フランシスコ・フランコ
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フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Franco y Bahamonde, 1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペインの軍人、政治家、独裁者(総統)。
一般には、フランシスコ・フランコ (Francisco Franco, IPA: [fɾan'θisko 'fɾaŋko]) と呼ばれる。フルネームは、フランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオードゥロ・フランコ・イ・バアモンデ・サルガード・パルド (Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo Franco y Bahamonde Salgado Pardo)。敬称としてカウディージョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de Espana)と呼ばれる。
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[編集] プロフィール
[編集] 軍人フランコ
フランコは、スペイン北西部ガリシア地方のフェロルに軍人の子に生まれた。トレドの陸軍士官学校を卒業して18歳で少尉となった。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で、以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱の鎮圧に当たった。彼は、現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、その功績で陸軍少佐に昇進した。帰国後は、サラゴサの陸軍士官学校の校長を務めた。
1931年、スペインではボルボーン(ブルボン)王朝が倒されて共和制が敷かれ、王族は国外へと追放された。フランコは、共和政府からラ・コルーニャとバレアレス諸島の軍政官に任じられ、その間に陸軍少将に昇進した。1934年10月、右翼の内閣が成立し、左翼政党がこれに抗議してゼネストを呼びかけると、フランコはアストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力で鎮圧した。この功績により、翌年、陸軍参謀総長に任命された。
[編集] スペイン内戦
以前はスペイン内乱と呼ばれていたが、政権が転覆している事や反乱軍を支持した派閥も多いことから、現在ではスペイン内戦の呼称がより一般的である。
1936年2月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、フランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷された。人民戦線政府の社会主義的理念に基づく改革を実行し教会財産没収し、ブルジョワを弾圧した。これは農民層に支持されたが、地主・資本家・カトリック教会などの保守勢力とは対立した。同年7月、スペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、フランコはモロッコに飛んで反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。保守勢力がフランコを支援したため、この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。
フランコは、反乱軍(国民戦線軍と称した)の総司令官兼国家元首に就任し、ドイツやイタリア軍の支援を受けて人民戦線政府勢力と戦った。反乱は陸軍主体で行なわれたため、モロッコ軍を本土に送れず、ドイツの輸送機が活躍した。人民戦線政府は内部に共和主義者、共産主義者、無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスが人民戦線を支援するも国内の反発で即座に中止、ソ連や国際旅団(各国の義勇兵)の支援を受けるも、劣勢は覆せなかった。1939年2月、マドリードを陥落させて人民戦線政府を倒した。また、独伊防共協定が結ばれると直ちに参加し、正式にスペイン政府の総統に就任した。
数十年にわたるスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、国土の荒廃は著しかった。
[編集] 中立を維持
1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言したが、アントニオ・サラザール率いる隣国のポルトガルと同様、ナチス・ドイツの優勢を見て枢軸国側に近づく。ドイツがフランス全土を占領し、連合国がヨーロッパ大陸から追い出された直後の1940年10月には、スペイン内乱時代からの盟友であるドイツ総統のアドルフ・ヒトラーと、当時はドイツの傀儡政権であるヴィシー政府が統治していたフランスとスペインとの国境のアンダイで会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示した。
しかし、1943年頃より連合国が優勢になると、再び中立を誇示するという動揺を繰り返した。この巧みな外交によってスペインは第二次世界大戦の戦禍を免れた。
[編集] 独裁者フランコ
フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツ・イタリアの支援を受け、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行った。そのため、大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズム・スペインを国連から排除する決議を採択した。しかし、戦後の東西対立・冷戦の激化により、西側諸国は反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口という地政学的にも戦略的にも重要な位置にあるという理由でファシズム・スペインとの関係の修復を模索し始めた。
1953年9月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。
フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めたり(1958年)、1959年12月にはアメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会見、序盤はぎこちなかったものの、最終的には二人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。その後、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えたり(1966年)して、社会不安の緩和に努めた。
ちなみに、フランコは熱烈なマドリディス(レアル・マドリードのファン)として知られ、フランコ政権下ではレアル・マドリードは数多くの恩恵を受けた。また、フランコはその権勢を利用してスペインサッカー界をも掌握しようとする。その一環としてフランコは、スペイン全土にあるクラブチームに王室の名を借りて「レアル」の称号を与える。「レアル」の称号を与えられたクラブチーム(レアル・マドリード、レアル・ソシエダなど)は、クラブの紋章に王冠の意匠を加える事を許された。バスク地方を含めた多くのクラブチームがその称号を受けるが、カタルーニャのクラブ、FCバルセロナはフランコの申し入れを拒否し続けた。
[編集] 後継者指名
70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。フランコは、前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを1969年に後継者に指名し、長い闘病生活の後、1975年に83歳で没した。
[編集] フランコ没後のスペイン
ヨーロッパにおいてドイツ・イタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げた独裁者フランコは、ドイツ・イタリアのファシズムが崩壊した後も、実に30年間にわたってその独裁体制を維持し続けた。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、自身の没後は王族を擁き政治の実権は腹心のカレロ・ブランコに与えようとした。しかし、1973年にETAのテロでブランコが死ぬと、この計画は頓挫した。
1975年にフランコが死ぬと、フランコの遺言どおりにスペインにボルボーン王朝が復活した。フアン・カルロス1世は即位前にフランコの指示で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁体制を取るかと思われた。しかし即位後は、一転してフランコの独裁政治を受け継がずに政治の民主化を推し進め、急速に西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図る。
その後スペインは、国民からの圧倒的な支持を受けた国王の後援もあり1977年に総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認。正式に民主主義体制へ移行した。この様な議会制民主主義及び立憲君主制への速やかな移行は、そのスムースさから「スペインの奇跡」と呼ばれた。
また、1981年2月23日に発生した陸軍右派のアントニオ・テヘロ中佐によるクーデター未遂事件では、国王独裁の復活を求める陸軍内の右派勢力により議会が占拠され、内閣閣僚と議員350人が人質に取られたが、国王は陸軍右派勢力の呼びかけを拒否して民主制の維持を図った。また、陸軍右派勢力も国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。
[編集] 関連項目
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