織田幹雄
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男子 陸上競技 | ||
金 | 1928 | 男子 三段跳び |
織田 幹雄(おだ みきお、1905年3月30日 - 1998年12月2日)は、広島県安芸郡海田市町(現・海田町稲荷町)出身の元陸上選手。日本人初のオリンピック金メダリスト。
1922年、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)徒歩部(陸上競技部)時代、17歳で三段跳び日本新記録。1923年、第6回極東選手権で走り幅跳び、三段跳びで優勝。1924年のパリ・オリンピックに出場。日本選手団は陸上・水泳・テニス・レスリングの全28人だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走り幅跳びでは惜しくも入賞を逃したが、三段跳びで日本陸上初の入賞(6位)を果たした。1925年、早稲田大学商学部に進学。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」と呼ばれた競技名を自ら「三段跳び」と訳した。現在はトリプルジャンプと呼ばれている。1928年のアムステルダム・オリンピックでは日本選手団の主将として出場するとともに、8月2日に行われた三段跳び決勝で日本人初の金メダルを獲得した。記録は15m21cm。1931年、早稲田卒業後、朝日新聞社入社。同年10月27日、当時の三段跳びの世界記録(15m58cm)を樹立した。
オリンピックにおける日本人初の金メダル獲得という偉業を記念して、国立霞ヶ丘陸上競技場のトラック内に、優勝記録と同じ長さの、高さ15m21cmのポールが立っている。(なお同様のポールが海田町立海田小学校にもある)場所は1番ゲート正面付近でファンの間では「織田ポール」と呼ばれている他、渋谷区にある代々木公園陸上競技場(市民大会規模の競技会で使用される)も「織田フィールド」と命名されている。
1932年、ロサンゼルスオリンピックコーチ・主将兼選手として出場。選手生活を引退した戦後、1948年、JOC(日本オリンピック委員会)委員。1952年ヘルシンキオリンピック・1954年、マニラアジア大会陸上チーム監督。1959年、紫綬褒章受章。1964年、東京オリンピック陸上チーム総監督。1965年、母校である早稲田大学教授。その他IAAF(国際陸上競技連盟)の技術委員などを務めた。1976年、IOC(国際オリンピック委員会)からオリンピック功労賞受賞。1985年、東京都名誉都民。1988年に文化功労者に選出され、 広島県の名誉県民に選ばれている。1989年、JAAF(日本陸上競技連盟)名誉会長。 またその功績を称え1967年から「織田幹雄記念国際陸上競技大会」が毎年広島で開催されている。
[編集] エピソード
- アムステルダムオリンピックで金メダルを獲得したとき、掲揚用の日章旗を用意していなかった。持参したのは、勝者の体を包むための大型の旗だけだったので、やむなく表彰式ではこれを掲揚した。その結果、織田の日章旗だけが他の旗と比べて図抜けて大きいというアンバランスな姿になった。
- 同学年の南部忠平とは、早大時代から兄弟よりも仲がいいと言われ、お互い切磋琢磨し偉業を成し遂げた。