東池袋
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東池袋(ひがしいけぶくろ)は、東京都豊島区の地名。郵便番号は170-0013。
池袋駅東口北側の地域で、日本有数の繁華街池袋を形成する。豊島区役所や三越、サンシャインシティがあり大衆的な商業施設がひしめいている。
地名は、池袋駅の東側に位置することに由来する。元々は大半が雑司ヶ谷村に属しており、本来の池袋村とは関係が薄い。
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[編集] 地理
おおむねJR山手線環内で、国道254号(春日通り)の南側、グリーン大通り(旧称:市電通り)の北側に一丁目から五丁目まで存在する。
かつては雑司ヶ谷の名の通り雑木林に覆われた土地であった。この現在の東池袋及び南池袋一帯は、江戸時代には旗本三千石中西公の拝領地であったために「中西の森」と呼ばれ、明治時代に根津嘉一郎が土地を買収すると「根津山」と呼ばれるようになった。「根津山」とは現在の豊島岡女子学園中学校・高等学校あたりにあった小さな丘のことだが、この周辺一帯の地名として使われた。戦争中は大規模な防空壕があり付近の避難場所ともなった。
南池袋にかけて寺社が多数あり喧騒なイメージと異なった静寂さが広がっている。そのため各種学校・大学もあり池袋東口の豊かな一面をのぞかせる。グリーン大通り北東側の豊島岡女子学園に隣接して人生横丁(飲酒飲食店街)がある。また明治天皇野点の碑もある。副都心の商業集積地区と昭和時代の古い猥雑さとが奇妙に同居しているが、全体に高台で神田川に向けて緩やかに下っているので、住宅地としても良好である。
[編集] 歴史
江戸時代には豊嶋郡池袋村及び雑司ヶ谷村の一部であった。
- 1878年(明治11年)7月22日 - 池袋村、雑司ヶ谷村が、郡区町村編制法により北豊島郡所属となる。
- 1889年(明治22年)5月1日 - 町村制施行により北豊島郡巣鴨村が発足。大字池袋、巣鴨、雑司ヶ谷となる。
- 1918年(大正7年)7月20日 - 巣鴨村が町制施行し北豊島郡西巣鴨町となる。この地域の大字名は代わらず。
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 巣鴨村が東京市に編入され豊島区の一部となることに伴い、池袋一・二丁目、西巣鴨一・二丁目、雑司ヶ谷町となる。
- この後、幾度か地名が変更される。
- 1966年(昭和41年)11月1日 - 新住居表示に伴い、池袋東一丁目の大半、池袋東の一部、西巣鴨一丁目の全部、西巣鴨二丁目の一部、日出町一・二丁目の北半分をあわせ、東池袋となる。
[編集] 交通
- 主な道路:首都高速道路5号池袋線(東池袋出入口)、国道254号(春日通り)、東京都道435号音羽池袋線(グリーン大通り)、東京都道305号芝新宿王子線(明治通り)
- 主な鉄道:東京メトロ有楽町線(東池袋駅)、都電荒川線(東池袋四丁目停留所)
[編集] 主な施設
[編集] 東池袋地区再開発計画
「東池袋四丁目地区再開発地区計画」及び「東池袋四丁目地区地区計画」として、東池袋四丁目及び南池袋二丁目の一部における再開発が進められている。
- 池袋駅南側のびっくりガード付近より小さな川が流れておりかつて神田川に注いでいた。流域が町内にありこの水運を利用して旧大蔵省造幣局が貨幣を鋳造していた。現在では一般公開する展示室になっているが付近ではその周辺工程を行う工場が多かった。
- 工場は小規模なものでなおかつ暗渠沿いにあるので周辺は道路付けもままならず幅1m前後の通路で連絡されている。地元豊島区も防災防犯の立場から広場を開設しており特徴的な町並みである。特に都電荒川線の東池袋四丁目駅と向原駅の間は密集市街地であり都心でも長屋の風景が未だに残っている。
- 都電軌道より都心側は一部文京区大塚になり護国寺も近い。以前は大日本愛国党の本部もあり未だに昭和時代の雰囲気が残っている。また都電沿線の商店街は未だ活況を呈しており、建物も歴史を感じさせるものと新しいものとが混在している。
- グリーン大通り沿いに区の文化施設が(一部住宅を含む)建設中である。豊島区立中央図書館が更に文化設備を加えて平成19年度より新規開館予定である。