三遊亭小円遊
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三遊亭 小圓遊(さんゆうていこえんゆう)は落語の名跡。四代目が1980年に死去して以降断絶している。
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[編集] 初代
本名は鳥羽 長助(とば ちょうすけ)(1867年 - 1902年8月29日)初代三遊亭圓遊の2番弟子。35歳で早世。
[編集] 2代目
本名は吉田由之助(よしだ ゆのすけ)(1866年7月 - 1924年5月31日)初代三遊亭圓遊の5番弟子。三遊亭喜遊、遊志、遊雀、4番(兄)弟子が大阪で2代目三遊亭圓遊を名乗ったためのちに1897年に真打で初代三遊亭左圓遊、1905年10月に2代目を経て1912年に江戸2代目三遊亭圓遊を名乗った。58歳で逝去。
[編集] 3代目
本名は斎藤文太郎(さいとう ぶんたろう)(? - 1926年2月16日)2代目蜃気楼龍玉の弟子であり実の息子。享年不詳。
[編集] 4代目
本名は関根 尚雄(せきね ひさお)(1937年8月3日-1980年10月5日)で群馬県前橋市出身の昭和時代(40-50年代)の落語家。落語芸術協会所属。血液型はAB型。
1966年5月15日から放送された「笑点」(日本テレビ)に第1回から参加。 1969年4月6日のメンバー全員交代で降板するも同年11月9日に復帰。以来1980年に急逝するまで笑点の大喜利メンバーとして参加し続けた。
「巷では…」「ボクちゃん」等の流行語を生み、キザなキャラクターとして人気を博す。落語人物でいうとナルシスト色の強い(顔がキレイ、など)「若旦那」役。このキャラクターは「笑点」内での「設定」だったが、笑点以外の場(高座)でもそのキャラを求められてしまうため、小圓遊は自分本来の芸や性格と社会的に浸透したキャラとのギャップに苦悩していたらしい。これが、酒に溺れるきっかけとなる。
落語界有数の酒豪であったが、それが災いして早死に至ったとも言われる。なお、『三遊亭小圓遊』は当代を含め四代の内の三名が、いずれも若くして旅先での急逝を遂げている事でも知られる。
[編集] 学歴
[編集] 略歴
- 1955年 - 三遊亭圓遊に入門、前座名「金遊」。
- 1958年 - 二ツ目昇進
- 1966年 - 日本テレビの演芸番組笑点の初代大喜利メンバーとなる。
- 1968年 - 四代目小圓遊を襲名、真打昇進。
- 1969年 - 初代司会立川談志との対立から笑点降板の7ヶ月後にライバル桂歌丸と共に復帰。この際には弟弟子三遊亭笑遊(現5代目三遊亭圓遊)が座布団運びとして加わっているが8ヶ月で降板。
- 1972年 - 十枚座布団を貯めたご褒美としてレコードを吹き込む(タイトルは「マドモアゼル」)。
- 1980年 - 10月4日、山形県村山市での公演中に倒れ食道静脈瘤破裂により翌日死去。享年43。
[編集] 笑点での小圓遊
笑点で高座着カラーが固定してからは水色の着物を着用。現在小遊三が着ている物よりは遥かに濃い。いわゆるコバルトブルー。
一歳年上で同じ芸協所属の歌丸と敵対し、常に罵り合う様子が大喜利コーナー最大の名物になった。ただし、あくまでも番組上の設定で、実際には同じ時期に下積みの苦労を味わった仲で、まだ落語では食えなかった無名時代には一杯のかけそばを二人で分け合って食ったという程の親友であり、だからこそできるネタであった。もっとも、この歌丸対小圓遊のバトルが、現在まで続く大喜利メンバー同士の罵倒合戦ネタ(現在は歌丸と楽太郎の罵り合いなど)の基礎になっている。
抗争のきっかけは、笑点の司会が立川談志だった時の大喜利で新聞のトピックスを読むお題が出た時に
- 歌丸「小圓遊が殺されたらしい」
- 小圓遊「小圓遊殺しで歌丸が捕まったらしい」
- 歌丸「小圓遊を殺した歌丸、情状酌量の余地で無罪放免になった」
と言いあったこと。以降ずっと罵り合いが続き、番組の人気にも到った為、「歌丸と小圓遊は仲が悪い」という設定が出来上がった。この設定の証拠として1968年3月に歌丸が真打に、9月には小圓遊が真打になっている。
(※その証拠として小圓遊存命時の大喜利配列は左端に歌丸、右端に小圓遊と絶対隣り合わせにならない形になっていたが、林家九蔵(現:三遊亭好楽)がメンバーになった際には歌丸は左から3列目に移動した。ちなみに間の配列は圓楽→夢之助→九蔵(現・三遊亭好楽)・木久蔵・圓窓→楽太郎・こん平だった)
