哉 | 73 青山道雄 | 84 秋元宏作 | 98 片平保彦 | 87 塚原賢治 | 70 ジョン・ターニー | 76 二軍監督 田代富雄 | 78 高木由一 | 80 中根仁 | 74 吉田篤史 | 83 武藤潤一郎 | 81 万永貴司 | 90 井上純 | 86 中村武志 | 93 三浦正行 | 89 谷川哲也 | 95 平野元章 |