権藤博
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権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球監督。現役時代の酷使(後述)に耐え切れず引退した悲運の投手。引退後は中日、近鉄、ダイエー、横浜のコーチ・監督を歴任した。現在は野球評論家として活躍。鈴木孝政、小松辰雄、牛島和彦、吉井理人、阿波野秀幸、村田勝喜、吉田豊彦、下柳剛などを育てたコーチとして知られる。
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[編集] 来歴・人物
鳥栖高校からブリヂストンタイヤを経て1961年に中日へ入団。同年のオープン戦で28回3分の1を投げて自責点1(防御率0.31)という驚異的な成績を残し、1年目よりエースとして大車輪の活躍。この年チーム試合数130の半分以上に当たる69試合に登板、そのうち先発登板は44試合。35勝19敗、投球回数429 1/3回、奪三振310、防御率1.70を記録。連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれた。当時はまだ先発ローテーションなどなくエース格の投手が優先的に登板していた時代であり、同年パ・リーグでは稲尾和久(西鉄)が78試合に登板し42勝の日本記録を樹立しているが、こと先発登板に限定すれば権藤ほどの連投は戦後久しく例がなかったのである。翌年は多少数字を落とすも、61試合に登板(先発登板39)、30勝17敗、投球回数362 1/3回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し2年連続最多勝に輝いた。しかし3年目の1963年に10勝しか挙げられず、1964年は6勝と調子を落とした。1965年から打者に転向するが芽が出ず、1968年に投手復帰するも球威が衰え30歳の若さで引退した。
引退後1973年~1980年中日2軍投手コーチ。1981年~1983年中日1軍投手コーチ。東海テレビ野球解説者・中日スポーツ評論家を経て1988年~1989年に近鉄投手コーチ、1991年ダイエー投手コーチ、1997年横浜バッテリーチーフコーチ。1998年に横浜監督に就任し、チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。また、権藤にとってこの年の日本一はプロ入り38年目にしてようやく手にした勲章でもあった。2000年に監督退任。現在は野球評論家として東海ラジオ放送、文化放送、スポーツ報知に出演。古巣の東海テレビでも本数契約で出演している。自身の体験から「投手の肩は消耗品」が持論である。横浜の監督となった1998年には抑え投手の佐々木主浩を不動の中心とし、対して中継ぎ投手にはローテーションを組み連投による疲労を最小限に抑制した(だがダイエーコーチ時代、下柳剛に関しては「奴はどれだけ放っても壊れない」として例外とし、制球力をつけさせるために毎日登板させていた。)。
一方「俺は投手の事しかわからない」と公言、攻撃面の作戦進行はヘッドコーチの山下大輔や打撃コーチの高木由一に一任し、攻撃時の打者へのサインを最小限に止め選手の自主性に任せるなど、多様な采配を見せた。このときの横浜はいわゆる「マシンガン打線」の絶頂期であり、投手の起用法さえしっかりしておけば、細かなサインプレーなどせずとも打線は得点を重ねた。だが、選手が審判に抗議してほしいときも抗議しない、打撃陣がスランプのときも関心を示さない、などといった権藤の審判絶対主義・放任主義は時を経るごとに弊害を露呈し始め、選手、特に野手陣との亀裂が深まってゆく。その象徴的な出来事として、2000年の広島戦で、左打者の駒田徳広に相手投手が右投げにも関わらず右打者を代打に送ったことで、プライドを傷つけたれた駒田が試合中にも関わらず帰宅するという造反事件が起こる。
駒田はこのシーズン終了後に戦力外通告を受け引退するが、一方の権藤もこの事件を機にチーム内で完全に孤立し(ただし、ロバート・ローズが引退後、「権藤は最高のボスだった」と告白している。他の多くの野手も権藤イズムにフィットし、ピークを過ごした選手も多く、実際に対立していたのは当時のチームリーダー役で、どうしても権藤とは対極の緻密な野球理論を持たざるを得ない石井琢朗や駒田くらいだったとの見方もある)、当時の球団社長、大堀隆氏とは兄弟のように蜜月だったが、他のフロント陣との対立も相俟って同年限りで退任した。また優勝メンバーを固定しすぎたために若手野手が育たなかったことが、今日まで続くチームの低迷に繋がったという意見もある。権藤は横浜の球団史上たった二人しかいない優勝監督の一人であるが、任期の後半にこうしたマイナス点も残したことから、後年のファンからの評価は賛否両論となってしまっている。
権藤の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、権藤の現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、現代のプロ野球に多大な影響を与えた。
[編集] エピソード
- 同じ九州出身の大投手・稲尾を尊敬しており、投球フォームから普段の歩き方まで稲尾を模写するという私淑ぶりだった。もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評価を受けていた。東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向して欲しいという要請があったという、嘘のような逸話がある。
- 指導者としては直言居士で、たとえ上司であっても間違った意見にはトコトン喧嘩を挑むタイプであり、近鉄時代には仰木彬監督と、ダイエー時代には田淵幸一監督との不仲説も噂されたほどであった。
- 一方で「審判は絶対である」という原則を遵守し、判定には殆ど異議を唱えることが無かった。横浜時代、選手が「抗議して下さい」と頼んでやっと腰を上げたという。
- 権藤はドラフト会議で指名された選手達は才能があるからドラフトで指名されたのであって、全員にプロの選手としての素質と可能性があると考える一方で、全員が200勝、300勝を挙げられる様な名投手になれる訳ではないとして、現役時代に名投手と呼ばれた人達が監督やコーチとして選手達の素質や適性を考慮せずに現役時代の自分と同じ指導法を押し付ける風潮がある事を強く懸念していた。コーチ時代、「先発投手は完投が基本」であると考える元投手で名球会会員の某野球解説者が権藤の指導法を「手ぬるい」と批判した。すると、権藤はその解説者に対して「全てのピッチャーがあなたと同じ(200勝投手)になれる訳ではない」と言い返したという。
