A級戦犯
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A級戦犯(えいきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の敗戦国日本を戦勝国が裁いた極東国際軍事裁判において「平和に対する罪」について有罪判決を受けた戦争犯罪人をさす。起訴された被疑者や名乗り出たものを含む場合もある。刑の重さによってアルファベットによってランク付けされたものではない。近年はA項目戦犯という呼称もされている。
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[編集] 詳細な定義
極東国際軍事裁判所条例の第五条の(イ)の以下の定義
- 「平和ニ対スル罪即チ、宣戦布告ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。」
を犯したとして、極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す。
なお、A級のAとは、同条例の英文 Charter of the International Military Tribunal for the Far East において同条(イ)が (a) となる事に由来する分類上の名称であり、罪の軽重を示す意味は含んでいないが、当該裁判では侵略戦争の開始は一番重い戦争犯罪と解釈され適応された刑も重かった(極東国際軍事裁判の被告人のうち、松井石根は同裁判の判決においてA級に該当する犯罪容疑では全て「無罪」とされており、A級戦犯ではないとする説もある)。
[編集] 極東国際軍事裁判に起訴された被告
- 関東軍関係
- 板垣征四郎 - 南次郎 - 梅津美治郎
- 特務機関
- 土肥原賢二
- 陸軍中央
- 荒木貞夫 - 佐藤賢了 - 鈴木貞一 - 木村兵太郎 - 橋本欣五郎 - 畑俊六 - 武藤章 - 松井石根
- 海軍中央
- 嶋田繁太郎 - 岡敬純 - 永野修身
- 総理大臣
- 東條英機(陸軍) - 広田弘毅(外交官) - 小磯国昭(陸軍) - 平沼騏一郎(司法官僚)
- 大蔵大臣
- 賀屋興宣
- 内大臣
- 木戸幸一
- 外務大臣
- 東郷茂徳 - 重光葵 - 松岡洋右
- 企画院総裁
- 星野直樹
- 駐ドイツ武官
- 大島浩
- 駐伊大使
- 白鳥敏夫
- 思想家
- 大川周明
上記の28名が1946年4月29日に起訴された。28人名のうち、大川周明は梅毒による精神障害が認められ訴追免除となり、永野修身と松岡洋右は判決前に病死しているため、1948年11月12日に被告として判決をうけた者は25名となっている。死刑は1948年12月23日に執行された。
[編集] 判決
[編集] 絞首刑(死刑)
- 板垣征四郎 - 軍人、陸相(近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長
- 木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)
- 土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官
- 東條英機 - 軍人、第40代内閣総理大臣
- 武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)
- 松井石根(※1) - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)
- 広田弘毅 - 文人、第32代内閣総理大臣
[編集] 終身刑
[編集] 有期禁錮
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[編集] 判決前に病死
[編集] 訴追免除
- 大川周明 (梅毒による精神障害が認められ訴追免除)
- ※1…「a項-平和に対する罪」では無罪
- ※2…獄中死
[編集] 処刑後について
処刑された7人の遺体は横浜の久保山火葬場で火葬され、遺骨は米軍により東京湾に捨てられた。しかし、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が共同骨捨て場から遺灰(7人分が混ざった)を密かに回収し、近くの興禅寺に預けた。1949年5月に伊豆山中の興亜観音[1]に密かに葬られた。その後、1960年8月16日に愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移された。三ヶ根山には「殉国七士廟」が設けられ、その中の殉国七士の墓に遺骨が分骨されて安置されて今に至る。
[編集] 昭和殉難者
1978年、靖国神社が死刑及び獄中死の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。 靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。
[編集] 裁判を免れたA級戦犯被指定者
[編集] 名誉の回復について
1952年4月28日サンフランシスコ平和条約発効
- 第11条(戦争犯罪)
- 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
- 1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
- 1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
- 1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
- 1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
戦犯の国内での扱いに関して、それまで極東国際軍事裁判などで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われており、遺族年金や恩給の対象とされていなかったが、1952年(昭和27年)5月1日、木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事となった。これにより1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され、戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い、当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になった。
1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、1953年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が可決された。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年に釈放された。
A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年とされた重光葵元外相は釈放後、鳩山内閣の副総理・外務大臣となり勲一等を授与された。1954年に外務大臣に就任した重光は、日ソ国交回復と国連加盟も成し遂げている。また、終身刑とされた賀屋興宣元蔵相は池田内閣の法務大臣を務めた。またA級戦犯元被指定者の岸信介は内閣総理大臣になった。これらにより「日本政府は公式に戦犯の名誉回復を表明してはいないが、以上の事実より実質上は名誉回復されている」とも言われ、また、「戦犯は国際法によって裁かれたもので、国内法上の犯罪者には該当しないため、名誉回復の必要性自体が存在しない(名誉が損なわれていないので、回復する必要がない)」という意見もある。
前述の通り、日本政府はサンフランシスコ講和条約第11条で東京裁判の判決を受諾しているが、これについて「裁判自体と判決は分離して考えるべきで、日本政府が受諾したのは判決の結果(刑の執行)だけであるから、裁判全体、すなわち、法廷における事実認定や判決理由についてまで受諾した訳ではない」という意見もあり、また「赦免を以って名誉回復とするか否かは議論の別れるところだが、他方で、法治国家に於ては法の定める刑の執行が完了した時点で罪人から前科者へと立場が変わるので、刑の執行が既に済んだ者をその後も罪人扱いすること自体が法治国家にそぐわない野蛮な行為である」とする意見がある一方、「東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決をくつがえす新たな国際法廷は開かれていない。国際社会において「A級戦犯」は今も戦争犯罪人として認識されている。また、日本政府も同様の立場を取っている。故に、戦争犯罪者であるか否かだけを問題とするのなら、彼らの名誉回復は為されていないことになる。」とする意見もある。
第3次小泉内閣下における民主党の野田佳彦国会対策委員長の質問主意書に対して2005年10月25日に提出した答弁書において、政府は第二次大戦後極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した各級の罪により戦争犯罪人とされた(A級戦犯を含む)軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」とした。また、戦犯の名誉回復については、「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、判断を避けた。首相の靖国神社参拝に関しては、公式参拝であっても、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、憲法20条3項の禁じる国の宗教的活動にあたらない」との見解を示した。
[編集] 関連項目
[編集] その他
転用で、企業倒産やスポーツチームの成績低迷に重大な責任があると思われる人物を「A級戦犯」と呼ぶことがあり、スポーツ新聞の見出しなどに良く見られる。
[編集] 外部リンク
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