田中希代子
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田中 希代子(たなか きよこ, 1932年2月5日 - 1996年2月26日)は日本のピアニスト。日本人で初めて3つの国際コンクールに入賞。元NHK交響楽団コンサートマスター・田中千香士の姉。
[編集] 略歴
- 東京都出身。
- 4歳で幼稚園の先生からピアノの手ほどきを受ける。
- 6歳で小山郁之助に、その後井口基成に師事。運動神経は抜群で、当時のあだ名は「タアチン」。
- 1945年よりレオニード・クロイツァーに、その後長期にわたって安川加壽子に師事。
- 1949年、第18回日本音楽コンクールで2位特賞。
- 1950年、戦後初のフランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に入学。10月よりラザール・レヴィに師事。直後結核を発症。
- 1951年、レヴィのすすめで同音楽院の卒業試験を受けてみたところ、試験前日まで療養(療養中レッスンは1日1時間と制限されていた)していたにもかかわらず一等賞「プルミエ・プリ」で合格、卒業。
- 1952年、ジュネーヴ国際音楽コンクールに1位無しの2位(日本人初の入賞)。
- 1953年、ロン・ティボー国際音楽コンクール1位無しの4位(日本人初の入賞)。
- 1955年、第5回ショパン国際ピアノコンクール10位(日本人初の入賞)。この年初めて採用された点数計算機によれば、1次予選では5位、2次は19位、3次で6位だった。上位10人はほぼ横並びに等しく、1位のアダム・ハラシェヴィチ(ポーランド)と2位のウラディーミル・アシュケナージ(ソ連)の差はわずか0.1ポイントで、1位と10位の差も7.6ポイントしか開いていなかった。そのため、審査員だったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが、アシュケナージが2位で希代子が10位という結果に憤慨し、どちらの認定書にもサインを拒否して退席してしまっていたことが、1989年9月、ワルシャワの新聞「エクスプレス」によって、全段写真付きで明らかにされた。
- その後もパリ(1959年まで)やウィーン(1960年から)を拠点にヨーロッパから南米まで幅広い演奏活動を続ける。
- 1967年12月、帰国。その後体調を崩し、年末年始のコンサートをキャンセル。手の指が開かなくなり、関節が痛み、高熱が続く。病院では過労と診断。
- 1968年から東京に演奏活動の拠点を置くが、難病の膠原病と診断され、演奏活動が激減する。
- 1969年、京都市交響楽団との協演で、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏、これがオーケストラと協演した最後のステージとなった。このとき残念ながら第1楽章のコーダに入るところで希代子がミスをして止まってしまい、あっと小さな声をあげて弾き直しをするというハプニングがあった。病気のため引退寸前の時期に当たるので、当然厳しい状態であったのであろう。そしてそのままひっそりと演奏活動を引退した。
- その後は国立音楽大学(1973年より)、桐朋学園大学(1977年より)等で教鞭をとる。
- 1980年、膠原病治療のための薬の副作用のため脳梗塞で倒れ、右半身不随になる。
- 1987年、記念レコード発売。
- 1989年2月に放送された、TBSラジオ制作『「夜明けのショパン」~よみがえる天才ピアニスト田中希代子~』が第15回放送文化基金賞・奨励賞を受賞。
- 1993年、新日鉄音楽賞・特別賞を受賞。
- 1996年2月26日、東京で脳内出血のため死去。享年64。
海外での演奏活動が長かった為、海外のほうが知名度は高く、現在でも『東洋の奇跡』と呼ばれ、支持を得ている。尊敬していたピアニストはクララ・ハスキル。希代子にとって不運であったのは、丁度引退を余儀なくされた頃と前後して才色兼備の中村紘子がはなやかに登場し、多くの聴衆の支持を獲得したことである。奇しくも中村は、一時期希代子が師事した井口の妹である井口愛子に学んだ経歴を持つ。また、中村は希代子の演奏ぶりを力強く情熱的な演奏だったと述べている。さらに1970年代以後、日本の経済成長と共に外国の著名な演奏家の来日ラッシュが起こり、日本の聴衆の関心は外国の一流の音楽家に集中していった。
[編集] 弟子への教え
「極限まで耳を澄ます」ということ。レッスンは、口頭のみで行われたこともあり、その深い内容を理解し把握するには大変な集中力を要求された。「小さい子は見ない」という希代子が例外的に小学生の頃から時折レッスンをつけていたという愛弟子・田部京子によると、「先生は、お弾きにならないにもかかわらず、楽譜に指づかいをサーッと流れるように書いてくださるのですが、それは普通ではとても思いつかないようなものでした。でも、その通りに弾いていくうちに、やがて研究し尽くされたベストな指づかいであることが実感されてくるのです。」さらには、ある音から次の音へ移る間、前の音 が消えてしまうぐらい遅いテンポで弾く練習をしたことも忘れがたいと言う。
[編集] 田中希代子に師事した職業ピアニスト及びレスナー
- 井出久美子
- 岩野めぐみ
- 小賀野久美
- 河地恵理子
- 菊池洋子
- 小山恵
- 坂野伊都子
- 佐久間ちさ
- 佐藤裕子
- 志賀雅子
- 柴裕子
- 鈴木謙一郎
- 田部京子
- 田村明子
- 戸田洋子
- 永田郁代
- 林田賢
- 福田伸光
- 増田優子
- 三界晶子
- 吉澤京子
- 米倉邦子
- 米持隆之
- 渡辺啓美
他