前進座
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劇団前進座(ぜんしんざ)は東京の歌舞伎劇団。1931年発足。劇場「前進座劇場」(収容人員500)を所有する。
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[編集] 特色
- 創立70年を誇る歌舞伎劇団。
- (創設時、幹部ではない下級俳優が結成したことから)菊五郎劇団と並び、市井の庶民・江戸っ子をリアルに描く世話物に定評がある。
- (80年代まで劇団として集団生活をしていたことから)にじみ出る自然なアンサンブルの良さが光る。
- 歌舞伎・時代劇・現代劇・児童劇と多彩なレパートリー
- 創設直後から「演劇のデパート」という異名をつけられていた
- 旗揚げ時から女優陣が多く所属するという異色の編成
- 配役の一部を女性が演ずる歌舞伎を出すことも多い
- 全国津々浦々を回る巡回公演
- 日本のはずれでも、地元草の根観劇団体の招聘に応じて第一線俳優が出向いて大劇場と同じ芝居をするバイタリティ
- 幅広いファン層
- 映画・テレビ出演多数
- 座員の多くは知らず知らずのうちにお茶の間のお馴染みさん。
- 厳しい稽古
- 今は無いが、「絶対修業」「翫右衛門のむち」という制度があり、出来が悪いと容赦なく鞭が飛んでいた。
- 既存歌舞伎界との関係も良好
[編集] 施設と組織
[編集] 現在のもの
- 前進座機関誌『月刊前進座』
- 前進座友の会(愛称『パル』)
- 劇場「前進座劇場」(収容人員500)
- 俳優養成機関「前進座付属養成所」 女性も歓迎
- 前進座映画放送部
- 武蔵野市立 南保育園 (前進座の私営保育施設を市が受け継いだもの)
[編集] 過去のもの
- 集団住宅「前進座住宅」+稽古場「前進座演劇映画研究所」(両者は併設されている)
- 前進座児童演劇団
[編集] 年譜
[編集] 結成前夜
- 1930年12月 市川猿之助 (2代目)(猿翁)が松竹脱退。春秋座結成。
- 1931年1月 春秋座旗揚げ公演
- 1931年5月 春秋座解散、3派に分かれる。
[編集] 旗揚げ
[編集] 長十郎体制
- 1931年暮 荒次郎が退団。劇団前進座は幹事長に河原崎長十郎を選出
- 1931年2月 新しい作品を演じたかった劇団前進座に対して市村座が「忠臣蔵」を上演するよう迫る。興行成績は大成功。劇団発足後初めて経済的に潤う。以後歌舞伎に力を入れる
- 1932年5月 市村座が火事で消失。二度と再建せず
- 1932年 劇団前進座はJOAK東京放送局(NHK)に劇団としてユニット出演 以降この形式が貴重な収入源となる
- 1933年9月 劇団前進座は、浅草公演劇場公演がキャンセルされたことを奇貨として、劇団として映画「段七しぐれ」(原作長谷川伸、トーキー)を製作、映画初進出。
- 1933年11月 劇団前進座は宗家(市川團十郎家)の了承なしで歌舞伎十八番のうち勧進帳を上演(新橋演舞場)
- 長十郎の弁慶、翫右衛門の富樫、国太郎の義経
- 1934年2月 国太郎が「お染の七役」を復活(新橋演舞場)
この頃沢村いき雄らが退団
- 1935年 劇団前進座は日活映画と業務提携
- 1935年10月 劇団前進座「悲恋の白拍子」(大阪浪花座)中のラブシーンが警察官に咎められ、検挙されかかる
- 1936年 劇団前進座の江戸を舞台にした赤毛もの歴史劇「シーボルト夜話」を上演。成功を収める
- 1936年 劇団前進座は歌舞伎十八番より「助六」を上演
- 長十郎の助六、翫右衛門の意休、国太郎の揚巻。長十郎は本水に浸かった
- (以後、歌舞伎十八番ものの上演に関しては宗家はぜんぶ許可)
- 1937年 劇団前進座は初めて真山青果作品を上演
- 1937年 劇団前進座はPCL映画に劇団としてユニット出演 以降この形式が貴重な収入源となる
