高等商業学校
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高等商業学校(こうとうしょうぎょうがっこう)
- 商業・商学に関する高等教育機関の総称。日本では、英語 "higher commercial school"・"commercial college"、仏語 "école supérieure de commerce"・"institut supérieur de commerce" などの訳語として用いられる。フランスの場合、高等商業学院とも(→グランゼコール)。
- アンヴェルス高等商業学校(Institut supérieur de commerce d'Anvers)をモデルとして設置された日本の高等教育機関の、1887年(明治20年)以降の名称。1902年に東京高等商業学校と改称。現一橋大学の前身校。
- 第二次世界大戦後に学制改革が行われるまで存在した日本の旧制専門学校(実業専門学校)のうち、商業・商学に関する高等教育機関の総称。2. を嚆矢とする。略して高商とも呼ばれる。本項にて詳述。
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[編集] 概要
- 各地の高商は商業実務家養成機関として設立され、その多くは官立学校であった。また、民間の実業家・財界人が自らの企業のエリート養成校として高商を誘致・設立したケースも多い。
- 第二次世界大戦中には高商の多くが経済専門学校(経専)と改称された。
- 官立高商のほとんどは国立大学の経済学部・経営学部に継承され、現在もその面影を残している。
- 新制高等学校である「商業高等学校」と混同しないよう注意を要する。また、第二次世界大戦後、一部の専修学校が 「高等商業学校」 の名称を使用しているが、全く別制度の学校である (例:古川高等商業学校、苫小牧高等商業学校)。
[編集] 歴史
[編集] 東京・神戸・大阪三高商の成立
先発の東京高等商業学校、神戸高等商業学校の2校のみが例外として4年制 (予科1年・本科3年) とされ、その後設立された官立高商と市立大阪高商以降の公私立の高商はすべて3年制であった。 東京高商には本科に接続するかたちで2年制の専攻部が設置され、神戸の卒業生も受け入れていたが、明治42年には、文部省がこの高商専攻部を東京帝国大学の内部に事実上吸収する意向を示した。 当初、文部省の方針は東京帝国大学内に商科を東京高商を母体として新設するというものであり、東京高商側にも賛同する意見があったが、これをよしとしない帝国大学法科大学教授会側は帝大商科を東京高商とは別に帝国大学内に独自に置くことを決議し、いつの間にか重複する東京高商専攻部は廃止するという方向に代わってしまった。 救済措置として高商本科生のうち進学希望者については帝大商科に無試験で入学させるとされたが、これに猛反対を示したのが東京、神戸の両高商の在学生であった。帝大への進学は現在の高商在学生のみに限るという過渡的な措置となる見込みであった一方、東京高商の念願であった大学昇格の可能性はこれにより完全に断たれることになるからである。この危機に直面し、東京高商の在学生は抗議の総退学を決議し、神戸側もこれに呼応する態度を見せた。(申酉事件)
結局、文部省は財界の大物渋沢栄一の仲介を受けこの事態を収拾する。すなわち高商の専攻部はそのまま存続することになったのである。 (東京高商には2年制の専攻部があり、神戸の卒業生も受け入れたが、予科1年・本科3年・専攻部2年の計6年が旧制高校3年・帝国大学3年の計6年に匹敵するとみなされたため、専攻部卒業生にはすでに学士の称号が授与されていた。※1915年、専攻部は3年制官立高商の卒業生にも門戸を拡げた。但し本科3年生として編入。大阪高商卒業生の受け入れは1917年から。)
なお、東京、神戸両高商が学制上、他の官立高商よりも一段高い存在だったことは、のちにこの両校が旧制商大に昇格する最大の根拠となった。商大昇格を狙う大阪高商も1920年、本科の上に1年制の研究科を置いて体裁を整えた。
[編集] 拡充と発展
明治期には東京・神戸に続く官立高商として山口高商・長崎高商・小樽高商が設立された。1903年 (明治36年) に専門学校令が公布され、これ以降高商は専門学校令による専門学校となった。大正前期まではビジネスエリートを養成する商業専門教育はほぼ官立学校のみによって担われており、そのため地方の財界は、政府から莫大な設立費用を負担させられたにもかかわらず、競って官立高商を地元に誘致した。
