柏原純一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柏原 純一(かしわばら じゅんいち 1952年6月15日 - )は、昭和後期から末期(1970年代~1980年代)のプロ野球選手。現役時代は南海ホークス、日本ハムファイターズ、阪神タイガースで活躍した。現在は日本ハムのスカウト。熊本県八代市出身。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1971年、熊本県立八代東高等学校よりドラフト8位で南海ホークスに入団。高校までは投手であったが、外野手として入団。3年目の1973年に一軍に上がり、内野手に転向し二塁手となるが、当時のドン・ブレイザーヘッドコーチに失格の烙印を押され、1976年からは一塁手に転向、レギュラーとなり、1976年~1977年に連続して二ケタ本塁打をマークし南海のホープとして期待される。
しかし、1977年シーズン途中での野村克也監督の公私混同等を巡る解任で球団に反旗を翻し、野村とおなじロッテへの移籍を直訴するも認められず、1978年に日本ハムへ1対2のトレードで移籍。日本ハムでは移籍1年目から4番を任され、終ってみれば全試合出場し34本塁打、84打点(ともにリーグ5位)と自身最高の成績を記録、球団の11年ぶりのAクラス入りに貢献した。1981年には.310、16本塁打、81打点の成績をあげてチームのパ・リーグ優勝に貢献。1980年~1984年に5年連続全試合出場を果たした。
その後低迷し、1986年に阪神に移籍、1988年限りで現役引退。引退後、1989年~1995年阪神打撃コーチ。1996年~1997年中日ドラゴンズ打撃コーチ、1999年~2001年はかつての恩師である野村監督に請われ、再び阪神打撃コーチを務めた。2002年~2003年、朝日放送、サンテレビジョン、Tigers-ai、サンケイスポーツ(大阪)で解説を務め、2004年古巣北海道日本ハムファイターズチーム強化部プロスカウトに就任し、2006年よりアマ担当「西日本統括スカウト」に就任した。
[編集] 年度別成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1973年 | 南海 | 25 | 65 | 7 | 18 | 3 | 1 | 1 | 6 | 2 | 0 | 0 | 5 | 8 | .277 |
1974年 | 南海 | 82 | 188 | 24 | 45 | 10 | 1 | 6 | 21 | 7 | 0 | 1 | 21 | 39 | .239 |
1975年 | 南海 | 70 | 186 | 20 | 41 | 3 | 1 | 6 | 29 | 6 | 0 | 3 | 22 | 14 | .220 |
1976年 | 南海 | 124 | 435 | 48 | 113 | 18 | 4 | 16 | 55 | 26 | 4 | 2 | 46 | 59 | .260(22) |
1977年 | 南海 | 129 | 462 | 65 | 118 | 19 | 3 | 18 | 54 | 12 | 2 | 2 | 41 | 58 | .255(22) |
1978年 | 日本ハム | 130 | 500 | 72 | 147 | 18 | 4 | 34 | 84 | 15 | 0 | 4 | 51 | 64 | .294(13) |
1979年 | 日本ハム | 123 | 487 | 77 | 139 | 18 | 3 | 22 | 90 | 18 | 0 | 3 | 55 | 47 | .285(22) |
1980年 | 日本ハム | 130 | 503 | 82 | 133 | 17 | 3 | 34 | 96 | 8 | 0 | 4 | 71 | 61 | .264(30) |
1981年 | 日本ハム | 130 | 468 | 92 | 145 | 22 | 3 | 16 | 81 | 15 | 1 | 6 | 88 | 39 | .310(8) |
1982年 | 日本ハム | 130 | 470 | 71 | 134 | 22 | 1 | 22 | 75 | 3 | 0 | 5 | 53 | 41 | .285(10) |