[編集] 集団住宅と絶対修業
- 1937年 劇団前進座は集団住宅を東京・吉祥寺に建設 創造(稽古)と生活(住居と食糧(田畑・養鶏))を統合した理想の場を得る
- 1940年 「絶対修業」がスローガンとして現れる
- 1941年4月 劇団の総会で「長十郎の体制」「翫右衛門の鞭」が定まる
- (四代目)「鶴蔵の向こう鉢巻」も
- 1941年-42年 映画と演劇で「元禄忠臣蔵」が大ヒット。時代物は軍国主義に歓迎された。座の歴史で唯一経営が潤い、贅沢な時期。
この非常時においてもっとも良心的な劇団であると激賞される
- 1942年 失火で建物の一部を消失
- 1945年 疎開しながら移動演劇を上演
- 1945年終戦 劇団前進座は吉祥寺に戻り、9月にラジオ、11月に帝国劇場で公演
- 1945年 (四代目)中村鶴蔵死去
- 1946年 営業・裏方・設営・移動等を俳優自身が行う巡演“青年劇場運動”を開始
当初は学校を廻っていたが、徐々に全国の労働組合で演ずることが増えてくる。
[編集] 日本共産党
- 1949年3月7日 劇団前進座座員71名が日本共産党に集団入党(のち4人追加)
- 1952年5月24日 赤平事件
- 1955年11月 翫右衛門帰国
- 1960年2月~4月 劇団前進座は訪中公演
- 1966年3月 宮本顕治毛沢東会談決裂。以降日中共産党の関係が厳しい対立へ
- 1966年8月~10月 劇団前進座は訪中公演 この時、中国共産党紅衛兵により台本を改変。同行の他幹部団員から故障が出るも、幹事長権限で強引に押し切る。
- 1966年11月 劇団前進座は帰国凱旋公演(東京有楽町・よみうりホール)改変された台本のままで上演
- 1966年12月 劇団前進座は歌舞伎十八番のうち鳴神をオーケストラ伴奏で行うという試みを実現(作曲團伊玖磨)
- 1967年8月 長十郎は日本共産党への離党届を郵送、自ら記者会見をして明らかに
- 1967年8月 劇団前進座は幹部会を開くも決裂
[編集] 積極的な外部出演
- 1967年9月 劇団前進座は座員総会で長十郎幹事長を解任。幹事に降格。新幹事長に五世国太郎。
- 1968年 「株式会社前進座」設立
- 1968年7月 劇団前進座は長十郎を除名
- 1969年 三船プロ制作『風林火山』に中村翫右衛門と中村梅之助が出演し、大ヒット。 付属養成所開設
- 1970年 映画放送部新設 以降、座員がテレビや映画や舞台の外部出演で大忙しになる。中村梅之助が『遠山の金さん捕物帳』に主演。1973年まで続く人気ドラマとなる。
- 1973年 中村梅之助が日本テレビ『伝七捕物帳』に主演。1977年まで続く人気ドラマとなる。
- 1977年 中村梅之助がNHK大河ドラマ『花神』に主演。毎日放送のテレビドラマ「獄門島」(主演古谷一行)で、国太郎、翫右衛門と、河原崎長一郎(長十郎の長男)が共演 DVDあり
- 1980年12月 初めて東京・歌舞伎座に進出
- 1981年8月 初めて東京・国立劇場大劇場に進出
- 1981年12月 初めて東京・日生劇場に進出
[編集] 前進座劇場
集団住宅はすべて取り壊し。
跡地には前進座劇場を新設。残りを武蔵野市に売却。市は、吉祥寺南町コミセンを建設した。
- 1982年 調右衛門死去
- 1982年 翫右衛門死去
- 1982年 全国からの「一億円募金」が実り、建設された前進座劇場が落成
- 1985年 幹事長を国太郎から梅之助に交代
- 1990年 五世国太郎死去
[編集] 劇団前進座
- 1992年 「劇団前進座株式会社」発足。組織を新会社に一本化。代表は梅之助
[編集] エピソード
[編集] 赤平事件
1952年5月24日、北海道赤平町で、劇団前進座の「俊寛」巡演(翫右衛門の俊寛)が警察ぐるみの組織で妨害され、巡演当日で観客も会場に集まっているのに上演の約束をキャンセルされた。会場で上演中止の挨拶を行ったことを家宅侵入罪として一行の一部を逮捕し、翫右衛門にも逮捕状を出して手配したという事件。
