永野修身
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永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 - 1947年(昭和22年)1月5日)は、明治~昭和期の大日本帝国海軍軍人。海兵28期。最終階級は元帥海軍大将。
[編集] 経歴
高知県士族永野春吉の四男として誕生。山下奉文や参謀本部次長であった沢田茂と同じく、藩主・山内豊範が明治初年に設けた高知海南中学を卒業。1900年、海軍兵学校を105人中次席(首席の波多野貞夫中将が海軍火薬廠の技官に転向したので事実上首席)で卒業した後、海軍大学校に入学・卒業。
大尉時代、日露戦争には旅順工作部員名義で重砲隊に所属。旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊の撃滅に参加した。艦隊を直接狙う高地を占領できなかったため、山越えの目算砲撃を強いられた。この時、永野は着弾観測と照準補正連絡のために最前線で陣頭指揮を執り、砲撃を成功させた。重砲隊指揮官の黒井悌次郎大佐(のち大将)には、部下の手柄を横取りする悪癖があり、当初は永野の実績も伝えられなかったが、引退後は「永野君の砲座が最もよく撃った」と永野を絶賛するようになった。
戦後、巡洋艦厳島の砲術長になる。1908年の練習航海で僚艦の松島が馬公港で爆沈した際に、パニックに陥った港内は混乱を極めた。永野は冷静に短艇を派遣し、真っ先に救助に着手した。
1910年に海軍少佐に昇任した後、1913年から1915年まで米国駐在武官としてハーバード大学に留学。1920年から1922年まで再び在米国大使館付武官として米国駐在、ワシントン会議にも全権随員として参加。
1923年、海軍少将。軍令部第三班長や練習艦隊司令官を歴任。1927年に海軍中将となった後は、海軍兵学校長・軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官を務めた。
兵学校長時代は自学自習を骨子とするダルトン式教育の採用や体罰禁止など、抜本的な教育改革を推進した。ダルトン教育の導入は失敗に終わったが、太平洋戦争に駆逐艦長・潜水艦長・隊司令として活躍した55期を中心とする永野の教え子たちからは、永野校長時代の兵学校の校風を絶賛する声が大きい。
1935年12月からのロンドン軍縮会議には全権として出席し、翌年日本の脱退を通告する。1936年3月9日、広田弘毅内閣の海軍大臣に就任し、「国策の基準」の策定を推進する。この時に山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢している。
1937年2月2日、連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)となり、海上勤務に出る。後に再び軍事参議官。1941年4月9日、伏見宮博恭王の後任として軍令部総長に就任(在任期間は1944年2月21日まで)。開戦前には病気を理由に辞職を考えたが、後任に避戦派の百武源吾が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。石油が枯渇するのを恐れて対米早期開戦を主張、山本五十六連合艦隊司令長官の真珠湾攻撃作戦を許可し、太平洋戦争勃発のきっかけを作る。
1943年6月21日、元帥。永野自身は予想外の名誉に感激したという。もっとも、海軍省と軍令部の一元化を推進する嶋田繁太郎海軍大臣が、永野から軍令部総長の座を禅譲してもらうためのご祝儀とする見方がある。
戦後、アメリカをはじめとする戦勝国によってA級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判に出廷するが、裁判途中の1947年1月5日、肺炎のため巣鴨プリズン内で死去した。享年66。
帝国海軍の歴史上、一人で海軍三顕職(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長)を全て経験したのは永野のみである。
[編集] エピソード
昭和天皇から真珠湾攻撃について「どうして12月8日に真珠湾を攻撃するのか?」と尋ねられた際、ハワイ現地時間では日曜日であるにも関わらず、永野は「月曜の朝ですと、日曜日にアメリカ軍将兵は遊び疲れてぐったりしていますので」と返答したことから、永野は海軍部内で「ぐったり大将」とあだ名されたという。
居眠りの名人として知られ、作戦会議中でも目を盗んではウトウトとうたた寝をしていたと云う。
私生活は家庭に恵まれず、晩年にようやく結婚を果たしたが、これが原因で「若い奥方にうつつを抜かして仕事をないがしろにしている」と揶揄された。巣鴨に抑留中、「一度でいいから息子と一緒に蜜豆食いたいな」と面会者に漏らしている。夫人と令息は永野の獄死直後に病没しているが、永野との面会後に受け取った永野の私物を置き引きに盗まれた精神的ショックが一因とも言われている。
[編集] 関連項目
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極東国際軍事裁判・A級戦犯 |
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