1983年 | 日本ハム | 130 | 490 | 68 | 138 | 21 | 0 | 26 | 89 | 6 | 2 | 7 | 58 | 39 | .282(20) |
1984年 | 日本ハム | 130 | 454 | 67 | 103 | 15 | 1 | 18 | 68 | 13 | 0 | 3 | 68 | 57 | .227(33) |
1985年 | 日本ハム | 94 | 185 | 26 | 40 | 5 | 0 | 5 | 18 | 3 | 3 | 1 | 34 | 19 | .216 |
1986年 | 阪神 | 107 | 310 | 49 | 97 | 20 | 1 | 17 | 46 | 3 | 0 | 2 | 33 | 49 | .313 |
1987年 | 阪神 | 57 | 91 | 4 | 16 | 3 | 0 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 9 | 23 | .176 |
1988年 | 阪神 | 51 | 59 | 3 | 10 | 5 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 1 | 7 | 9 | .169 |
通算成績 | --- | 1642 | 5353 | 775 | 1437 | 219 | 26 | 232 | 818 | 140 | 13 | 44 | 660 | 618 | .268 |
[編集] タイトル・表彰
- ベストナイン 3回(一塁手:1978年、1981年、1982年)
- ゴールデングラブ賞 4回(一塁手:1978年、1979年、1981年、1982年)
- オールスターゲーム出場 3回(1978年、1979年、1982年)
- オールスター最優秀選手(1982年第2戦)
[編集] 背番号
- 53(1971年~1974年)
- 9(1975年~1977年)
- 6(1978年~1985年)
- 2(1986年~1988年)
- 85(1989年~1995年)
- 75(1996年~1997年)
- 77(1999年~2001年)
[編集] エピソード
- 南海時代、後にチームメイトとなる江夏豊と共に野村と同じマンションに住むほど典型的な野村派で、打撃コーチの高畠康真と三人で野村一派と呼ばれ、柏原はその旗頭であった。
- 入団した年の秋季キャンプで、袴のようなダブダブのジャージ姿をみて、当時評論家として視察に来ていた青田昇が「あれは本当に野球選手か。早く郷に帰したらどうか」と酷評された。しかし2年後一軍のレギュラーとなり、大洋の監督に就任した青田の前に野村監督が柏原を連れて行き、「あのときああおっしゃたようですが、今じゃこんなに立派になりましたよ」と言った。
- 野村監督が監督生活の中で、唯一選手の家を抜き打ち訪問した選手でもある。
- 1981年7月19日、西武ライオンズの永射保投手から敬遠球を大根斬りしホームランを放つ。
- 家族は妻と娘三人がいたが、妻は美人の評判高い女性であった。日本ハム時代にはブラザーの電子レンジのCMに夫婦で出演したことがあり、阪神のコーチ時代には、柏原の妻を大野久がナンパしようとして声をかけていたところ、たまたま通りがかった柏原に見つかり柏原が大野を一喝したという出来事もあった。
- 1980年の7月某日の後楽園球場の対近鉄戦の試合前に日本ハム恒例のアトラクションで当時デビュー間もない柏原よしえがデビュー曲「NO.1」を歌った後で花束贈呈の儀式があったが、普通なら柏原よしえが球場へ招待されたのだから、そちらから花束贈呈をし「今日の試合頑張って下さい」という言葉を添えるものと思われたが、柏原純一側から贈呈があったのは意外、というか柏原純一の人の良さ(仮に元々そうなっていたにせよ)を垣間見る一瞬があった。そのおかげで柏原よしえはスターダムにのし上がり女性アイドル不動の地位を確立した。
- この年の別の日には、首都高速道路で自前のバットを用いて人命救助を行い表彰されている。
- 阪神に移籍した1986年に、大阪球場で古巣・南海とのオープン戦が開催された。南海・阪神両チームの新人・移籍選手が紹介された際、両チームの他の選手が内野席のみに頭を下げたのに対し、最年長の柏原はただ一人、外野席にも頭を下げ、両軍のファンから大きな歓声を浴びていた。
[編集] 関連項目
|
|
|
|
|