城北中学校・高等学校
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城北中学校・高等学校 | |
創立 | 1941年 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人城北学園 |
校訓 | 着実 勤勉 自主 |
教育方針 | 質実厳正 |
創立記念日 | 11月1日 |
創立者 | 深井鑑一郎 |
共学・別学 | 男子校 |
中高一貫教育 | 連携型 |
課程・設置学科 | 全日制普通科 定時制(廃止) |
単位制・学年制 | 学年制 |
専攻科・別科 | 補習科(廃止) |
制服 | あり |
所在地・連絡先 | |
所在地 | 〒174-8711 |
東京都板橋区東新町2-28-1 | |
電話番号 | 03-3956-3157 03-3956-9779(FAX) |
外部リンク | 公式サイト |
城北中学校・高等学校(じょうほくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都板橋区東新町にある私立中学校・高等学校。中高一貫制男子校。学校法人城北学園が運営する。
目次 |
[編集] 概要
校訓は着実・勤勉・自主。大学受験指導に定評があり、東京北部を代表する進学校である。
[編集] 沿革
- 1935年(昭和10年) 府立四中(現・都立戸山高校)の深井鑑一郎校長、補習科(後の卒業生講習会、1967年に都通達で廃止)を分離して、市ヶ谷左内町に私立城北高等補習学校を開校(後の城北予備校、1987年廃校)。
- 深井は府立四中で40年に亘り校長を勤めた上に、儒学者としても名が通っていた。山崎学園富士見高等学校の開校にも関わっている。
- 1941年 - 深井と弟子の井上源之丞によって、城北中学校が新宿区市ヶ谷に創立される。儒学に裏付けされた「質実厳正」の教えを根底に、明治期の「城北尋常中学」(都立戸山高校の明治期の名称)再興を意図した。太平洋戦争開戦の年であったが、時流に流されず「人間を創る」という理念であった。
- 1943年(昭和18年) 現在地に移転(市ヶ谷校地は戦時下で接収)。第2代校長・近藤薫明(後に城北埼玉高校を設立)。城北学園は真言宗安養院 (板橋区)の敷地を一部譲り受けたといえ、近接する東京都立城北中央公園・板橋区立上板橋公園・桜川中学校と共に東京周辺にしては広大な緑地帯に位置している。
[編集] 校風・教育
- 毎日授業の前に、目を閉じ、姿勢を正して、「静座」を行う。1年行うことで1日分の時間に値すると言われる。
- 中高6年間を基礎期(中1・中2)、錬成期(中3・高1)、習熟期(高2・高3)に分け、それぞれの時期に応じた目標に沿って教育を行っている。錬成期より選抜クラスを設け、高校2年次から文理でのコース分けを、高3ではさらに細かくコース分けを行う。
- 教員の中には2ちゃんねる等で悪質な中傷を受ける者もいるが、気にとめずに指導にあたる姿勢が尊ばれている。ただし、過去には教員が傷害ともいえる行為をして問題になったこともあり、現在も生徒はもとより保護者から批判を受ける教員が多い。
- しかし、同時に質実剛健を基本とする男子校らしさが無くなり、現在の風紀(服装・持ち物規定)が乱れがちであることを嘆く者もいる。
- 基本的なこととして「携帯電話の持参禁止」がある。トラブルの元になる携帯電話を持参禁止にすることには賛成意見が多い。生徒会では携帯電話の制限緩和を要請しつつあるが、多くの学生はどちらでも良いと思っている。現在のように、「持参禁止でありながら多くの生徒が持参し、細々と使用する」範囲にとどめておいた方が、トラブル防止になるという意見が多いからである。性格・従順さに関わらず、利便性の理由で、実際に携帯電話を持参していない生徒は限りなく少ないと言われている。生徒と保護者の一致した意見は「禁止だが必要なので持っていく」スタイルである。
[編集] 年間行事
☆印は、生徒が運営する行事