その後翫右衛門は、一週間以上、警察から逃れて地下に潜る逃亡生活を送りながら、舞台にはちゃんと拵えをして俊寛として出るという離れ業を演じ、「神出鬼没の翫右衛門」と異名をとる。
実際には、このとき演技についての論文も執筆していた。
[編集] 翫右衛門の中国逃亡
[編集] 太平洋地域平和会議
中国共産党の大衆組織が、1952年10月に、北京で国際会議「アジア太平洋地域平和会議」を開こうと全世界に呼びかけた。 親中派として知られる大山郁夫(戦前の労農党委員長)、日本社会党の松本治一郎、アナキスト神近市子、マクロビオティックで知られる桜沢如一というメンバーが日本代表として訪中することが決まった。
日本政府の拒否の態度が覆らないと見るや、9月下旬、突如数人の日本人が北京で発見され、それらの人が松本らに代わる日本代表団として会議に臨むことになった。その中の一人が翫右衛門だった。北京にいたのだ。結局、翫右衛門が松本の代理として会議参加を勤めた。
[編集] 猿之助訪中
1955年、国慶節に中国で歌舞伎公演を行うべく市川猿之助 (2代目)(猿翁)一座が大阪歌舞伎座社長松尾國三を帯同して訪中。 11月7日、猿之助は翫右衛門を連れ立って帰国した。 帰国に当たっては松本治一郎ら社会党だけでなく久原房之助ら財界人も含め身元引受人となった。
[編集] 結果
翫右衛門は裁判にかけられ、有罪ではあったものの執行猶予を勝ち取った。
[編集] 主な座員
[編集] 第一世代
- 創立メンバー 市川荒次郎(高島屋)
- 創立メンバー 河原崎国太郎 (五世)(山崎屋)
- 創立メンバー 四代目河原崎長十郎
- 創立メンバー 四代目中村鶴蔵(舞鶴屋)
- 創立メンバー 中村翫右衛門
- 創立メンバー 沢村いき雄(沢村い紀雄) 退座
- 坂東調右衛門(大和屋)
- 加東大介(市川莚司)徴兵から帰って、別劇団を作る
- 六代目瀬川菊之丞(浜村屋)
- 五代目嵐芳三郎(豊島屋)
[編集] 第二世代
- 四代目中村梅之助(成駒屋)
- 六代目嵐芳三郎(豊島屋)
- 嵐圭史(豊島屋)
- いまむらいづみ
- 五代目中村鶴蔵(舞鶴屋)(現在は座友)
- 市川祥之助(沢瀉屋)(現在は座友)
- 中村靖之介(成駒屋)(現在は座友)
- 津田伸(現在は座友)
- 桐山里昇(摂津屋)(現在は座友)
- 山崎竜之介(山崎屋)
- 小佐川源次郎(鯛屋)(現在は座友)
[編集] 第三世代
- 藤川矢之輔(大坂屋)
- 七代目瀬川菊之丞(浜村屋)
- 二代目中村梅雀(成駒屋)
- 河原崎國太郎 (6代目)(山崎屋)
- 山崎辰三郎(山崎屋)
- 姉川新之輔(鯉屋)
- 妻倉和子
- 嵐広也(豊島屋)
- 山崎杏佳(山崎屋)
[編集] 文芸演出部
- 宮川雅青
- 平田兼三
- 高瀬精一郎(現在はフリーに)
[編集] 主な映画
座として製作に関与した映画、座としてユニット出演した映画のうち、主なもの
- 「段七しぐれ」(1933年、映画初進出)
- 「清水次郎長」(1935年)
- 「街の入墨者」(1935年、日活との業務提携第一弾)
- 「人情紙風船」(1937年、山中貞雄監督の遺作)
- 「元禄忠臣蔵」(1941年、真山青果作、溝口健二監督、興亜映画最後の作)忠臣蔵ものの最高峰
- 「どっこい生きてる」(1951年、新星映画、今井正監督)
- 「箱根風雲録」(1951年、新星映画、山本薩夫監督、原作タカクラ・テル=日本共産党の衆議院議員、参議院議員) 共演・山田五十鈴
新星映画はプロキノ(日本プロレタリア映画連盟)設立者岩崎昶の会社。
[編集] 外部リンク
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