- また、恥ずかしがり屋の一面も持ち、横浜監督時代は自らを「監督」ではなく「権藤さん」と呼ぶように指示していた。これは選手・スタッフ一同だけでなく、取材陣も対象とされ、違反した場合は罰金1000円を支払う事になっていた(みずしな孝之の漫画、「ササキ様に願いを」では消費税も取るキャラとしてパロディ化されている)。また、試合後のインタビューもあまり愛想よく応じず、リーグ優勝を果たした試合でも、胴上げ直後の権藤は勝利監督インタビューも一言二言だけで終わらせ、その後の個別インタビューも「主役は選手だから」と出演を控えた。
- ダッグアウトで采配を取るとき、ベンチに座らず立ち上がったままアゴもしくは頬に掌を当てる姿がしばしば中継カメラに映された。このスタイルは権藤のトレードマークとなり、当時のスポーツ新聞や週刊誌の風刺漫画ではよくネタにされていた。
- 監督としての権藤は、何よりも「野球は選手がやるもの。監督は選手の才能を自由に発揮出来る環境を作るだけ」という哲学を貫いた。これに対し、同時期にヤクルト・阪神の監督であり「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」という持論を展開する野村克也は、権藤の采配スタイルやマシンガン打線を「勝手無礼な行儀の悪い野球」と主張し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開した。
- 特に1998年、優勝マジック3の横浜は10月3~6日と地元でヤクルトとの4連戦を迎え、地元胴上げの期待は最高潮に達していたが、野村は「1年目の権藤に簡単に優勝させるわけにはいかない」と闘争心を露にし、当時好調だった川崎憲次郎、石井一久、伊藤智仁らをぶつけて3連勝して地元胴上げを阻止した。
- 権藤は野村による一連の批判が相当不快であったようで、オフのトークショーで観客から「野村監督は好きですか?」と質問され、「どちらかといえば大嫌いです」と返し、後年には「私の在任期間中、ノムさん(が指揮したチーム)に負け越した事は一度もなかった」と豪語、野村の理論よりも自論が正しかった事を(リップサービスとしての要素も多分に含むが)強調している。
[編集] 現役時代の成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
[編集] 投手部門
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝利 | 敗北 | 投球回 | 安打 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961年 | 中日 | 69 | 32 | 12 | 8 | 35 | 19 | 429.1 | 321 | 20 | 73 | 310 | 81 | 1.70(1) |
1962年 | 中日 | 61 | 23 | 6 | 3 | 30 | 17 | 362.1 | 307 | 26 | 72 | 212 | 94 | 2.33(10) |
1963年 | 中日 | 45 | 9 | 0 | 1 | 10 | 12 | 220.2 | 205 | 29 | 83 | 88 | 94 | 3.83(16) |
1964年 | 中日 | 26 | 3 | 0 | 1 | 6 | 11 | 105.1 | 105 | 12 | 48 | 47 | 49 | 4.20 |
1968年 | 中日 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 18.1 | 32 | 5 | 13 | 10 | 22 | 11.00 |
通算成績 | --- | 210 | 67 | 18 | 13 | 82 | 60 | 1136 | 970 | 92 | 289 | 667 | 340 | 2.69 |
[編集] 打撃部門
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961年 | 中日 | 70 | 144 | 18 | 31 | 7 | 0 | 1 | 8 | 1 | 13 | 0 | 6 | 24 | .215 |
1962年 | 中日 | 61 | 117 | 10 | 25 | 5 | 0 | 4 | 13 | 0 | 8 | 1 | 4 | 19 | .214 |
1963年 | 中日 | 49 | 76 | 8 | 18 | 5 | 0 | 3 | 8 | 0 | 3 | 0 | 4 | 12 | .237 |
1964年 | 中日 | 29 | 38 | 3 | 7 | 2 | 0 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | .184 |
1965年 | 中日 | 81 | 196 | 28 | 39 | 11 | 0 | 3 | 18 | 3 | 2 | 0 | 14 | 24 | .199 |
1966年 | 中日 | 54 | 179 | 17 | 32 | 7 | 1 | 1 | 7 | 2 | 4 | 1 | 14 | 28 | .179 |
1967年 | 中日 | 107 | 288 | 34 | 62 | 8 | 3 | 5 | 27 | 6 | 26 | 4 | 13 | 50 | .215 |
1968年 | 中日 | 12 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 |
通算成績 | --- | 463 | 1041 | 119 | 214 | 45 | 4 | 18 | 85 | 12 | 56 | 6 | 56 | 163 | .206 |
[編集] タイトル・表彰
- 新人王 (1961年)
- 最多勝 2回 (1961年、1962年)
- 最優秀防御率 (1961年)
- 最多奪三振 (1961年)
- 沢村賞 (1961年)
- ベストナイン (1961年)
- オールスターゲーム出場 3回 (1961年~1963年)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
1998年 | 平成10年 | 1位 | 136 | 79 | 56 | 1 | .585 | ― | 100 | .277 | 3.49 | 60歳 | 横浜 |
1999年 | 平成11年 | 3位 | 135 | 71 | 64 | 0 | .526 | 10 | 140 | .294 | 4.44 | 61歳 | |
2000年 | 平成12年 | 3位 | 136 | 69 | 66 | 1 | .511 | 9 | 103 | .277 | 3.92 | 62歳 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1998年から2000年までは135試合制
- 監督通算成績 407試合 219勝186敗2分 勝率.541
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。