第一次世界大戦以降の好景気を受け、1920年代には原敬内閣のもとで高等教育機関の拡充政策が進められた。1920年-1929年に東京高商は東京商科大学へ、続いて大阪高商・神戸高商は大阪商科大学および神戸商業大学へと、大学令による大学に昇格し、官立高商も1920年-1924年に国内で8校が新設された。この結果、1920年代末までに官公立の高商・商科大(商業大)は、北海道・東北地方・中国地方・四国地方で官立高商各1校、中部地方・九州地方で官立高商各2校、近畿地方では官立では高商2校・商大1校、公立では高商・商大各1校、関東地方では官立では高商・商大各1校、公立高商1校が出揃った。私立高商の新設も次第に進んだ。一方で帝国大学においても1919年に東京帝大・京都帝大で経済学部が法学部から独立する形で設置された。
この時期にはまた、アジアを初めとする海外市場への進出が拡大されたことを背景に、貿易・移民業務など海外活動の実務家に対する社会的需要も高まった。1929年には山口・長崎・横浜の3高商において中国・南洋・南米貿易従事者養成のための特別課程「貿易別科」が設置された。山口を始めとするいくつかの高商は、中国大陸などへの修学旅行を制度化していた。また各地の商品を学外にも広く公開する陳列室を設けたり、移植民問題についての展覧会を開催した高商もあり、地域社会に対し貿易・移民など海外活動の意義を啓蒙する役割を担った。
日本の支配下にあったアジア地域でも台北・京城・大連と官立高商3校が設立されたが、現在後身校が存在する台北高商以外は完全に廃止されている。(旧外地の高等教育機関も参照)
各官立高商は複数の外国人教師を抱え、英・仏・独語はもちろん、中国語やロシア語・スペイン語・ポルトガル語・マレー語など、旧制高等学校・帝国大学では必ずしも重視されなかったマイナーな外国語の科目も設けられるなど、貿易実務家のための語学教育が重視された。
[編集] 戦時体制下の「商業」冷遇
軍部はモノを生産せず、単に品物を右から左に動かすだけで利をむさぼるとして「商業」を徹底的に嫌い、高商も目の敵にされたといわれる。このため、太平洋戦争末期の1943年に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」に基づき、1944年、各高商は戦時体制に組み込まれ、小樽や高松など5校が経済専門学校として残されたほかは、軍需物資生産の担い手となるため工業経営専門学校との並置、工業専門学校への転換を余儀なくされ、教授陣の入れ替えが行われた。
具体的には、三商大のうち東京商科大は東京産業大、神戸商業大は神戸経済大に改称され(前者は戦後の1947年、東京商大の旧称に復した)、官立高商のうち高岡・彦根・和歌山の3校は工業専門学校に転換(彦根・和歌山は戦後経専に再転換したが、高岡は工専のまま廃校となった)、その他の高商はすべて経済専門学校に改称された。 結局、市立の大阪商科大を例外として、全ての官立商大・高商の校名から「商」の文字が消えた。
また長崎・横浜・名古屋の3校のように工業経営専門学校を併設するケースもあり、東京商大では附属工業経営専門部を設置、改称を免れた大阪商大も附属の高等商業部を大阪工業経営専門学校に転換した。戦後1946年-1947年にかけて、大阪工業経営専門学校は大阪商大高等商業部に再転換、その他の工業経営専門学校も廃止され各経専に統合、東京商大(この時点では産大)の場合も廃止され統合された。
なお官立経専の中で戦災(空襲)によって校舎の大半を焼失したのは高松経専のみである(長崎経専は原爆に被災したが、爆心地からは山の陰となる場所に位置していたため爆風による校舎の倒壊は回避された)。
[編集] 新制大学への移行
戦後の日本では、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) 占領下で学制改革が行われ新制大学が発足した。この時、GHQは教員養成を米国に倣って大学で行うよう指導し、全国の師範学校の新制大学昇格が実現した。戦前、師範学校よりも格上の学校とされていた全国の官立専門学校も当然新制大学への移行を準備するが、各校が希望していた単独での大学昇格は、文部省の「一県一(国立)大学」方針により頓挫する。結局、大都市と北海道とを例外として同一県内にあった師範学校など他の教育機関と合併して新制国立大学を形成することを余儀なくされた。
