臥蛇島
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臥蛇島 | |
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座標 | 北緯29度54分 東経129度32分 |
面積 | 4.07km² |
海岸線長 | 9km |
最高標高 | 497m |
所在海域 | 東シナ海 |
所属国・地域 | 日本(鹿児島県十島村) |
臥蛇島(がじゃじま)とは、鹿児島県のトカラ列島に属し、トカラ列島で最大の中之島の西約28kmに位置する無人島である。行政上は鹿児島県鹿児島郡十島村に属する。1970年(昭和45年)に全島民が移住し無人島となった。
目次 |
[編集] 地勢
- 臥蛇の名前については、海東諸国記に「掛蛇島」、清汪楫録に「臥蛇また外蛇」と記されている。その名が示すとおり、島を沖から眺めると、蛇が伏せた様な形をしている。
- 年平均気温:18.1℃ 年間降水量:2619.7mm
- 長径約3km、短径約2km、最高点は御岳の497m。周囲は高さ50mから100mの断崖で、楠久浜に僅かだが海浜がある。平坦地は殆ど無く、北西部に緩やかな斜面があるのみ。
- 島そのものは新第三紀鮮新世の古い火山活動により出来たと考えられているが、無人化により地質調査が成されていない為、詳細は不明。主に安山岩により形成されている。
- 植生は主にリュウキュウチク群落、タブノキ・スダジイ群落、ビロウ群落から成る。
- 山:御岳・矢筈岳・五神岳・金居岳
- 大字名:湊・上村・中村・上原・赤土原・野・イタブ山・黒島崎・クスクノ浜・ヨカ子・エヒヤ・岩屋・ウチゴル・シブル・川浜
- 南東方向に小臥蛇島が存在する。
- 臥蛇島地図(国土地理院による地図閲覧サービス)
[編集] 年表
- 1185年(文治元年) 平家が壇ノ浦の戦いで大敗、その時平家一統が臥蛇島を含め十島の島々に落ち延びたとされている
- 1227年(安貞元年) 十島が川辺氏の支配下に入る
- 1434年(永享6年) 島津氏が臥蛇島と平島を種子島氏に与える
- 1513年(永正10年) 臥蛇島より種子島氏へ鰹節と鰹煎汁、綿を上納する
- 1761年(宝暦11年) 島津氏への年頭の祝儀に臥蛇島の郡司が七島の代表として謁見する
- 1875年(明治8年) 臥蛇島に副戸長が置かれる
- 1885年(明治18年) 金久支庁(大島島庁)の管轄に入る
- 1889年(明治22年) 一戸長と村民協議会が設置される
- 1897年(明治30年) 川辺郡から大島郡になる
- 1907年(明治40年) 定期船就航(実質不定期)
- 1908年(明治41年) 島嶼(とうしょ)町村制施行により十島村(じっとうそん)発足
- 1916年(大正5年) 区長が置かれる
- 1926年(大正15年) 大島島庁が廃止され、大島支庁の管轄に入る
- 1930年(昭和5年)5月 小学校令施行により中之島尋常小学校臥蛇島分教場発足
- 1933年(昭和8年) 村営船「十島丸」就航、月4往復運行となる
- 1940年(昭和15年) 臥蛇島灯台完成。島の人口が最大の133人となる
- 1941年(昭和16年)4月 国民学校令施行により十島村立中之島国民学校臥蛇島分校発足
- 1944年(昭和19年)10月 ヒノキ造りの臥蛇島分校落成
- 1946年(昭和21年) 敗戦によりアメリカの軍政下に置かれる
- 1948年(昭和23年) 学制改革により中之島小中学校臥蛇島分校発足
- 1952年(昭和27年) 日本へ復帰
- 1955年(昭和30年) 臥蛇島灯台が復旧
- 1956年(昭和31年) 簡易水道完成
- 1961年(昭和36年)9月 学校水道完成
- 1961年(昭和36年)12月 学校発電施設完成
- 1963年(昭和38年)3月 教職員住宅新築落成
- 1965年(昭和40年)7月 臥蛇島分校最初で最後の東京修学旅行が実現
- 1966年(昭和41年) 農村公衆電話開通
- 1968年(昭和43年)5月 完全学校給食実施
- 1970年(昭和45年)7月 臥蛇島分校閉校式
- 1970年(昭和45年)7月28日 臥蛇島から全世帯が移住、無人島となる
