名古屋急行電鉄
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名古屋急行電鉄(なごやきゅうこうでんてつ)とは、昭和初期に大阪市から京都市を経て名古屋市までを結ぶ鉄道路線の建設を目的に、設立されようとした鉄道会社である。
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[編集] 概要
[編集] 新京阪鉄道
現在の阪急京都本線は、元々新京阪鉄道という京阪電気鉄道の子会社が建設し、後に京阪電気鉄道に合併されて同社の新京阪線となり、戦時中の交通統制で京阪と阪神急行電鉄(阪急)が合併して京阪神急行電鉄[1]が発足、戦後に京阪が再び分離したものの、新京阪線は阪急に残ったために現在の形に成ったという経緯があった。
その京阪電気鉄道とその子会社である新京阪鉄道は、更に東へ線路を延ばして名古屋へ達しようという計画を持っていた。
[編集] 当時の時代背景
この当時、鉄道省の運営する国鉄線においては、陸軍の方針で電化は艦砲射撃や空襲を受けると運行が不可能になることを理由に積極的に行われておらず、それなら並行する高速電気鉄道線を敷設すれば大きな収入が見込めると考えられていた。そのため、当時は第一次世界大戦がもたらした好景気を背景として、第2次電鉄ブームとでも呼ぶべき阪和電気鉄道・参宮急行電鉄・湘南電気鉄道など高速運転を行う私鉄の建設計画が、主として大都市圏で立てられていた。
だがその中には泡沫的な、どちらかといえば利権狙いの物が多数含まれていた。このため免許交付にかかる審査について、監督官庁である鉄道省監督局は極めて慎重な姿勢を崩さず、申請内容に不備があるもの、実現性が薄いもの、あるいは交通政策上不必要と判断される路線計画については原則的に排除する方針で臨んでいた。
[編集] 小川大臣と京阪電気鉄道
ところが、1927年4月20日に成立した田中義一内閣で鉄道大臣として小川平吉(1869年~1942年)が就任する事でこの状況は一変した。国鉄路線網の整備について「我田引鉄」と評されるなど、露骨な利益誘導政策を伝統とする立憲政友会の有力者であった小川は、あからさまな利権狙いの計画であっても、政友会の党勢拡大につながる場合には安易に許認可を与えるという態度を就任以来示し続け、この結果既存鉄道事業者が自社線防衛を目的として本来不要な路線免許をやむなく取得する、という状況が多発していた。
京阪の場合も、子会社である奈良電気鉄道が京阪本線の平行線となる大阪延長線(玉造~小倉~伏見)を独自に申請し、また大阪の証券・不動産業界の投資家を中心とする別グループが東大阪電鉄(森ノ宮~四条畷~奈良)を露骨な利権目当てで申請するなど、周囲の状況は混迷の度合いを深めていた。この為に京阪自身も国鉄片町線への乗り入れと、そのために必要となる電化工事費用を自社で負担することを願い出るという形で鉄道省に恩を売り、他社による競合線免許申請を却下させることを画策するという有様であった。
[編集] 免許申請時の様子
その様な状況の下、1928年に鉄道省に対して免許を出願した名古屋急行電鉄であるが、こちらは計画内容そのものは既設の新京阪鉄道線の延長線であり、沿線人口の少なさ故に巨費を投じて建設された高度な施設や車両の大半が遊んでいた新京阪線を有効活用し、そのあまりに巨大な投下資本の早期回収を図る事が目的であった点で、他の利権目的の出願とは一線を画しており、その実現性は高いと見られていた。
だが、これが全通すれば東海道本線・関西本線という国鉄の2大幹線と名阪間で競合する事になるため、鉄道国有化前の官鉄と関西鉄道による熾烈な競争の記憶も未だ生々しい鉄道省上層部は、当然の如く認可に反対の立場を取っていた。また、京阪電鉄の太田社長は政友会の有力者であったが、そうであったが故に別派閥の小川鉄相との関係は必ずしも良好であったとは言い難く、名古屋急行電鉄の免許取得実現までには様々な交渉や運動が必要と見られていた。
