第一次ソロモン海戦
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第一次ソロモン海戦 | |||
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探照灯に照らされる米海軍の重巡クインシー |
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戦争: 太平洋戦争 | |||
年月日: 1942年8月8日-9日 | |||
場所: ソロモン諸島、サボ島周辺 | |||
結果: 日本の勝利 | |||
交戦勢力 | |||
大日本帝国 | アメリカ合衆国 オーストラリア イギリス |
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指揮官 | |||
三川軍一中将 | クラッチレー少将 | ||
戦力 | |||
重巡洋艦5、軽巡洋艦2、駆逐艦1 | 重巡洋艦6、軽巡洋艦2、駆逐艦8 | ||
損害 | |||
重巡洋艦1沈没、重巡洋艦1小破 | 重巡洋艦4沈没、重巡洋艦1大破、駆逐艦2中破 | ||
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第一次ソロモン海戦とは、太平洋戦争時、1942年8月8日~9日に日本海軍と連合軍(アメリカ海軍、英国海軍、オーストラリア海軍)の間で行われた海戦。連合軍の呼称はサボ島沖海戦(Battle of Savo Island)。
目次 |
[編集] 背景
日本海軍はニューカレドニア、フィジー、サモア方面への進出のため、ガダルカナル島に飛行場を建設。8月7日、海兵隊を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸のツラギ島に上陸し占領。これに対し、日本軍は三川軍一中将旗下の第八艦隊に第一八戦隊を編入した部隊が、反撃のためラバウルを出撃した。
[編集] 戦闘経過
翌8日23時頃、日本海軍第八艦隊がガダルカナル島沖に突入、サボ島南方で哨戒中の連合軍南方部隊と遭遇する。直ちに砲雷撃を開始し、重巡「シカゴ」「キャンベラ」、駆逐艦「パターソン」を大破させる。その後連合軍北方部隊を追いかけ、サボ島沖を反時計回りに回りながら砲雷撃を続け、重巡「ヴィンセンス」「クインシー」「アストリア」を大破させる。日本軍の損害は重巡「鳥海」が被弾し小破、またラバウルへ帰途途中の10日、重巡「加古」が米潜水艦S44の雷撃によって撃沈された。だが連合国側も最終的に「キャンベラ」以下4隻の重巡を失った。
[編集] 結果と影響
本海戦では日本海軍が一方的な勝利を収め、その夜戦能力の高さを示した。(伊藤正徳は、日本海海戦と並ぶ、完全勝利としている。)しかし、主目的であった米輸送船団への攻撃は行われなかったため、まだ揚陸されていなかった重装備などは無傷であった。この、今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性のあった輸送船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母機動部隊による航空攻撃への恐れより、早期退避の必要があったこととされている。また当時の永野修身軍令部総長が第八艦隊司令官三川中将に対して「日本は工業力が少いから艦を毀さないようにして貰いたい」との軍人が軍人に対して言うとは俄かには信じがたい注意をしていたともされ、このことが三川司令官の決定に影響を与えたとも考えられる。
こういった見地から、この海戦は日本側の戦術的勝利、戦略的敗北となり、後の一連のソロモンの戦い(第二次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦)に大きな影響を与えることとなる。
[編集] 参加艦艇
[編集] 日本軍艦艇
[編集] 第八艦隊 司令長官:三川軍一中将
[編集] 連合軍
- 第62任務部隊(ターナー少将(米))
[編集] 損害
[編集] 日本
- 沈没喪失
- 重巡:加古
- 小破
- 重巡:鳥海
[編集] 連合軍
- 沈没喪失
- 重巡:キャンベラ(自沈処分)、ヴィンセンス、クインシー、アストリア、
- 大破
- 重巡:シカゴ
- 駆逐艦:ラルフ・タルボッド
- 小破
- 駆逐艦:パターソン
[編集] 関連項目