- 1970年(昭和45年)7月31日 臥蛇島分校廃校
- 1982年(昭和57年)4月 臥蛇島灯台が自動制御化により無人となる
- 1996年(平成8年) 中国人6人による不法入国事件が発生
[編集] 過去の状況
かつては人口が100人を越え、戦前はカツオ漁などにより他の島に比べ繁栄を誇っていたが、急峻な地形で築港できないなどの理由から徐々に衰退。戦後、一時期活況を見せたが、それも長くは続かなかった。やがて、島内で完結した自給自足の自然経済から貨幣経済への移行がせまられたこと、昭和30~40年代の集団就職等による人口減などの問題、さらに週一回の定期航路はシケのためしばしば欠航が続き飢饉騒ぎが起きたこと等、島での生活を維持していく事が困難になった。このため1970年(昭和45年)7月28日、全島民が鹿児島市等への集団移住を余儀なくされた。なお、この頃の人口は7世帯28人にまで減少しており、最後の日は4世帯16人であった。
[編集] 集落等の概要
島の周囲は約9km、その大半が高さ100m級の絶壁である。島民は、島の北部の比較的なだらかな前之浜近くの台地形地形に住んでいた(かつては上、中、下の三集落で形成)。とは言え海抜は50m以上もある為、海岸から人里までは急傾斜で危険な200段近い階段を登らなければならなかった。現在、木造であった住宅や学校などの建物は殆ど朽ち果て(リュウキュウチクの群落となっている)、残るのは島の守り神を祭った小さな鳥居と無人の灯台のみである。
なお、集落から南に八幡宮、南西に畑作地帯や放牧地帯があり、全て島の北部に集中している。
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- 八幡神社
- 島の総社であり、かつ集会や各種儀式を執り行う場であった。島民が島を去る際、新しく作られた小さな鳥居の側に、以下の文言が記された石碑を残している。これは、島で崇められていた神々を合祭した「神社」でもある。
- 「時代の流れの 過疎現象に依り 島民の人口も 著しく減少せり 左記の残島民 本土移住を前に 島の諸々の守り神の 御神霊を此に 安置す 昭和四十五年五月二十六日 神主 総代 区長」※個人名は省略
- なお、この碑文は分校最後の教職員・津曲勇(小学部教諭、中学部は妻のイクが講師)が依頼され、金クギで書いたものであるという。
- 御嶽神社
- 御岳の山頂にあり、山の神を祭っていた。
- 若宮神社
- ※これらの神社の宝物や祭具等については、中之島にある中央公民館や鹿児島市の黎明館に保管されている。
[編集] 教育
- 臥蛇島分校 〒891-52鹿児島県大島郡十島村臥蛇島 ℡中之島局21次 ※この頃は大島郡
- 廃校時の教職員数2名(小学部1名・中学部1名)・児童生徒数7名(小学部3名・中学部4名)
- 中之島小・中学校の分校であり、小学部・中学部のいずれも教職員が1名で全ての教科を教えていた(昭和44年までは小学部へ1名助教諭が付いていた)。
- 児童生徒数が少なかった為、小学1年生から6年生で1教室、中学1年生から3年生で1教室の単一複式学級であった。ゆえに同時に複数の学年の授業内容を進行しなければならず、教師にとっても児童生徒にとっても大変負担の大きい環境であった。
- 校舎は総ヒノキ製で、当時村内では最も立派な造りであったという。延べ約100平方メートルで、昭和19年に島の沿岸で座礁した台湾航路の貨客船が、脱出の為に海に投棄したヒノキの原木によって建設された。
- 建築費用には、島内の全世帯から徴収した積み立て基金の他に、各世帯及び青年団・婦人会からの寄付金、遭難船からの救助謝金、牛の売却益など、総額644円40銭が充てられた。
[編集] 報道・通信等
- 電気
- 分校にディーゼル発電機を設置し、それを各世帯に送電していた。発電量が少なく、利用時間も制限されたものであったが、世帯の殆どが照明以外の利用が無く、また、ランプとの併用であった為、需要にはほぼ足りていたという。
- 水道
- 1956年(昭和31年)10月完成。比地岡氏が中心となって成し遂げられた事から、島民は「比地岡水道」と呼んでいた。それまでは集落下のわき水を人力で運んでいたので、格段の生活向上であった。
- テレビ