その後、小圓遊も歌丸も一緒に歩いているだけで見かけた視聴者らから「テレビであれだけ仲が悪いのに」と言われる事から常に離れて行動する事を意識するなどプライベートでも距離を置くようになった。とはいえ、その後も羽田空港や列車の中で歌丸と談笑する姿が度々目撃されていた。
あまりに罵倒合戦がエスカレートして新聞に「小圓遊と歌丸を仲直りさせてほしい」、「大喜利の回答で勝負しろ」と投書が届くに及んでこれではまずいという事で1972年「和解式」と題し、歌丸と小圓遊が握手をするシーンがあった。しかし、それが終わるや否や「バイキンがうつるといけないですから」とお互い丹念に石鹸で手を洗っていた。それほどまで徹底して「設定」を演じるようになっていたわけだ。
主な罵倒ネタとして、
- 歌丸「パパごめん。明日からもう小圓遊とこの子供と遊ばないから」
- 小圓遊「オール1なんていいほうだよ。歌丸とこのガキなんかマイナス1だもん!」
- 小圓遊「ぼくんちの藤子ちゃんは水のようにきれいなフジコ…」
- 歌丸「いや、あたしんとこの富士子が水のようにきれいなフジコ。あっちの藤子は汚い便所バエのようなフジコ…」
- 歌丸「ニースなわけないだろ。あいつの別荘は網走だろ」
- 小圓遊「この人ごみは何だ。 え、歌丸が倒れ死んでいる。万歳」
- 歌丸「何、今日のお化け屋敷に小圓遊が特別出演しているだと」
- 小圓遊「歌丸、はげ」
- 小圓遊「歌丸さんハゲましておめでとう。」
- 歌丸「小圓遊さんバケましておめでとう。」
罵倒ネタではないが他にも
- 歌丸「お客様方の中の圓遊(※4代目=先代)師匠に申し上げます。小圓遊の落語が始まっても耳をふさがないで下さい。全部あなたの責任です」(座布団+2枚)
- 歌丸「笑点とかけまして、小圓遊の顔と解く」
- 三波伸介「そのココロは?」
- 歌丸「見ているだけで吹き出す」
いくつもある罵りネタの中で代表的なのがお互いのフジコ夫人(歌丸夫人は「富士子」、小圓遊夫人は「藤子」)の罵り合い、小圓遊が「化けてる」と罵られ、歌丸は「禿てる」と罵られる(キャンディーズがNHKで「ばけてる/はげてる」と「はけ」のどちらに濁点をおくかを前提に「上のおじさま(ばけ=小圓遊)」、「下のおじさま(はげ=歌丸)」などと笑いのネタにしたほど)。この為、他の番組でのコントや演技では専ら幽霊(コエンユウレイ)、これから死にゆく人物の役柄が多い。*因みにこの「化けてる/禿てる」と本人らの肉声で罵り合う電池稼動の首振りソフビ人形が存在する(今は無き横浜キャラクターミュージアムにも飾られていた)。
1970年代には日清食品のCM(日清そば喜利)で歌丸と共演。歌丸が「小圓遊には食わせねえよ」と言うと小圓遊は「歌丸には似合わねえよ」と言い争っていた。
「笑点」では「キザな小圓遊」で一躍有名となったが実際のところ、本人の高座の芸とは大きく異なり、使い分けなどその差で小圓遊本人が悩まされ、酒に入り浸り、結果肝臓を患い急逝する事となったと言われる。葬儀において歌丸は友のあまりに早すぎる死に号泣した。
立川談志は、自らの著書で、「キザの小圓遊で(ずっと)やれば良かったのだ」と書き、その死を悔やんでいた。
小圓遊最後の「笑点」出演は1980年9月中旬に収録し、小圓遊が亡くなった7日後の10月12日に放送された15周年記念ハワイ公演(2回目)だった。出演し続けた笑点でも、酒に入り浸っていたせいか、だんだんと答えが悪くなり、編集でなんとかやり過ごす事も多くなってきた矢先であった。
また、10月5日放送の笑点ハワイ公演(1回目)では、画面上部には「三遊亭小圓遊さんは本日亡くなりました。心よりご冥福をお祈りいたします」のテロップが出た。翌朝の新聞や同局の「ズームイン!!朝!」でも「小圓遊死去」の訃報を取り上げていた。
10月19日の番組内で「小圓遊追悼大喜利」が行われた。
小圓遊の後任は笑点の若手大喜利出身の古今亭朝次(現桂才賀)であったが、朝次は若手大喜利時代にピンクの服を着用していたため、生前の小圓遊が着用していた水色ではなくピンクを着用した。これに伴って、それまではピンクを着用していた林家九蔵(現:三遊亭好楽)が生前の小圓遊が着用していた水色を着用することとなった。