また、帝国大学のうち理科系のみの大学と近隣の商大・経専との合併案もあった。 この案が実現した例が名古屋帝大と名古屋経済専門学校の名古屋大学である。 理科系のみの大阪帝大と社会科学系の神戸経済大学の場合は、「阪神大学」として対等合併を主張する神経大側と吸収合併を画策する阪大側との間で意見がまとまらず、実現しなかった。 その後神戸経済大学の後身である神戸大学は工専・医科大学・農科大学など県下の諸学校を吸収し理科系を充実させ、一方の大阪大学も自前で法経学部を設立し後の法学・経済学部となった。
[編集] 校地・校舎の継承
新制大学移行後も多くの国立大学では、前身校以来のキャンパスを引き継いだため、いわゆる蛸足大学と呼ばれる状態が続いた。これを解消するため高度経済成長のなか、積極的にキャンパスの統合移転が行われた。このため旧高商(経専)の後身校では、多くの場合旧制時代以来の校地・建造物が失われる結果となった。
現在も旧制時代の校地で学生が学んでいるのは、一橋大学(旧東京商科大)、大阪市立大学(旧大阪商科大)、神戸大学(旧神戸商業大)のいわゆる「旧三商大」のほか、長崎大学(旧長崎高商)、小樽商科大学(旧小樽高商)、滋賀大学(旧彦根高商)、香川大学(旧高松高商)である(ただし旧三商大は旧制大学昇格前後に一度校地を移転しており、高商時代以来の校地を継承しているのは厳密に言えばその他の4大学のみ)。これらのなかでも単独で新制大学に移行した一橋大および小樽商科大、単独昇格には失敗したものの教養から専門までの4年間を他学部と交わらずに教育を行う滋賀大経済学部などは旧高商の面影を伝えている。
高商以来の建造物としては、長崎大学片淵キャンパスの瓊林会館(旧高商研究館、大正8年築)、滋賀大学彦根キャンパスの講堂(大正13年築)・陵水会館(昭和13年築)が現存する。また、一橋大、神戸大、大阪市大のキャンパスには移転後の旧制商大の建物がいくつか現存し、各大学を象徴する建物となっている。
[編集] 主要な高等商業学校
カッコ内は設立年と現在の新制後身校。
[編集] 官立
- 大連高等商業学校(1941年・1946年廃止)
- 1936年11月に私立で発足。
[編集] 公立
- 市立大阪高等商業学校(1901年・現大阪市立大学)
- 1928年、大阪商科大学に昇格。学部の他に大学予科、高等商業部を設置した。
- 横浜市立横浜商業専門学校(1928年・現横浜市立大学)
- 兵庫県立神戸高等商業学校(1929年・現兵庫県立大学)
- 官立神戸高商が大学に昇格し事実上高商が廃止されたため、新たに設立された。
[編集] 私立
- 東洋商業専門学校(1903年・1908年廃止)
- 1903年12月設立認可、1904年9月開校。生徒が集まらず、1906年に東洋商業学校に転換(現、東洋高等学校)。商専は1908年、第2期生の卒業と共に廃止され明治大学に合併。
- 京城高等商業学校(1907年)
- 東洋協会により設立されのち官立に移管。「官立」の項参照。
- 高千穂高等商業学校(1912年・現高千穂大学)
- 成蹊実務専門学校(1916年・1925年廃止)
- 大倉高等商業学校(1920年・現東京経済大学)
- 松山高等商業学校(1923年・現松山大学)
- 巣鴨高等商業学校(1928年・現千葉商科大学)
- 日本女子高等商業学校(1929年・現嘉悦大学)
- 鹿児島高等商業学校(1932年・現鹿児島国際大学)
- 浪華高等商業学校(1932年・現大阪経済大学)
- 1935年、昭和高等商業学校として再発足。
- 福岡高等商業学校(1934年・現福岡大学)
- 関西学院高等商業学校(1935年・現関西学院大学)
- 甲陽高等商業学校(1940年・1948年廃止)
- 福知山高等商業学校(1941年)
- 1944年、松山経済専門学校(松山高商)に移籍、福知山工業専門学校を設置。戦後の1950年に山陰短期大学商科(後の京都短期大学商経科、現在の京都創成大学)を設立。
このほか、善隣協会専門学校が 1939年 - 1944年の間 善隣高等商業学校と称したが、その後外事専門学校に転換した(当該項目および旧制外国語学校参照)。
[編集] 私立大学専門部
私立高商に準じるものとして、私立旧制大学専門部の中に設置された高等商業部・高等商業(学)科がある。
[編集] 関連書籍
- 海後宗臣(監修) 『日本近代教育史事典』 平凡社、1971年、ISBN 4582117015
- 『日本近現代史辞典』 東洋経済新報社、1978年
- 尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照
- 秦郁彦(編)『日本官僚制総合事典;1868 - 2000』 東京大学出版会、2001年
- 「主要高等教育機関一覧」参照