- 臥蛇島灯台(当時は有人)に備え付けられたものが島で唯一のテレビであった為、連日島民が視聴に訪れた。ただ、この頃はまだ中之島中継局が設置されていなかったので、受信環境は決して良好ではなかった。
- 新聞
- 定期船の運航日程の関係から、ほぼ一週間遅れであった。
- 電話
- 1966年、中之島局からの地域団体加入電話が開通(回線数は1)。
- 臥蛇島灯台
- 第十管区海上保安本部管下施設。
- 昭和15年運用開始。昭和19年に一時アメリカ軍の爆撃で破壊されたが、昭和30年に再運用開始。
- 職員、施設共に島民の生活に深く関わった。
[編集] 民俗
[編集] 生業
漁業と農業が中心であり、農業については日本復帰後、畜産奨励により牛・豚・山羊・鶏などの放牧が盛んに行われ、貴重な現金収入となっていた。また、耕地では薩摩芋・裸麦・陸稲(餅米)・糯粟・馬鈴薯・玉葱・大根等が作られ、島民の日々の糧となっていた。しかし、その地質から餅米を除く稲作を行う事は出来ず、全てを他所からの輸入に頼らざるを得なかった。
漁業については、当時本土の市場まで輸送する手段が整っていなかった為、殆どが自家用の漁撈である。
他に、期間限定ではあるが、灯台関係の土木工事作業から現金収入を得ていた。
[編集] 行事
以下の行事は、集団移住の直前まで執り行われていた。
現在は島民が全国へ離散した為行われる事はなく、またその術を知る者も少ない。
- 1月:御岳あがり・船祝い・初申・先祖様御供養・蛭子祭・報恩講・金比羅祭・日まち祭・一八夜・二五日祭・虫祈祷
- 2月:船玉様・蛭子祭・ヒチゲー
- 3月:彼岸・水神祭・蛭子祭・金比羅祭・一六日祭・節句
- 4月:浜祭・大祭・仏様誕生祭・親鸞生誕祭・先祖様御供養
- 5月:一三夜・一八夜・二三夜・一六日祭・蛭子祭
- 6月:大祭・大瀬様・シマナカ様・御岳あがり・ネズミ御供養
- 7月:盆供養・蛭子祭・島祈祷
- 8月:大祭・一五夜祭・蛭子祭
- 9月:彼岸・御伊勢様・日まち祭・御岳あがり・金比羅祭・蛭子祭・一六日祭・一八夜・二三夜
- 10月:御岳祭・金比羅祭・豊年祝・牛御供養・金山様
- 11月:霜月祭・豊年祭・魚御供養
- 12月:午未・報恩講・先祖様御供養・蛭子祭・七中夜・ヒチゲー・年忘れ
※ヒチゲー:一斉休日、御岳あがり:初詣、仏様誕生祭:花まつり、大祭:八幡神社の大祭、大瀬様:海神様大祭、シマナカ様:始祖をまつる祭、島祈祷:悪疫悪天候を鎮める為の祈祷、御伊勢様:寄り合いと祝宴、日まち祭:総代宅で夜明けまで酒宴、金山様:金属製品の使用禁止日、霜月祭:漁業祭
[編集] 集団移住後
- 移住後、略奪船により扉や窓を破壊され、更に台風被害等も重なった為、無人島となってからわずか数年後には殆どの住居が荒れ果て、手の付けられない状態になってしまった。
- 島民の集団移住後も、灯台の職員が昭和57年4月まで交代制勤務により滞在していた。
- 島の周囲は好漁場であること、またダイビングスポットになっていること等から、島の周囲に寄りつく船は多い。
- 上陸は、公には認められていない。また、船着き場から集落跡までは荒廃しており大変危険な状況である。
[編集] 人物
- 1953年から1966年の定年時まで、臥蛇島分校にて教鞭を執る。就任中、子供達への教育だけでなく、簡易水道や自家発電の整備、農作物の品種改良など、島民の生活に対して大きく貢献した。また、臥蛇島には村議会議員がいなかった為、役場への陳情など、時にはその役割をも果たした。そのような人柄と様相により、島民からは「入道先生」の愛称で親しまれていた。定年後は鹿児島経済大学(現在の鹿児島国際大学)にて、学生の進路指導などに携わる。1998年、91歳にて他界。
- 谷川雁(たにがわがん)
- 詩人、評論家、サークル活動家。1959年(昭和34年)、臥蛇島に約1ヶ月滞在。その時の様子を、著書「工作者宣言」に記している。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 『ふるさととは何か』西日本新聞社編、未来社刊。1973年
- 『トカラ海と人と』南日本新聞社編、誠文堂新光社刊。1981年
- 『村落共同体崩壊の構造』皆村武一著、南方新社刊。2006年
- 『十島村誌』十島村編