[編集] 免許交付と疑獄事件
ところが、張作霖爆殺事件の影響で政局が混乱し、田中義一内閣が総辞職に至る直前の1929年6月、小川鉄道大臣は監督局その他の強硬な反対意見[2]を聞き入れないまま、行きがけの駄賃とばかりに東大阪電鉄に免許を交付し、更に同線と競合し利害関係のある奈良電・京阪の両社を懐柔する目的で、両社から申請されていた奈良電気鉄道大阪延長線と名古屋急行電鉄にも免許を交付するという、史上まれに見る免許の大盤振る舞い[3]を行った。
この、交通政策に関する長期的展望が完全に欠落した免許の乱発は、当然ながら空前の愚策であるとして各方面の非難を浴び、特に東大阪電鉄と奈良電鉄を巡っては、不透明な資金の動きも見られたことから、最終的に「五私鉄疑獄事件」と呼ばれることになる一連の大規模な疑獄事件に発展し、小川本人のみならず京阪においても太田社長が連座し収監された。幸い太田は起訴に至らなかったが、公権力を恣にした免許乱発の張本人である小川本人については1929年9月26日に起訴され、1930年12月20日には実刑判決[4]を受けて政界引退を余儀なくされている。
かくして京阪側の思惑とは別の手順となったが、名古屋急行電鉄線の免許は1929年6月29日に交付された。
[編集] 構想の挫折
しかし、同年10月24日のニューヨークウォール街における株価大暴落に端を発した世界恐慌は、既に昭和金融恐慌のおかげで深刻な状態にあった日本経済に決定的な打撃を与えた。この事態は、好況を背景として社債や借入金で規模拡大を図ってきた新京阪鉄道とその親会社である京阪電気鉄道にも多大な影響を与え、京阪グループ全体の負債は当時の金額にして実に1億円[5]にも達するという、恐るべき状況を招くこととなった。特に新京阪鉄道は京阪間の新線建設に莫大な投資をした上、沿線が人口過疎地域であるため営業は芳しくなく、負債整理と人員削減の目的で京都地下線の工事を残したまま、1930年には京阪電気鉄道本体へ吸収合併された。
このような背景の下、名古屋急行電鉄の計画は新京阪線の建設によって資産に余裕のない京阪電気鉄道には予算的に不可能ということで、1931年7月10日に工事施工認可申請を行ったものの、資金的な手当が出来ず会社も成立しなかったため、工事施行期限が到来する度に延長願を出し続けて好機の到来を待つことにした。しかし、他の小川鉄相に関わる泡沫計画線免許と同様に、実現の見込み無しとして工事施行期限延長願を却下される形で1935年7月8日に免許が失効し、この壮大な計画は未成のまま終焉を迎えた。
[編集] ルートなど
新京阪鉄道は名古屋急行電鉄に免許が下りた当時、天神橋駅(後、天神橋筋六丁目駅・通称:「天六」)~西院駅(仮駅)間の路線を既に開業させ、西院駅~大宮駅間が建設中であった(梅田駅に乗り入れたのは阪急合併後、河原町駅への延伸は1963年)。同社は、そのほかに大宮から延伸して四条河原町までの免許(戦後に河原町へ延伸する際に使用)と、途中の西向日町駅[6]から分岐して、伏見・山科を経て大津市馬場に至る免許を有していた。名古屋急行電鉄はその馬場を起点、名古屋市熱田を終点として計画された。
ルートは、馬場から草津・太郎坊・八日市・永源寺を経て鈴鹿山脈を超え、湯の山温泉がある菰野へ抜けた後、現在の近鉄名古屋線・関西本線[7]よりやや北側を進んで、名古屋の熱田神宮がある熱田に至るもの[8]であった。
このうち西向日~馬場間の新京阪支線については逢坂山越えの難所について、国鉄東海道本線の旧線路敷[9]の払い下げを受けて利用する計画であった。
計画路線の総延長は約105kmであり、名古屋駅~大津駅間の営業キロが137.6km(当時)の東海道本線に比べ、約24%の路線短縮が見込まれていた。
