賀屋興宣
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賀屋 興宣(かや おきのり、1889年1月30日 - 1977年4月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。広島県広島市鷹匠町(現・中区本川町)出身。
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[編集] 生い立ち
父は国学者の藤井稜意(いつ) 母は愛国婦人会幹事を務めた賀屋鎌子。4歳の時母の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。広島一中(現・広島県立国泰寺高校)、第一高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒。東京帝大卒業後、大蔵省に入り、主として主計畑をつとめた。官僚時代には、経済政策を方向づけるなど、革新官僚の一人として活躍。1927年ジュネーブ海軍軍縮会議、1929年ロンドン海軍軍縮会議に、それぞれ全権の随員として列席。ロンドン会議では、次席随員として参加していた山本五十六とやり合った。
1937年、第一次近衛内閣で大蔵大臣となり一年在任。「賀屋財政経済三原則」を主張し日中戦争戦時の予算の途を開いた後、1941年太平洋戦争開戦時の東条内閣で再び大蔵大臣を務め戦時経済を担当。
[編集] 戦犯
戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となる。連合軍の占領下にあって約10年間、巣鴨プリズンに服役。戦争犯罪人として苦難の道を歩む。1955年仮釈放。2007年米国公文書館の開示でアメリカ中央情報局の協力者だったことが判明。
[編集] 戦後政治活動
1958年正式赦免後、東京都第3区から衆議院議員選挙に5回連続当選。岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として安保改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、政務調査会会長(政調会長)などを歴任し、自由民主党右派の政治家として有名であった。1972年、議員活動から退き「自由日本を守る会」を組織、台湾擁護など独自の政治活動を続けた。
戦没将兵の単なる遺族互助団体だった日本遺族厚生連盟を日本遺族会と改称し右傾化させた張本人として一部から批判されている一方、タカ派ながら過去の敗戦責任を痛感して勲章を辞退したり、法務大臣として死刑執行に否定的であった(服役中に刑場に向かうA級戦犯を目撃したからと言われている)一面もあり、肯定的・否定的双方の見方がある政治家であるといえる。ちなみに賀屋が法務大臣であった1964年は日本の近世で初めて死刑が実施されなかった年となった。
日本社会党の委員長を務めた河上丈太郎とは旧制第一高等学校時代からの友人であり、河上が死去したときは追悼文を書いたことでも知られている。
政治家平沼赳夫の平沼家と近所付き合いがあり平沼は学生時代、賀屋の孫の家庭教師をしていたという。
[編集] 略歴
- 1917年:東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。
- 1927年:ジュネーブ軍縮会議全権随員。
- 1932年:予算決算課長となる。
- 1934年:主計局長に就任。
- 1936年:理財局長に就任。
- 1937年:大蔵次官を経て第1次近衞内閣に大蔵大臣として入閣。
- 1938年:貴族院勅選議員となる。
- 1939年:北支那開発公社総裁に就任。
- 1941年:東條内閣蔵相。
- 1945年:A級戦犯の容疑で逮捕。
- 1948年:極東国際軍事裁判により終身刑の判決を受け服役。
- 1955年:仮釈放。
- 1958年:正式赦免。自民党公認で総選挙に立候補し初当選。
- 1963年:第2次池田改造内閣に法務大臣として入閣。第3次池田内閣でも留任。在任中の死刑執行はゼロだった。
- 1972年:政界引退。
[編集] 家系
[編集] 著書
- 戦前・戦後八十年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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