- 大町山荘オリエンテーション(中学入学生中1、高校入学生高1)
- 自然体験学習(中学入学生高1)
- 遠足(中2、中3)
- 演劇鑑賞会
- 理科校外学習(中1、中2、中3)
- 夏期林間学校(中2)
- 大町学習室(高3)
- 体育祭☆
- 文化祭(城北祭)☆
- 音楽鑑賞会
- マラソン大会(中1、中2)
- トレッキング大会(中3、高1)
- 冬期林間学校(中3)
- 私の主張コンクール(中1、中2)
- 研修旅行(高2)
- ホームステイ(オーストラリア連邦パース)
体育祭を9月半ばに、文化祭を9月末に行うのは、学習に差し支えの無いようにという配慮であるが、他校ではあまり例を見ない。文化祭におけるアーチ(入場門)と大垂れ幕は有名で、都内でも屈指の入場者数を誇っているが、2003年頃をピークに入場者数は減少傾向である。
[編集] 城北祭
- 1980年頃には、女子高生を中心に1万人の来客数があったが、主要な教員が城北埼玉高へ移り、一貫生(中学入学生)と一般生(当時の高校入学生の呼び名)は別クラスとなった為、しばらく下火の時代が続いた。現校舎の建設時(1988年頃)に、敷地が狭くなった事から、期間中の自由下校が始まったほか、多目的ホール(当初の案では中学体育館)が造られて、バンド演奏などが行われる様になった。有志委員だった文化祭実行委員会に、1999年頃からクラス選出委員が加えられた。1960年代に途絶えた露店は、1989年にPTA運営で高校棟中庭に復活し、翌年から生徒が出店した。その後、校舎外に移されて4→6店舗へと増え、2006年度では8店舗となっている。
- 正門のアーチは60年、校舎の垂れ幕は20年以上続いている。図書委員会の古本市も18年ほどで、(2001年から)城北埼玉高に伝播した。物理部かと思わせるラジオ部や、OBが演奏の編曲も行っている吹奏楽部、前年度の展示を翌年、冊子にして配布する地理部などの方式が、長く続いている。
- 1989年までは、漫画研究同好会がパンフレットのカット絵を担当していたが、翌年から写真となった。
- 祭前後に行われる東新町2丁目町会のお祭りで、学校が毎年50万円の寄付をしていた。それならいっそと、2002年・2003年頃には文化祭実行委員(生徒有志)内に「地域振興部門」が起こり、校内で神輿担ぎを行ったり、後夜祭で盆踊りが行われた事がある。
- また、同時期2003年頃はインディーズ有名アーティストのライブや、他校を巻き込んだ「高校バンド選手権」等が行われ、城北祭の復興が期待されたが、その年の委員らの卒業以来再び低迷期を迎えている。
- 従来、都立戸山高校、城北高、城北埼玉高校の文化祭は9月第4週に行われ、交流などはなかったが、2004年度より城北埼玉高で、2006年度より戸山高で第3週の開催となった。
[編集] 主な卒業生
[編集] 卒業生の進路
- 東京大学、一橋大学、東京工業大学など難関国立大に安定的に多くの合格者を出している。慶應義塾大学、早稲田大学、上智大学、東京理科大学などの私大合格者数では全国でも毎年上位についている。
- 2004年には東大・東工大に30人近く、早慶に100人以上を送り出していた同校であるが、最新の実績では東大・東工大はおよそ半分、慶應大への合格者数も100人を切って低迷期を迎えている。逆に立教・中央大等の合格者は1.5~2倍に増加しており、浪人率の増減が無いことから、卒業生の進路が(入試偏差値的には)下方にシフトしている。
[編集] 交通
大変道が分かりにくいため、初めて来訪する際には10分程余計に見たほうが良い。 なお、生徒は許可を得れば小竹向原駅から自転車通学をすることができる。小竹向原から10分足らずで通学可能。
[編集] エピソード
[編集] 参考文献
- 「城北学園35年史」(城北学園)
- 「城北新聞縮刷版(1985年)」(城北学園)
- 「私と城北(1987年)」(近藤薫明著・城北埼玉学園)
- 「府立4中・都立戸山高百年史」(都立戸山高校)
- 「城北史(1992年)」(城北学園)