これは鈴鹿山脈を延長5.9kmの石榑トンネルで貫通するなど、高速運転ができるよう、新京阪同様に全線複線・直流1500V電化の直線的ルートを選択したことによるもので、これは蒸気機関車を使用する当時の東海道本線では選択したくとも選択できないルートであった。
この極めて高水準な軌道施設と大出力電車を組み合わせることで、表定速度80km/h程度の速達列車[10]の運行を実現し、大阪(天神橋)~名古屋(熱田)間を約2時間で結ぶ予定であったという。
なお、新京阪鉄道で導入されていたP-6形電車(後の100形電車)の中でも、初期に製造されたP-6Aと呼ばれるグループについては、防寒を目的に2重窓化されるなど、将来の名古屋急行電鉄との直通運転を前提とした仕様になっていた。さらに図面だけで終わったが、車端部に便所を設置し、乗り心地の良いブリル27MCB-4X台車を装着した20m(66フィート)級大型電車の建造プランも検討されていた。
[編集] 影響
この計画への免許交付は、現在の近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)とその子会社の参宮急行電鉄(参急)にも大きな影響を及ぼした。というのも、同社は大阪から鈴鹿山脈に青山トンネルを掘って伊勢神宮のある伊勢へ向かう路線[11]を建設途中であり、さらに将来的には名古屋へ進出する事が既に計画されていたからである。大阪~名古屋間において先に名古屋急行電鉄が完成してしまうと、同社の計画が水泡に帰す恐れがあった。
そのため津~伊勢間において参急と並行する路線の建設を行い、桑名・四日市から伊勢への直通電車を走らせ、将来的に名古屋へ延伸する免許を既に持っていた伊勢電気鉄道に対して、先に大阪~桑名間の運転実績をつくっておいて対抗したいと、提携を求めたりした。しかし三重県に地盤をおく伊勢電は、大阪から進出してきた参急に対抗意識を持っていて優先的に津~伊勢間の並行線を建設するなどしていたため、交渉は進まなかった。
その名古屋急行電鉄の免許が失効した頃、伊勢電は無理な伊勢進出が祟って経営に行き詰まり、参急に合併された。名古屋への進出は、大軌・参急子会社の関西急行電鉄(関急電)によって1938年に実現(現、近鉄名古屋線)し、ここにようやく(大阪)上本町駅~関急名古屋駅(現、近鉄名古屋駅)間189.5km(当時)の都市間路線が完成することになった。
[編集] 脚注
- ^ 1973年に阪急電鉄へ改称。
- ^ 当時の福富監督局長は件の免許申請について交通政策上の問題を指摘の上で、6月末以来小川大臣に対して激烈な抗議を行ったが聞き入れられなかったため、一連の免許交付後に辞表を叩き付けて下野した。
- ^ この免許乱発は田中内閣総辞職のその日(1929年7月2日)まで続き、小川鉄相の任期中に交付された路線免許の総数は実に300近くに達した。なお、最終日の交付免許の中には参宮急行電鉄桑名延長線が含まれており、先に免許が交付された名古屋急行電鉄との将来的な競合について何ら考慮しないままに免許が交付されたことが窺われる。
- ^ 直ちに小川は上訴したが最終的には有罪が確定した。なお、1940年に恩赦により出獄している。
- ^ 当時、省線電車の初乗り運賃が5銭であった。
- ^ 現在の西向日駅。
- ^ 現在の愛知県弥富市付近。
- ^ 厳密には名鉄名古屋本線金山駅が移転改称する前の金山橋駅付近(現在、ニッポンレンタカー金山駅前営業所のあるあたり)が候補地で、他に名古屋駅近くに総合駅を造る案も有していた。
- ^ 後に名神高速道路に流用された。
- ^ 1933年当時、日本最速の電車は京阪系列の阪和電気鉄道(現、JR西日本阪和線)が運行した「超特急」で、その表定速度は81.6km/hであった。
- ^ 現在の近鉄大阪線・山田線。
[編集] 関連項目
- 京阪梅田線(未成線となった、京阪本線と新京阪線の梅田乗り入れ計画)
- 日本電気鉄道
- 愛知電気鉄道デハ3080形電車(東海道電気鉄道~愛知電気鉄道)